第ニ十一回
掌上の法典
粛宗の王命は絶対だった。
「世界を巡り、余のために余白なき記録を綴ってこい」
釜山の港を発った船の中で、ビアンの懐には短くなった鉛筆の欠片と、真っ白な帳面があった。だが、運命のペンは気まぐれだった。数日後、船は巨大な嵐に飲み込まれた。
……キュリ、キュリ……。
嫌な摩擦音が意識の底を擦った。目を開けると、見たこともないほど白く眩しい砂浜だった。潮の匂い。体中の痛み。波に流されたのだ。
起き上がろうとして、動けないことに気づいた。四肢が、蜘蛛の糸のような頑丈な繊維で地面に縫い付けられている。
「何なの、これ……?」
妙な羽音が聞こえた。いや、人の声だ。
「非公式の巨体、捕縛に成功!」
「直ちに記録局へ移送せよ!」
岩陰から這い出してきたのは、見たこともないほど小さな人々だった。身の丈はビアンの腕ほどしかない。だが貝殻で作られた精巧な甲冑を纏い、手にはペンのような槍を握っている。十人がかりでビアンの髪の一房をロープのように掴み、小さな石碑に何かを刻みつけていた。
「小さな、人たち……?」
ここは、銀の法が届かない、まったく異なる秩序を持つ世界だった。小さな人々はビアンを縛る糸に銀の文字を刻み込み、その記述で物理的な強度を増している。
ビアンは懐から鉛筆の欠片を取り出し、糸の隙間に線を引いた。
(下書き:この糸は、一点の結び目が脆弱である)
魔法ではない。綻びを見つける知略だ。鉛筆の芯が繊維の継ぎ目を特定した。
プチリ。
特定した一点が弾け、他の糸も連鎖的に解けた。
「記述が書き換えられた!」
「非公式の力が働いている!」
パニックに陥る小さな人々の前で、ビアンはゆっくりと立ち上がった。彼らから見れば、山が動くようなものだ。
「私は、チェ・ビアン。北の国から、この世界の記録を綴るためにやってきました」
割れかけた鉛筆を彼らの前に掲げる。最も華麗な甲冑を着た王らしき男が、銀のペンを構えてビアンを見上げた。
「北の国の記録官よ。その黒い木が振るうのは、我らの記述を脅かす毒か、それとも新たなる可能性か。証明してもらおう」
精密な文字の法で動くこの国では、ビアンの鉛筆さえも巨大に見えた。白紙の砂浜から、新しい下書きの冒険が始まった。




