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Called,“Remove and add.”  作者: 伝記 かんな
8/13

秘密の話

舞乃空を必要としている気持ちに気づき、正直に向き合う明来。

忍び寄る“暗闇”の脅威から、束の間解放されて

穏やかな休日を迎える。

その時、彼から“聞いてくれ”と言われた、秘密の話。

彼の知られざる一面を、知ることになる。



                8




“現実を塗り替えろ”


口ずさむ。

掠れて高音部は出ないが、気にしない。

念願の声変わりが進んでいる証拠だ。

自分の歌声は、

吹き抜ける風に溶け込んでいる方が丁度いい。



自分は、何を話せばいいのか。

ありのままを、伝えるべきか。

分かる事は、そう。

彼女と過ごす時間は、限られるという事。

言われるままに会って、

彼女の話を聞いて、

カラオケで彼女の歌を聴いて・・・・・・


そんな今までの時間は、もうなくなる。


不思議と、悲しみはない。

その理由は、よく分かっている。

自分はもう、歩き出しているから。

纏わりつく闇と、向き合う為に。


彼女も、真っ直ぐに歩き出している。

光ある道を。




公園に近づくと、鼓動が少し強めに鳴る。

湿った空気が、頬を撫でた。

今朝は快晴だったのに、今は

濃いグレーの雲が覆って、星一つ見えない。

明日は、雨かもしれない。


休日の雨は、嫌いじゃない。

しとしとと、特別な時間を過ごせる。

出掛ける予定はあるけれど、

それも苦じゃない。

楽しい時間になると、確信があるから。



公園に足を踏み入れると、ざぁっと

桜の木々たちが青葉を揺らした。


こんばんは。

しばらく来なかったね。


そう聞こえたので、明来は

心の中で言葉を返す。


―いろいろ忙しくて。


良い事だね。

会えて嬉しいよ。


―・・・・・・また、しばらく来れないかも。


いつでも、待っているよ。


―・・・・・・今日は、待ち合わせしとるんよ。


彼女は、もう来ているよ。




特等席である奥のベンチへ、目を向ける。

すると、ちょこんと腰を下ろす

小さな影を捉えた。


目を見開く。

彼女は、自分よりも早く来て待っていた。


「こんばんは、明来ちゃん。」


電灯の光は朧気だが、

彼女の笑顔は輝いている。


「・・・・・・待たせて、ごめん。」


待ち合わせの時間よりも、

早く来たつもりだった。


「ううん。早く来すぎちゃった。

 私こそ、ごめんね。無理言っちゃって。」


葉音は、真ん中から端へ座り直す。

間隔を空けて、明来は静かに腰を下ろした。


無言の時間が、少しだけ生まれる。


彼女との距離が、遠く感じた。

昨日までは、かなり近くに思えたのに。


「・・・・・・お仕事お疲れさま。」


でも、彼女が話を切り出すのは

いつも通りだ。


「お父さんがね、明来ちゃんの事

 褒めとったよ。作業が丁寧で綺麗だって。

 ・・・・・・今日は、どんな事をしたん?」



少し、違和感を覚えた。

いつもなら、彼女が先に自分の話をする。

聞いてもらいたいという気持ちが、

溢れている。だが、今日は違う。

自分の話を、聞こうという姿勢だ。



「・・・・・・話しても、

 分からんと思うけど・・・・・・」


「聞きたいなぁ。」


優しく微笑む彼女のお願いには、

何時でも敵わない。



今日初めて使った道具の事、

今度溶接の練習をさせてもらえる事など、

説明を交えて話していく。

葉音は絶えず、相槌を打って聞いていた。


そもそも今夜は。

彼女が待ち合わせた。

会って、何を話したいのか気になっていた。

なのに、これでは・・・・・・


「すごいなぁ・・・・・・

 職人さんって、ホントにかっこいいよね。」


かっこいい。

これは素直に、言われて嬉しい言葉だ。


「職人っていうレベルには、

 まだまだなんやけどね・・・・・・」


「道具持った時点で職人だって、

 お父さん言っとったよ。」


―それは。寺さんに言われた言葉だ。

 じゃあこの言葉は、

 松宮さんの言葉だったのか。


「明来ちゃんはもう、立派な職人さんやね。」


屈託のない笑顔で紡がれる

彼女の言葉は、素直に染み渡る。


「・・・・・・これからも頑張るよ。」


「うん。応援するけんね!」


力強いエールに、自然と笑みが浮かぶ。


「ありがとう。俺も、

 葉音の事応援しとるけん。」


「えへへ。嬉しい!こちらこそありがとう!

 私も負けないくらい、頑張るもんねぇ。」


「今でも十分、頑張っとるよ。」


「ううん。まだまだ頑張らないとぉ。」



それから不意に、静かになる。


木々のざわめきは、

それを取り持ってくれる。

だから、この公園はいい。

心が安らぐ。


さぁ。彼女の話を聞こう。



「・・・・・・葉音。」


話を切り出す為に、彼女の名前を呼ぶ。


「ごめんね。明来ちゃん。」


謝罪とともに、自分の名前を呼ばれた。


「・・・・・・私、明来ちゃんとは

 幼なじみのままでいたい。」



自分が切り出す前に。

自分が願う事を、先に言われた。



「私は・・・・・・明来ちゃんの全部を

 受け止めらるような・・・・・・

 そんな強さがない。

 明来ちゃんの事を分かったふりして、

 本当の事を知ろうとしなかった。」


「・・・・・・」


「せめて、応援させて。これからも。

 明来ちゃんの事、応援したい。」


真っ直ぐに、彼女は自分を見据える。

大きな瞳は、闇夜も弾く光を放つ。


―どういうことなんやろう。

 葉音は一体、何の事を言っとる?


「今日舞乃空くんと、電話でお話したんよ。

 ・・・・・・昨日、明来ちゃんに

 何が起こったのかを聞いたの。」


「・・・・・・えっ?」


「・・・・・・ごめんなさい。私は、

 見て見ぬふりをして、家に帰った。

 明来ちゃんが、窓から飛び降りそうな所を

 偶然見かけたんよ。」


「・・・・・・」



衝撃に近い。

言葉が紡げず、只々彼女を見つめる。



「明来ちゃんが、“暗闇”っていうものに

 襲われとるって。

 舞乃空くんから全部聞いた。

 ・・・・・・どういうことか分からんけど、

 明来ちゃんを助けられるのは、

 舞乃空くんだけなんだって、分かった。」



―舞乃空は。

 葉音と電話したことを、

 自分に何も言わなかった。


 様子が変だったのは、そのせいなのか。



「・・・・・・私は、舞乃空くんみたいには、

 できない。・・・・・・ごめんなさい。」


「・・・・・・」


「思い違いだった。

 私は誰よりも、明来ちゃんの事を

 理解しとるものだと、勘違いしとった。

 舞乃空くんに言われて、

 それに気づいたんよ。」


「・・・・・・あいつは、何て言ったと?」


葉音は明来から目を離し、

ざわめく桜の木々たちに目を向ける。


「・・・・・・明来ちゃんは、

 誰にも迷惑かけないように、

 一人でずっと歩いているって。

 だから今まで、苦しいと思っとっても

 言わなかったんよね?

