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『刻印の乙女 〜備案(ビアン)の書〜』  作者: 水前寺鯉太郎
立志編

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第一回

黒鉛の目撃者


 粛宗七年。漢陽の夜は、墨を流したような静寂に包まれていた。

 だがそれは平穏ではない。巨大な「意志」によって空気も地面も人の運命も固定された、沈黙だった。

 南人の黒幕、右議政が手にするのは、鈍い光を放つ銀のボールペン。この世の物理法則を定義する「定着の魔導具」だ。

「――よろしい。この男の死は『奴婢の反乱』として刻まれた」

 最後の一点を打つと、銀のインクが発光し、空間が震えた。大司憲の死体の傷口が、じわりと形を変えていく。逃亡奴婢の粗末な刃で刺されたように。魔法ではない。銀のペンで記されたことが、この世の「正史」として物理的に固定されたのだ。

 その光景を、板塀の隙間から見つめる瞳があった。

 掌楽院の奴婢、ビアンだ。楽器の運搬の途中で迷い込んだ彼女は、「真実の書き換え」の現場に凍りついていた。

(……嘘だ。あの方はあの銀のペンで、存在そのものを否定されたんだ)

 恐怖で歯の根が合わない。だが指先は無意識に、懐の鉛筆を探り当てていた。庶民に広まった、安価で不完全な黒鉛の棒。

 震える手で帳面に線を走らせる。シュッ、シュッ――。犯人の横顔を、叩きつけるように。

 銀のペンが「決定」なら、鉛筆は「保留」だ。この線は世界に干渉しない。だが彼女が鉛筆を握るとき、脳内だけは偽りの正史から切り離されていた。

「――誰だ」

 右議政の声が、冬の夜風よりも冷たく響いた。

 ビアンは駆け出した。背後で、銀のペンが虚空を走る音がする。

「『汝、その足、動くこと能わず』」

 全身に数千斤の重しが乗ったような圧力。膝が折れ、顔を地面に叩きつけられ、指先一つ動かせない。世界そのものが「ビアンは動かないもの」と再定義されたのだ。

 軍靴の音が近づいてくる。

(……こんなところで、消されてたまるか……!)

 激痛に耐えながら右手を動かした。骨が軋み、筋肉が裂ける感覚。定められた運命に逆らう行為は、肉体を壊す行為に等しい。

 彼女が掴んだのは、煤けた白い塊。消しゴムだ。

 自分を縛る「銀の言葉」が浮かぶ空気の層を、猛然と擦る。

 キュリ、キュリ……!

 金属を擦り合わせるような音が響く。指先が焼けるように熱い。摩擦熱で消しゴムが溶け、黒いカスが舞う。

 同時に、ビアンの脳裏を激痛が走った。

(……お父さんが、誕生日に買ってくれた……赤いリボンの記憶……)

 消しゴムが「確定事項」を削り取るたびに、ビアンの人生の頁が破り取られていく。幸せだった記憶。温かかった手の感触。それらが白紙へと戻される。

 絶叫しながら、手は止めない。爪が剥がれ、指先から血が滲み、消しゴムに赤い筋が混じる。

「……銀の刻印を、力ずくで消しているというのか!」

 追手たちが驚愕に目を見開いた瞬間、束縛が白紙に戻った。

 ビアンは立ち上がり、泥を噛みながら路地へと飛び込んだ。背後に、消しゴムのカスが雪のように積もる。それは彼女が失った、自分自身の欠片だった。

 逃げ延びた先、古びた堂の床下で、血に濡れた帳面を開く。命を削って描いた犯人のスケッチが、そこに残っていた。

(……お父さん。あなたの顔を、少しだけ忘れちゃったみたい)

 涙が鉛筆の線を滲ませる。それでも彼女は、折れかけの鉛筆を握り直した。

(下書き――私はまだ生きている。いつかこの銀の文字を、すべて書き換えてやる)

 暗闇の中から、もう一つの足音が近づいてきた。

「……その道具、面白いものを持っているな」

 豪華な装束を闇に隠した青年が立っている。粛宗。この世界の「正史」を司るはずの王が、なぜか「下書き」の少女を、眩しそうに見つめていた。

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