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『刻印の乙女 〜備案(ビアン)の書〜』  作者: 水前寺鯉太郎


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第二回

第二回:問安婢ムナンビの白き嘘

 夜明け前の漢陽ハニャンは、冷たい霧に包まれていた。

 南人の高官たちが不審な死を遂げ、都には「剣契コムゲ」の仕業とする銀の布告が貼り出された。王族の持つ「銀のボールペン」で記されたその文字は、街路の壁で鈍く発光し、それを見た民草の心に「恐怖」という逃れられぬ事実を刻み込んでいた。

 だが、その喧騒から切り離されたかのように、ある名家の屋敷の奥深く、ビアンは鏡の前に座っていた。

 彼女の身を包むのは、粗末な奴婢の服ではない。萌黄色のチマ(スカート)に、鮮やかな桃色のチョゴリ(上着)。

 「問安婢ムナンビ」。

 正月に外出を控える両班(ヤンバン:貴族)の婦人に代わり、親戚や知人の屋敷へ新年の挨拶を届ける代役。それが今のビアンに与えられた「仮面」だった。

 「……似合わないな。私には、墨の匂いの方がお似合いだ」

 ビアンは鏡の中の自分に苦笑し、その豊かな袖の奥に、使い古した一本の鉛筆を忍ばせた。

 彼女をこの屋敷に送り込んだのは、父・チェ・ヒョウォンだった。

 父は都で最も高名な**「仵作オジャク」――死体検分の専門家だ。彼だけが、南人の高官たちの遺体に残された「銀のインクの残留思念」から、これが剣契の犯行ではなく、身内による【歴史の上書き】**であることを察知していた。

 「ビアン、いいか。問安婢は、挨拶を届けるだけの者ではない。その耳で『決定される前の言葉』を拾い、その鉛筆で『下書き』として残すのだ」

 父の言葉を胸に、ビアンは雪の残る街へと踏み出した。

 挨拶回りの一軒目。南人の重鎮、吏曹判書(イジョパンソ:人事の最高責任者)の邸宅。

 豪華な食事と、掌楽院チャンアギョンから派遣された楽士たちの演奏。その華やかな宴の陰で、ビアンは廊下の隅に跪き、頭を垂れていた。

 だが、彼女の耳は壁の向こうの密談を、まるでテグム(笛)の旋律を読み解くように捉えていた。

 「……ソ・ヨンギが嗅ぎ回っている。あの男、銀のペンの記録を疑い始めているようだ」

 「案ずるな。すでに『ソ・ヨンギは剣契と通じている』と、銀のペンで裏の帳簿を書き換えた。明朝には、それが世界の真実になる」

 ビアンの背筋に氷水が流れた。

 魔法ではない。だが、銀のペンで記された嘘は、明日には誰にも否定できない「物理的な法」としてソ・ヨンギを捕らえるのだ。

 彼女は袖の中で鉛筆を走らせた。

 シュッ、シュッ。

 

 (下書き:明朝、ソ・ヨンギに従事官剥奪の命令が下る。理由は裏帳簿の捏造。……これを消さなきゃ)

 だが、彼女が持つ消しゴムは、すでに使いすぎて小さく、煤けていた。

 これを一度擦れば、ソ・ヨンギの危機は救えるかもしれない。だが、その代償として、自分は何を忘れることになるのか。父の誕生日の思い出か、あるいは、自分が自分であるための「何か」か。

 「……誰だ、そこで書いているのは」

 背後から鋭い声。ビアンは反射的に、鉛筆の先で袖の裏に「消しゴムのリズム」を叩き込み、文字を塗りつぶした。

 振り返ると、そこには若き従事官、ソ・ヨンギが立っていた。彼は王命を受け、表面上の「剣契狩り」を命じられながらも、その瞳には冷徹な不信の炎が宿っている。

 「……問安婢か。主人は誰だ」

 「……し、しがない賤民の娘でございます」

 ビアンは震える手で、父から託された「白紙の通行手形」を差し出した。

 そこには文字がない。だが、ソ・ヨンギはその紙を光にかざし、目を見開いた。

 

 「……これは、筆圧の跡か。……『ビアンを逃がせ』?」

 それは、チェ・ヒョウォンが銀のペンの監視を逃れるため、インクを使わずに鉛筆の**「筆圧」**だけで刻んだ、目に見えない遺言だった。

 ソ・ヨンギは悟った。この娘が、そしてこの「書き直せる道具」を持つ一族が、狂った歴史を正す唯一の希望であることを。

 「行け。……お前の父は、今、義禁府(ウィグムブ:重罪人を扱う官庁)に連行された」

 

 「……えっ!?」

 「彼は自ら囮となり、お前の『下書き』を守ったのだ。南人たちは、銀のペンで父の罪を確定させようとしている。急げ、ビアン。お前がその消しゴムを使い果たす前に、真実を書き換えろ」

 ビアンは走り出した。

 チマが泥を跳ね、豪華な衣装が千切れるのも構わず、雪の漢陽を駆け抜けた。

 脳裏をよぎるのは、幼い頃、父が鉛筆を削ってくれた時の温かい背中。

 

 (消しゴムは使うな。記憶を捨てるな。お前が書く『下書き』こそが、いつかこの国の正史になるんだ)

 

 父の最後の言葉が、銀のペンで支配された冷たい街に、熱い火を灯していく。

 

 ビアンは立ち止まり、ボロボロの帳面を開いた。

 そして、45作の物語を書き終えてもなお、決して答えの出ない「祈り」を、鉛筆の芯に込めて叩きつけた。

 (下書き:父様は死なない。私が、この不条理をすべて削り取ってみせる)

 その文字は、まだ銀の輝きを持たない。

 だが、真っ白な雪の上に落ちた一筋の黒い跡は、神が定めた運命よりも、ずっと深く、激しく、そこに刻まれていた。

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