 ・・・・・・

 言えるわけ、ないよね・・・・・・」


「・・・・・・」


「舞乃空くんはね、

 明来ちゃんの事が・・・大好きなんだって。

 だから、傍にいたいって・・・・・・

 私が悪いんよ。

 言われるまで、気づかないなんて。

 気づかんといかんかったのに。」



―・・・・・・

 あいつが、葉音と電話で話した事を

 自分に話さなかったのは・・・・・・きっと。



「ねぇ、明来ちゃんは?

 舞乃空くんの事、どう思っとると?」


再び向けられる、彼女の大きな瞳。

その質問で向けるのは、ずるい。


「・・・・・・」


「本当の気持ち、教えて。」


「・・・・・・

 正直、自分でも驚く程・・・・・・」


―あいつを、必要としている。


「好き?」


「・・・・・・だと思う。」


「そうなんやね・・・・・・」


「・・・・・・うん。」


「不思議なんやけど、びっくりせんとよ。

 逆に何か、自然な感じがして。

 何ていうか・・・・・・

 明来ちゃんと舞乃空くんなら、

 受け入れられるというか・・・・・・

 それも含めて、応援する!

 ほら、まだ否定的な人がほとんどやん?

 私は応援したいと!二人の事!」


すごく、きらきらした目で断言される。


それによって、明来は

自覚せざるを得なかった。


「・・・・・・えぇっと・・・・・・

 その・・・・・・何というか、

 そういう関係になるっていうのが、まだ

 想像できないというか・・・・・・」


急に、鼓動が騒ぎ出す。


―確かに昨晩は、キスを許した。

 でもあれは、不可抗力というもので。

 それ以上、というのは、その・・・・・・


「えっ、あ、そのぉ・・・・・・明来ちゃん?

 顔真っ赤やん。かわいい・・・・・・」


「えっ?」


指摘されて、明来は動揺する。


「・・・いやっ、そのっ」


「ふふっ。もしかして、何かあったと?」


「あの、いや、葉音、

 ・・・・・・それは、その・・・・・・」


「やだぁ。隠すの下手やーん。

 こっちがドキドキするんやけどぉ。

 どうしよぉ。ふふふっ。」


自分は今、どんな顔をしているのだろうか。


「・・・そうかぁ。好きなんやねぇ。ホントに。

 ってことは、つまり・・・・・・

 うんうん。心配せんでも良かったぁ。」


「ちょ、ちょっと待て、葉音。

 今何を納得した?」


「ううん。こっちの話~。

 何でもないよぉ。ふふっ。」


―勝手に何かを納得してもらったら、

 困るっちゃけど。


恐らく、多分。

自分よりも、彼女の方が

恋愛に対して大人なのかもしれない。

それだけは分かった。


「私は頼りないかもしれないけど・・・・・・

 何が起こっても、

 明来ちゃんの味方やから。

 それは、自信を持って言えるけん。」


葉音は笑顔を浮かべて、力強く言った。


「いつか、明来ちゃんと舞乃空くんに

 最高の歌を届けるけん、待っとってね。

 ・・・・・・これから、一緒の時間を

 過ごしづらくなるし、今までの感じで

 会うことが出来なくなるのは、

 ちょっと寂しいけど・・・・・・

 二人が・・・笑顔になれるような歌を

 届けられるように、頑張る。」



明来は、彼女が紡いだ言葉を噛みしめる。


葉音は。

彼女は、歩き出している。

確かな足取りで。



「・・・・・・ありがとう。葉音。」


「えへへ。・・・あ、そうだ。

 明来ちゃん、私の誕生日お祝いに

 どっか連れて行ってくれるって

 言っとったやん?

 あれ、舞乃空くんと一緒に出掛けん?

 三人で遊ぼうよ。ね?」


「・・・・・・それで、いいと?」


「うん!その方が楽しいし、嬉しい!」


笑顔でそう言って、ベンチから腰を上げる。


「明来ちゃんをあまり独り占めすると、

 舞乃空くんに悪いけん、また今度ね。

 夜ご飯まだっちゃろぉ?

 私もまだなんよぉ。お腹空いたぁ。

 帰ろっ。」


半ば強制的に、終わった気がする。

でも、これでいい。


「・・・・・・そうやな。帰ろう。」


明来も立ち上がり、葉音と共に歩き出す。


「今度また、家にご飯食べに来てね!

 お母さんも喜ぶし、お父さんもね。

 風雅も。・・・あ。こはるもね。ふふっ。」


「・・・・・・うん。」


彼女は、あたたかい。


「そうだ!オルゴールね、やっぱり・・・・・・

 もらうの、やめとく。また、

 こはるが飛びついて壊しそうやけん。」


「ははっ。それもそうやな。」


「捨てないでよぉ?」


「どうかなぁ。」


「ダメだからねぇ?!捨てたらぁ!」


「ああ、分かった。直して取っとくから。」


「ホントにぃ?」


「ホント。」


「良かったぁ・・・・・・」


「・・・・・・ははっ。」



自然と、笑えた。

肩の力が抜けた。


やっぱり、彼女はすごい。



「えへへ。明来ちゃんが笑うと、

 ばり嬉しいなぁ。」


「・・・・・・俺も、葉音が笑うと嬉しいよ。」


「うふふっ。」


「ははっ。」



そうだ。この感じ。


家族といるような、温かさ。

陽だまりの中にいるような、和み。


彼女と過ごす時間には、それがある。


履き違ったまま進まず、気づけて良かった。


“何者にも変えられない”、光の存在を。


















「ただいま。」


「おかえりー!早かったなー!」


先程とは違い、舞乃空がすぐに

玄関で出迎えてくれた。


「ちょうどピザが来たとこ!

 ・・・あ、えーっと・・・・・・

 ごめん!ポテトも食べたくて頼んだ!」


「・・・・・・」



何の反応もなく、靴も脱がずに

玄関で立ち尽くして目を向ける明来を、

彼は首を傾げて見守る。


「・・・・・・どした?

 やっぱ、ポテト頼んじゃダメだった?」


「・・・・・・」


「明来ー?」


「・・・・・・ちょっと、かがめ。」


手招きするように、促す。


「えー?何だー?・・・こうでいーのか?」



言われるままに、舞乃空は身を屈めて

目線を合わせる。

すると明来は、彼の元へ歩いていき

両腕を回した。


「・・・・・・へっ?」


首にしがみつくような形だが、

正真正銘のハグである。


「・・・・・・俺もな、

 ポテト食いたいと思っとった。」


「そ、そっか。それは良かった・・・・・・

 え。明来?何なの、このご褒美。

 めっちゃヤバいけど。」


「・・・・・・ありがとう。」


「あ、うん・・・・・・」


「大好きだ、舞乃空。」


「・・・・・・えっ」


「・・・・・・朝の、お返し。」



舞乃空が葉音と電話した事を

話さなかったのは、きっと。


彼女を、尊重したからだ。


隠したのは、彼の優しさだ。

彼女自身から、自分に話させる為に。

そして、自分たちの為に。



「・・・ヤバい。俺、泣きそう。」


「・・・泣く程?」


「嬉しいに決まってる!」


「お・・・・・・」


大げさやなと言おうとしたが、がしっと

舞乃空がハグをしてきたので、飲み込む。


「明来ーっ!俺も大好きだよーっ!!」


「・・・・・・うん。

 ピザ食おう。腹減った。」


「え、あの・・・今聞いてた?

 ピザどころじゃないよ?

 今、互いに告って、

 盛り上がるところじゃね?」


「ははっ。」


「笑うところ?ねー、明来ちゃん。」


「もう分かっとるやろうもん。ピザ食おう。」


「雑っ!もっと噛み締めてーっ!」




歩き出したんやな。


俺たちは。


穏やかな日常を、一緒に過ごす為に。












                 *










翌朝。


微かに聞こえる掃除機の音で、

明来は目を覚ました。

掛け布団を被ったまま手を伸ばして

ヘッドボードに置かれたスマホを取ると、

まだ完全に開かない目で

時刻を確認する。


―・・・・・・えっ。11時?


身体を起こしてベッドから下りると、

カーテンを開けた。

外は雨模様だ。

土砂降りではないが、窓には雨粒が

しとしとと打ち付けている。


―全然起きなかった。

 爆睡やった。


寝すぎた時の、気だるさ。

最近それが無かったので、妙に心地好い。


八分音符のスタンドライトが、

淡く光を放って部屋内を照らしている。

それを静かに消すと、ドア越しに

部屋の外へ耳を傾けた。


掃除機の音が止まっている。

舞乃空が、掛けてくれたのだろう。

彼は忠実に、掃除をこなしてくれている。


―・・・・・・俺、完全に

 怠けとるっちゃけど。


そう思い、小さく笑う。


―仕事が始まったら、家事をこなすのは

 きついやろう。今日までは、甘えよう。









「おはよー!明来!」


階段を下りていくと、廊下にいた舞乃空が

元気よく声を掛けてきた。


「・・・おはよ。」


「はははっ。掃除終わったぞー!」


「ごめん。ありがとう。」


「ぐっすり眠れたみたいだな!」


「お陰さまで。」


「よしよし!さーおいで!」


そう言って、両腕を広げて待つ彼を

明来は、じっと見据える。

動こうとしない彼に、舞乃空は首を傾げた。


「・・・・・・あれ?来ないの?」


「・・・・・・」


「昨日の、積極的な君は

 どこへ行ったのかい?」


「・・・・・・何なん、それ。」


「分かった。じゃあ今日は、

 俺から君を包んであげよう。」


「だから。そのキャラ、何?」


「えっ。紳士の俺。」


「変なボケするな。」


「あ。照れているんだね。

 気づかなくてごめんね。」


「照れとらんけど。」


「じゃあ、おいで。」


「・・・・・・」



明来は何も言わず、

待ち構える舞乃空の横を

何気なくすり抜けて、洗面所に向かう。


平静を装っているが、本当は

鼓動が高鳴って、一向に落ち着かない。



一昨日の、夜の事を思い出していた。



あれはどう考えても、普通じゃなかった。

あの、スタンドライトの効力もあった。

日常の明るさの中で、

あの距離で向き合うのは、中々厳しい。

そして、昨日は。その余韻というか。

自分からハグして、告るとか。

やっと、今日ようやく。

正気に戻ったというか。



「いつもの明来ちゃんに、

 戻っちゃったなー・・・・・・」


かなり残念そうな声が、後ろから聞こえた。


明来は深いため息をついて

立ち止まり、ちらっと後ろに目を向ける。

それに気づき、舞乃空は顔を輝かせた。


「ん?気が変わった?」


「・・・・・・変わらん。」


「・・・・・・そーかそーか。分かった。」


そう言って舞乃空は、

こちらに向かって歩いてくる。


速度を緩めず近づく彼に、明来は慌てた。


廊下の幅は、二人並んで歩くには狭い。

すり抜けるのに可能な隙間を、

広げる両腕で塞いで、

不敵な笑みを浮かべてやってくる彼に、

鼓動も身体も跳ね上がる。


「ちょ、ちょっと待て!」


焦って逃げ込むように、洗面所へ入る。

そんな明来の様子を、舞乃空は

ニヤニヤしながら眺めている。


「俺から来てほしいっていう事だろー?

 気づかなくてごめんなー。」


「ち、違う!」


洗面所の空間も、

そんなに広いとは言えない。

バスルームに逃げ込む余裕もない。

焦って、どうすることも出来ずに

背を壁に付けて、彼と向かい合った。


舞乃空は微笑み、

ゆっくりと近づいてくる。


「さー。どうしよっか。

 今日は、たーっぷり時間あるぞー。」


「い、いや、いやいやいや。ないやん。

 も、もう11時過ぎとるやん!

 昼メシ食って、ホームセンター行かんと!」


「あと、近所のスーパーな!」


「そう。それだ。行かないと。」


「その用事済ませても、

 時間あると思うけどー?」


彼の両手が、自分を挟んで壁に付く。



これは、いわゆる、あれだ。

自分が、される側になる日が来るなんて

思いもしなかった。

そして、思ったよりも、覗き込む顔が、近い。

心臓が、爆発しそうだ。

この状態に萌えるどころか、

まともに息が出来ない。

こんなに、近い状態で、顔合わせて。

普通でいられるわけがないし、

どうしたらいいのかも分からない。



「素直にハグされてたら、

 こんな事にはならなかったぞー。」


「わ、悪かった。悪かったから・・・・・・」


両腕を盾にして

身を小さく屈める明来に、

舞乃空は吹き出す。


「ぶっ。はははははっ!!

 何焦ってんのー?反応かわいすぎね?

 ほらほら、怖がらなくていいよー。」


可笑しそうに紡ぐ彼の声音が、

自分を撫でているようで

尚更落ち着かない。


「た、頼むから、離れてくれ。」


「やだー。」


目を合わせることが出来ない。

合わせたら、色々と逃げられない気がする。


「決めた。俺は今日、明来をイジり倒す。」


「さっ」


―さっきの、“紳士の俺”はっ?!


「だってさー。ホントは俺とイチャつけて

 嬉しいくせに。素直じゃねーもん。

 一昨日だって、ほら・・・その・・・・・・

 あはっ!ヤバッ!自分で言って悶えそう!」


「いっ」


―言って、悶えるなっ!!


「あの時の君は、どこへ行ったのかい?」


「しっ」


―“紳士の俺”、情緒不安定すぎやろっ!


「いーよいーよ。ゆっくり解していこう。

 明日から忙しくなるしさー。

 今日は、たーっぷりイチャつこうよー。

 なー?」



ふわりと、包まれる。



今先程までの、押しが強い態度とは

かけ離れた抱擁に、明来は絶句した。


しかし、先程から

まともに言葉を紡げていないのだが。


「よしよし。怖かったんだねー。

 一旦落ち着こうかー。」


―・・・・・・俺は犬かっ。


「明来が逃げるもんだからさー。

 こちらとしては、ほら。

 追い掛けちゃうじゃん。本能的にさー。」


―そうか。お前が犬なのか。

 ・・・あんな感じで来られたら、

 誰だって逃げるやろうもん。


「・・・・・・そーだ。いい機会だからさー。

 俺の、秘密にしてる話を

 聞いてもらおうと思って。」


「・・・・・・秘密にしとる、話?」


やっと、言葉を吐き出せた。


「そ。ホントはさー、

 どーでもいい話なんだけどな。

 聞いてもらいたいなーって思って。

 ・・・・・・自動的に、付き合ってた女の事も

 話すことになるんだけど。」


「・・・・・・」



―・・・・・・ああ。

 そういえば、言っとった。

 大人の女と付き合ってたって。


 ・・・・・・よく考えたら、

 ヤバいよな。色んな意味で。



「もう繋がりもないし、終わってるから

 そこは気にしないでほしい。」


「・・・・・・」


「秘密の話、聞いてくれるか?」



―・・・・・・舞乃空の、秘密の話。

 話す時が来るのか、言っとった気がする。



「・・・・・・ああ。勿論、聞くよ。」


「ありがとー。後で、ゆっくりな。」



ぎゅーっと、される。


なぜだろう。

落ち着いてきた。

そうか。見つめ合わなければいい。

こうやって、くっついている方が・・・・・・

いや、それもおかしい。



「はははっ。明来は押しに弱いんだなー。」


「・・・いや。だって、そうやろ。

 あんな感じで迫って来られたら・・・・・・」


「ドキドキして、楽しい?」


「・・・た、楽しくないっ。」


「あー。嘘ついた。」


「・・・・・・」


―どうも、やりにくい。


舞乃空は、明来に回していた両腕を解いて

笑顔を向ける。


「朝昼メシ、どーする?」


「・・・・・・うどんにする。」


「いーねー!」


「トマト、使うけど。」


「へー!どんな料理になるんだ?

 ・・・作ってくれんの?」


「試したいレシピがある。」


「やった!そーゆーの、

 明来が作った方が美味いもんなー。」


「・・・・・・積み重ねの違いやろ。」


「そーだな。俺、まだ料理初心者だし。」


「・・・・・・顔洗っていくから、

 リビングに行って待っとって。」


抱擁は解かれているが、油断できない。


「えー。顔洗う無防備な明来を、

 襲おうと思ってたのにー。」


―やっぱり。


「・・・・・・もう、十分やろうもん。」


「十分なの?」


ニヤニヤ。


「・・・・・・今日は・・・・・・

 たっぷり、時間あるんやろ?」


「いいねーっ!それそれ!

 明来の、そーゆーとこ大好きっす!

 もっと出してこー!」


「・・・・・・」


「へへっ。後で、ゆっくり、たっぷりな!」


ぽんぽん、と明来の頭に手を乗せると、

舞乃空は上機嫌で洗面所から出ていく。



彼から溢れるくらいの温かさを貰い、

安堵する自分がいる。

この不思議な感覚は、何なのだろう。



―・・・・・・

 ・・・・・・後で、

 ゆっくり、たっぷり・・・・・・



彼の言葉が、胸の痛みを生む。


頭を振って、洗面台の鏡と向き合った。


自分で驚く。

なんて顔をしているんだ。

顔、真っ赤だ。こんな顔してたのか。

昨日、葉音に話した時も。

どうかしている。



シングルレバーを上げ、勢いよく水を出すと

バシャバシャと顔を洗い出す。


頭を冷やせ。

あの時から、おかしい。


多感すぎる。

情緒不安定すぎる。

自分で、歯止めが効かない。









顔を洗い終わってリビングへ行くと、

舞乃空はダイニングテーブルに

両腕を組んで置き、椅子に座っていた。


「トマトとうどんで、どんな風になるのか

 楽しみだなー!」


期待いっぱいの笑顔を浮かべて

迎えてくれた彼を一瞥し、明来はすぐに

アイランドキッチンへ入り込む。


「・・・・・・

 美味くならないかも、やけど。」


平常心。

それを保つのは、距離感だ。


「明来が作ったやつ、全部美味いけどー。」


「・・・・・・それは、どうも。」


お世辞でも、それは素直に嬉しい。


「明来って、トマト大好きだよなー。」


「・・・・・・身体にいいから。」


「え。美味いからじゃねーんだ?」


「健康はな、貯金を切り崩しながら

 保つようなもんったい。

 お前たちの歳から気を遣えば、

 長く生きられること間違いなかけん。」


「エグっ。」


「・・・って、水野さんが口癖で言うけん。」


「はははっ。言いそーっ。」


「確かに、気にして

 野菜を多く摂るようになってから、

 身体の調子はいいよ。

 考えずに食ってた時より、ずっと。」


「へー。」


「野菜の中でも、トマトが食べやすくて。

 なるべく毎日食べるようにしとる。

 ・・・年長者の言う事は、聞いた方がいい。」


「それなー。」


明来は、冷蔵庫から

大玉トマト2個とハーフベーコン1パック、

バター風味のマーガリンと焼き海苔を出し、

ワークトップに置く。

そして、その下の収納引き出しから

耐熱ガラスボウルとペティナイフを

取り出した。


「簡単で時短できるけん、美味しかったら

 レギュラーレシピに加えようと思っとる。」


「俺も覚える!」


そう言って椅子から立ち上がる舞乃空を、

明来は慌てて止める。


「今回は試しやけん、座っとけ。」


「えー?一緒に作って覚えた方が良くね?」


「いいから。試しって言ったやん?」


今近くにいられたら、平常心ではいられない。


「・・・・・・分かったよー。

 じゃあ、待っときまーす。」


「・・・ああ。」


素直に言う事を聞いて座ってくれて、

内心ほっとする。


そんな明来を見透かしているのか、

舞乃空はニヤニヤしながら

キッチンに立つ彼を見守っている。


「・・・今日の明来、ヤバい。かわいい。」


「ん?何て?」


丁度水を流していたのと、

ぼそ、と小さく呟いたので、届かなかった。


「何でもないよー。」


しかしそれも、範囲内である。


「一緒に過ごせる時間って、

 いいなーって言ったんだよー。」


大きく言葉を返すと、明来は

それに応えることなく

ハンドソープで手を入念に洗う。


―確かに。

 舞乃空と過ごす時間は、

 何もかも忘れられる。


そう言葉を返せるわけがなく、洗い終わると

冷凍庫から冷凍細麺うどんを

二袋取り出す。

細麺うどんは、本来の太さのものよりも

味が絡みやすくて、喉越しもいい。


うどん二袋を電子レンジに入れて、

タイマーを押す。


立て掛けていた木製まな板を敷いて、

ハーフベーコンと大玉トマト2つを

ペティナイフで其々短冊切りと角切りに

切り分けながら、話題を切り出した。


「・・・・・・仕事に慣れて、落ち着いたら

 旅行に行こうと思っとるっちゃけど。」


「旅行?」


「うん。今回とは別に。」


「・・・・・・え?俺と?」


「・・・・・・一人でするわけないやん。」


「えっ。・・・マジで?!俺と?!」


「・・・うん。」


「いいよーっ!!ヤバッ!行きます!!

 ちょー行きたい!!どこ行く?!」


「・・・んー。温泉やな。」


「お、温泉?渋くね?」


「ふやけるくらい、湯に浸かりたい。」


「はははっ!渋すぎだろ!

 でも、温泉いーかも!行こーぜ!」


耐熱ガラスボウルに、切り分けた具材と

適量のマーガリンを入れる。


「お前は?どっか行きたい所ないと?」


「んー。俺は、明来の行きたいと所へ

 一緒に行ければいいかなー。」


それにラップを掛け、電子レンジに入れた

冷凍うどんが温まるのを待つ。

タイマーは、あと1分くらいだ。


「あ。そうだ。ツーリングしたい。

 16になったら、

 二輪の免許取りてーんだ。」


―・・・・・・へぇ。二輪か。


「いいやん。」


「明来も興味ある?」


「ああ。・・・そういえば、

 松宮さんはバイク乗りなんよ。

 ガレージに、大きなやつがある。」


「へーっ!そーなんだ!すげーじゃん!

 今度色々聞いて、見せてもらおーぜっ!」


今まで、遠くから眺める事しか

出来なかった、松宮のバイク。

舞乃空となら、踏み込んで聞けそうだ。


「よし!免許取っちまおう!そしたら、

 ツーリングで旅行だって出来るし!」


「・・・舞乃空の誕生日、いつなん?」


「8月25日!明来は?」


「10月9日。」


「じゃあさ。明来の誕生日に、

 一緒に取りに行こう!」


「ははっ。いいよ。」


「よっしゃ!!・・・やっべー。

 誕生日早く来ねーかなーっ。」


この話題で、盛り上がるとは思わなかった。

自分も楽しみだ。


ピピピっ、と電子レンジから音が鳴る。


熱々になったうどんの袋を

電子レンジから取り出し、入れ替えるように

耐熱ガラスボウルを入れて、

600W2分をセットした。


袋を開けて、うどんを其々容器に移すと

軽く菜箸で解す。


「舞乃空の、一番好きな食べ物って何?」


「えーっと・・・俺、何でも食うんだよなー。

 特に嫌いなものとかもないしー。明来は?」


「・・・・・・うーん。俺もそう。」


「じゃあ、問題ねーな。

 食の気が合うのは必須らしいぞー。

 一緒に生活していくと、合わなかったら

 それでケンカになったりするらしいしー。」


「・・・・・・そうやな。」


確かに、それはあるかもしれない。


「毎日、少しずつ明来の事が

 分かっていく幸せ・・・・・・ヤバいなー。

 俺、こんなに幸せでいいのかー?」


「・・・・・・」


ピピピ、と音が鳴る。

明来は何も言葉を返さず、レンジから

耐熱ガラスボウルを取り出す。


ごろごろ感はあるが、マーガリンと溶け合って

ソース状に絡み合っている。


「変なクセとかも、分かるのいいよなー。」


「・・・癖?」


「明来は隠し事する時、声の質が

 妙にエロくなる。」


思わず、具材を掬ったサービススプーンを

落としそうになった。


「なっ、何なんそれっ」


「ちょー耳のいい俺には、たまんねーの。」


「へ、変な事言うなっ!!」


「はははっ。俺にしか分からない波だから、

 気にすんなー。」


「・・・・・・っ」


―そんなん言われたら、気になって

 話づらくなるっちゃけど!



予想外の変化球に動揺するが、

視線を逸らして何とか持ち直す。


其々のうどんの上に

ソース化した具材を乗せ、

焼き海苔を一枚均等に手で解しながら、

ふんわり掛ける。


「・・・・・・出来た。」


「えっ?早っ。」


明来は、出来上がったそれを両手に持ち、

ダイニングテーブルに持っていった。


「よく混ぜてから食え。」


舞乃空の目の前に置くと、

見るなり彼は歓喜の声を上げる。


「おーっ!!うまそーっ!!

 盛り付け天才じゃね?」


ダイニングテーブルに行くまで、

きちんと箸を用意してくれていた事に

気づかなかった。

こういう気遣いは、とても有り難い。


「使うの電子レンジだけやし、

 これで美味かったらいいやん?」


「これ、ぜってー美味いって!!

 すげーっ!!」


「飲み物、水でいい?」


「はい!」


明来は再びキッチンへ戻ると、

冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、

水切りネットに置いていたグラス2つを

ワークトップに移動し、注ぐ。

それを持っていくと、

舞乃空と向かい合って座った。


「じゃあ、いただきます。」


「いただきまーす!」



互いに箸を持ち、

綺麗に盛り付けられたそれを混ぜていく。


熱が入り、ほんのり朱色になったトマトと

油脂が少し溶けたベーコンが、

真っ白な細麺うどんに絡み合っていく。



「もういいんじゃね?」


「うん。」


うどんを箸で掴み、簾のように上へ伸ばすと

二人は合わせたように口へ運んだ。

ずるずると音を立てて

綺麗に吸い込み、咀嚼する。



「・・・・・・うまっ!!」


「うん。美味い。」


「やばっ。これ瞬殺で食っちまう。」


「冷凍しとるおにぎりが、

 ちょうど2つ残っとった。」


「おーっ。それを温めて、

 食い終わって残ったソースの中に

 ぶち込むって?明来流石っ!」


「・・・・・・そこまで言っとらんけど。」


「当たってるだろ?」


「まぁ、うん。」


「それなー!!」


「海苔じゃなくて、大葉でもいいかも・・・・・・

 今度そうしよう。」


「レギュラーメニュー、決定だなーっ!!」




ささやかな昼食の時間は、

緩やかに過ぎていく。











松宮冷機で使用する電材、道具等の発注は、

このホームセンターを通している。

その好みで貰うのだろうか。

事務所のカレンダーには、

ここの名前が刻まれている。



揃えるように言われているのは、

安全靴とスケール(一般的にはメジャー)。

明来の場合、スケールに関しては

寺本が使用していた物をそのまま貰った為、

購入せずに済んだ。

領収証を切って陽菜の元へ持っていけば、

代金を返してもらえる。



「うわーっ、めっちゃあるなー!」


工具がずらりと並ぶ商品棚を眺め、

舞乃空が楽しそうに声を上げる。


スケールだけでも、様々な種類がある。

明来も品揃えを眺めて、

心を浮き立たせた。


―いつか、自前の道具を

 揃えてみたいな・・・・・・


上司たちは勿論、

自分専用に道具を揃えている。

こだわりが溢れているのを見ると、

正直羨ましいと思う。


自分に合った道具を見つける為に

購入して、実際使ってみるのもいい。


「これでいいんじゃねー?」


不意に肩を掴まれ、明来は

どきっとする。

平常心という言葉を頭で唱え、

後ろで舞乃空が屈みながら手にしている

スケールを見て、小さく息をついた。


「・・・・・・5.5m測れるやつがいいよ。

 あと、ステンレス製な。」


「え、これじゃダメなの?

 5.5mの、ステンレス製・・・・・・

 うおぉっ!高くね?!」


「そんなもんやろ。・・・これがいいかも。」


明来が手にした物を見るが、

彼は納得がいかないようだ。


「これじゃ、ダメなのかー?」


「駄目じゃないけど・・・・・・

 錆びるし、目盛りが見えづらかったり。

 しっかり伸ばせて、正確に測るなら

 ステンレス製がいい。

 使ってみたら分かるけん。

 スケールは、良いやつの方がいい。

 使わない時はないから。」


「へー・・・そうなんだ。

 じゃあ、推しのやつでいい。」


手にしていたスケールを棚に戻し、

舞乃空は素直に

明来が薦めた物を手に取る。


「それ、使ってみても良かったんやない?」


「いや。経験者のアドバイスは

 聞くべきだろー。」


―聞き分けがいいのは、

 こいつの良いところだ。


「・・・あと、安全靴かな。足のサイズは?」


玄関に並ぶ彼の靴を見てはいるが、

サイズまでは把握していない。


「28。」


「えっ、でかっ」


確かに、大きいとは思っていたが。


「明来はー?」


「・・・・・・24。」


「ちっさ!」


「お前が、でかすぎるんやろ。」


「はははっ。お前が、小せーんだって。」


これを言い争っても、仕方がない。


「・・・・・・そこまでとは思わんかった。」


「最初、女の靴かと思ったもんなー。」


自分の足は、無事に成長するだろうか。


「安全靴のサイズ、ギリ24からが多いけん

 いいっちゃけど・・・・・・

 自分の足の小ささに、不安になる。」


ぽろっと本音を零して

肩を落とす明来に、

舞乃空は慌てて言葉を掛ける。


「マジへこみすんなー!

 大丈夫だって!

 これから背も足も大きくなるって!」


「・・・なれば、いいけど。」


「なるなる!」


「根拠ないやん。」


「親父さん、背が高かったんだろー?

 急に伸びるかもしんねーじゃん!」


「・・・・・・」


「あー、もう!へこむなって!

 ・・・えーっと、これで、いーかなー。

 ほら、会計済ませて

 スーパーで買い物しようぜ!」


気遣う彼は、半ば引っ張るように

明来の片腕を取って歩いていく。



声変わりは、兆候があるけれど。

このまま、そのままだったら。

それでいいと、思えるのだろうか。










今回、近所のスーパーで買うのは

冷蔵庫の常備品と米、あと嗜好品である。

ゴールデンウイークで仕事は休みだし、

1泊2日の東京旅行も

延長するかもしれない。

日持ちしない物は買わず、家に帰ってきた後に

再度買い込もうと思っていた。


話ながら、ゆっくり済ませたものの

家に着いた時刻はまだ、

夕方にもならない。


「早くもミッション終了だなー。」


嗜好品のポテトチップス大袋を

所定の棚に直し込みながら、

舞乃空が言う。


「・・・・・・そうやな。」


冷蔵庫の備蓄品を直して扉を閉めた後、

明来は相槌を打って、切り出す。


「秘密の話って、何?

 話すには今が丁度いいんやない?」


「・・・あー。そうだなー。うん。」


彼の表情に、一瞬翳りが浮かぶ。


「聞きたい?」


「・・・・・・」


話を聞いてくれるかと、申し出たのは彼だ。


「・・・・・・正直、気になる。

 そこまで言っといて、話さないとか

 ないやろ。」


「だよなー。」


明らかに、おかしい。

耳の下を掻いて視線を合わせない彼を、

明来は真っ直ぐに見据える。


「舞乃空?」


「何か、やっぱり・・・・・・

 話すのやめようかと思って・・・・・・」


「え?」


「せっかく今、楽しい時間なのにさー・・・・・・

 俺のくだらねー話で、

 暗くなるのもなーって。」


「・・・・・・いや。

 くだらない話では、ないやろ。」


「・・・・・・」


しばらく間を置いた後に、ようやく

舞乃空は視線を合わせた。


「気を遣わせちまった。ごめん。

 やっぱり話す。」


「・・・・・・ああ。」


「言っとくけど、引くかも。」


「・・・・・・過去の話やろ?

 今のお前がお前だから、別に引かない。」


その明来の言葉が効いたのか、

彼は柔らかい笑みを浮かべる。


「コーヒーでも飲みながら話そっかな。」


「・・・俺が、淹れるよ。」


「いやいや。明来は座っててくれ。」


率先して、舞乃空はキッチンへ歩いていく。


明来は、ソファーへ歩いていくと

静かに腰を下ろして、背中を預けた。



コーヒー豆が挽かれて、

香ばしい匂いが漂ってくる。


彼は言葉を紡ぐことなく、キッチンに立って

出来上がるのを待っていた。


しんと静まり返っているが、

それが気まずいとは思わない。


コーヒーメーカーの作動音が、BGMである。


スマホを扱おうという気も、起こらない。

この感覚は、何なのだろう。

疑問に思いつつも、明来は

この空間に身を委ねる。


これから先、どのくらいの時間を

舞乃空と過ごすか分からないが、

無言の時間も増えていくだろう。

それが、互いに心地好いと思えるなら。

幸せではないだろうか。



舞乃空は、並べたマグカップに

出来上がったコーヒーを注いでいく。


ソファーの前には、木製の

コーヒーテーブルが置かれている。


そこに明来は視線を定めていると、

白い湯気を立ち昇らせている

自分のマグカップが置かれた。


「どこから話そうかな・・・・・・」


自分が座る、左隣のソファーが沈みこむ。

コーヒーテーブルに、そっと

彼の青いマグカップが置かれた。


「母親がさ、自分を将来

 タレントにさせたかったらしくて。

 東京に引っ越したのも、

 モデルのオーディションに受かったから。

 父親は反対だったんだけど、

 勉強しながらだったらという条件で、

 折れたんだ。

 ・・・自分は別に、嫌じゃなかったからさー。

 母親の言う通りに、

 モデルの仕事をこなしてたわけ。」


思わぬところからの話で、

目を見開くしかない。


「・・・・・・お前、モデルやったと?」


「そ。モデルにもいろいろあってさ。

 主に子ども服のモデルやってた。

 取り囲む大人たちとは、

 うまくやってたと思う。」


語る彼の表情に、いつもの明るさはない。


「・・・・・・音楽を始めたきっかけは、

 前に言ったけど

 明来の親父さんのギターがカッコよくて、

 忘れられなくて。

 親も、音楽に関しては何も言わなかった。

 今だから分かるけど、俺自身から

 やりたいって言ったの、初めてだったんだ。

 動画見ながら練習して、勉強して。

 気づいたら、曲まで作るようになって。

 ・・・自分の耳がいいのに気づいたのは、

 音楽をやり始めてからなんだ。

 ・・・・・・で、そんな感じでそれなりに

 過ごしてたんだけど、ある時仕事先で

 とある音楽のプロデューサーに出会ってさ。

 俺がギター弾いてる動画配信を、

 聴いてくれてたらしくて・・・・・・

 是非自分の所で学ばないかと、

 言ってくれてさ。勿論、俺は嬉しくて

 即決だった。親は微妙な感じだったけど。

 それからその人に、音楽を本格的に

 教えてもらうようになったんだ。」


「音楽の、プロデューサー・・・・・・」


話が、大きすぎる。


呆然気味に聞いている明来の様子に、

舞乃空は苦笑した。


「別次元だろ?でも、マジな話。」


「・・・それで・・・・・・?」


コーヒーを一口含んだ後、

彼は語り出す。


「最初は、知れば知るほど楽しくて・・・・・・

 遊びでやってたんだけど、音楽で

 食っていけたらいいなって思い始めて。

 モデルの仕事よりも、

 音楽やってる方が何倍も楽しいし。

 ・・・・・・で、その人も、

 俺の事を気に入ってくれて。

 俺も、その人にハマって。

 知らずに沼ってた。」


「・・・・・・ちょ、ちょっと待て。」


息を整えて、聞き返す。


「・・・・・・付き合ってた大人の女って、

 まさか、その・・・・・・」


「ああ。そのまさか。」


マグカップに目を移し、手に取ると

コーヒーを口に含んだ。


ごくん。

熱くほろ苦い液体が、現実に引き戻す。


「・・・・・・マジで?」


「大マジ。」


「・・・・・・」


「引くだろ?」


「・・・・・・で?」


引くよりも、話の続きが気になった。


「俺の作った曲で、俺が歌うっていうことに

 なったんだけどさ。

 ・・・・・・デビューする直前に、違う奴が

 俺の曲でデビューしたんだ。」


「・・・・・・えっ?」


「要するに、裏切られたって事。」


「・・・えっ・・・・・・いや、

 いきなり何で、そんな・・・・・・」


話の辻褄が、合わない。


「分かんね。気が変わったんだろー。

 俺も、よく分かんなくて。

 ・・・怒ろうと思ったんだけど、

 その人が俺の曲を神的にアレンジして、

 そいつが歌ったやつの方が、

 マジでエグいくらい良くってさ。

 感動しちまったんだよ。だから・・・・・・」


「ま、舞乃空。待て。ちょっと分からん。

 えっと、お前が作った曲を・・・・・・?」


「ははは。そのプロデューサーが、

 エグい編集して違う奴に歌わせて、

 世間に出したって事。」


受け入れられない。

舞乃空が話が本当ならば、それは・・・・・・


「パクられたって事やろ?お前、それで

 何もせんかったと?」


「いや、だってさ・・・・・・

 エグいくらい良かったんだよ。

 俺が編集して、歌うよりも、ずーっっと。」


「・・・・・・」


「その人とは、それで終わり。

 それなりの金をくれたよ。買い取る、的な?

 ああ、なるほどねーっって。

 ・・・・・・両親には勿論、言えなかった。

 いろいろと面倒な事になりそうだったし。

 ・・・まぁかなり、へこんだなー。

 でも、妙に怒れなくて。

 やられたーっとしか思えなくて。

 本気で好きだったんだよなー。その人の事。

 両親の離婚の事もあったんだけど、

 何もかもどーでもよくなっちゃって。

 気づいたら、電車に乗ってた。

 ちょうど金もあるし、

 全部使っちまおうって思って。

 で、無意識に、ここに辿り着いてた。」



明来は、目を逸らすことなく

彼を見据える。


舞乃空の頬には、涙が伝っていた。


「・・・あれっ。泣いてんじゃん、俺。

 何ともないつもりだったんだけどなー・・・・・・」


それを無造作に拭い、彼は笑う。


「それがさー。明来が公園で、

 俺の曲歌ってたもんだから、びっくりして。

 しかも、めっちゃ良い声で。

 鳥肌もんだった。はははっ。すげーって。」


「・・・お前の、曲・・・・・・」


「そう。俺の曲、“だった”。」


「・・・・・・」



まさか、こんな。

こんな形で、再会していたなんて。



「・・・・・・舞乃空・・・・・・」


表情を曇らせている明来に対し、舞乃空は

笑顔を絶やさなかった。


「くだらねー話だろ?」


「・・・・・・」


「でもさ、その曲が、

 明来と引き合わせてくれたとしか

 思えなくてさー。

 今は、本当に良かったと思えるんだよ。」



今にも、泣き崩れそうな彼の破顔。

堪らずに、彼を抱き締める。


何て言ったらいいのだろう。

どうしたら、塞げるのだろう。

彼は、こんなにも傷ついているのに。

笑っている。

かなり痛くて、苦しいはずなのに。



「めっちゃ嬉しかったんだー。

 明来が、あの曲を好きでいてくれて。」


彼の声が、震えている。


「・・・・・・舞乃空・・・・・・」


「これで、良かったんだって。

 俺は、間違ってなかったって。」


「・・・・・・分かっとる。」


「明来と、こうして、

 一緒に過ごせるんだから・・・・・・」


「もう、分かっとるけん。」


「・・・・・・本当に、ありがとう。明来。」



それから、嗚咽が響く。


彼の悲しみが、自分の胸に伝わる。



信じていたのに、裏切られて。

それでも彼は、笑い続けて。

痛みも、苦しみも、笑いに変えて。

そうすれば、

みんなが傷つかずに済むから。


自分よりも。

彼の方が、その思いは深くて。


だから彼は。

自分の事を、理解できたんだ。












どのくらいの時間、

寄り添っていただろうか。


気づけば、リビングは薄暗くなっていた。

でも明来は、

照明を点けようとは思わなかった。


なぜなら、

泣き疲れて、自分の胸の中で眠っている

舞乃空を、起こしたくなかったからだ。


彼も、同じ思いだったのだろうか。

自分も、こうやって泣き疲れて、

眠りに落ちていた。


このまま、自分も眠ろうかな。

そう考えていた矢先、彼が目を覚ます。



「・・・・・・ん・・・・・・?

 あれ・・・・・・明来?

 ・・・・・・リビング、薄暗くね?」


そう呟いたので、明来は小さく笑った。


「泣き疲れて、眠っとったやん。」


「・・・・・・え。もしかして、明来、

 ずっとこうしてた、とか?」


「・・・・・・」



そう言われて、ようやく腕の痺れがきた。


急に、自分のしていた事が恥ずかしくなって

舞乃空から離れようとした。


「あ、待って。明来。」


肩を掴まれて引かれ、

立ち上がろうとしていた体勢が崩れる。


明来がソファーに倒れ込んでしまうと、

彼は両肩を掴んできて、覆いかぶさった。



どくん、どくん、と

心臓の音が、胸から溢れている。



「・・・・・・電気、点けたいっちゃけど。」


言葉を、絞り出す。


「・・・・・・このままで、よくね?」


間近で見下ろす彼が、囁く。



良くない。

この状況は、宜しくない。



「・・・・・・晩メシ、何にしよう?」


何とか、保たないと。

振り絞って、話題を突き付ける。


「・・・・・・心臓の音、ハンパねーな。」


彼は、笑う。


「まの・・・」


「何もしないからさー。

 ちょっと、音聴かせて。」


「・・・いや、それはちょっと・・・・・・」


「聴きたいんだよ。」


そう言って、彼は自分の胸へ

耳を宛がうように崩れ落ちる。


温かいのを通り越して、熱い。


果たして自分は、ずっとこのままの状態で

いられるのだろうか。


「明来から生まれる音、全部大好きなんだ。

 ・・・・・・聴かせてほしい。」


ただ、静かに。



彼の息遣いと、鼓動。


自分にも、隅々まで響いていく。



彼から生まれる音が、自分も

大好きになっている。



このまま、漂うように。


ずっと、漂えたらいいなと思う。



“現実を塗り替えろ”



彼が発し、紡いだから。

自分は、現在いまを保てるのか。


確実に、何も見えない程の闇へ

向かっている自分に。

光の筋を、差し込んでくれた。




それさえも、見失ってしまったら。


自分は、どうなるのだろう。











                 *










舞乃空の初出勤は

ゴールデンウィーク明けと言われていたが、

急遽仕事が前倒しになった関係で、

連休前の月曜日からになっていた。


一日だけ出勤して

直ぐに連休に入るのはどうかと

松宮は気にしていたが、本人は

“一日でも早く仕事を覚えたい”と言って、

快諾したのだった。



その早朝。



「楽しみだなー。」


三和土に置かれた

新品の安全靴を履きながら、舞乃空は

笑顔を浮かべて言う。


「言っとくけど、思ったよりもキツイけん。」


それに対し、明来は

使い慣れた安全靴を履き、釘を刺す。


「分かってるってー。」


「分かっとらん。甘く見とる。」


「そうかなー。」


「やってみたら分かる。」


「はーい。・・・ねー、明来ー。

 今日も頑張ろうのチューしよ。」


「はぁ?・・・や、やめろっ!」


がばっとやってくる舞乃空から、

明来は逃げるように玄関を出た。


ドアを開けると、肌寒い風が吹き込んだ。

まだ空には、太陽が出ていない。

しかし今日は、よく晴れそうだ。



玄関の鍵を閉め、さっさと歩いていく。


「あーあ。頑張れないかもー。」


後ろから、拗ねた様子で

彼は付いてくる。


「甘えるなっ。」


―おはようのハグ、したやんか。


「じゃー、帰ったら!

 よく頑張りましたのチュー、くださいっ。」


「・・・・・・」



顔が熱い。

きっと、顔真っ赤だ。


先に歩いているので、

見られずに済んでよかった。



「・・・・・・帰って、から・・・・・・

 なら・・・いいよ・・・・・・」


「うおぉぉぉっ!やった!!

 ご褒美チューっだ!!頑張るーっ!!

 お願いして良かったーっ!!」


「こ、声がでかいっ!」



路面にはまだ、水溜りが残っている。


昨日はよく、雨が降っていた。

公園に並ぶ桜の葉っぱは、その雨粒を含んで

とても瑞々しい。



昨晩。

あれから、あのままの状態で

自分と舞乃空はソファーで眠りに落ちた。


特別何も、起こっていない。


いや、くっついたまま眠った事が、

既に“起こっている”と言えるのではないか。


互いに寄り添って、眠るとか。

親と寝ていた頃とは、違う空間だ。

何とも言えない、安心感。

あの時間は、言葉では表現できない。


ある意味、これは。

また、一緒に眠りたいと思う気持ちが

あるということは。

彼を受け入れている、証拠なのだろう。

自分でも驚く。

どうしてこうも、自然なのだろう。

彼との時間が、溶け込むのは。



互いに腹が空いて、深夜に目が覚めた。

もう料理する気も起らなかったので、

即席ラーメンに、もやしとハムを乗せて

麺を啜った。


それが、かなり美味しくて。

全身に染み渡る感じがして、温まった。

彼の笑顔も、自分の笑顔も。

その時、同じだったと思う。






「おはようございます!」


「おはよー。」



松宮冷機の倉庫のシャッターは、

既に開いている。

入り口付近に、寺本が立っていた。


「よろしくー。」


「よろしくお願いします!」


舞乃空は彼に向かって、深々とお辞儀をする。


「とりあえず、タイムカード通して来い。

 明来、教えてやってくれ。」


「はい。」


明来は先導して、舞乃空とともに

事務所へ続く階段を上がっていく。


「寺本さんって、カッコいいよなー。」


ぽつりと零す彼の言葉には、同感だ。


「ああ。ばり優しいし、頼れる。

 ここの、最重要戦力って言われとる。」


「へーっ。分かる。滲み出てる。」


「・・・・・・そういえば、お前って

 兄弟はおらんと?」


「いないよー。欲しかったなー。」


「・・・寺本さんみたいな人が

 兄ちゃんだったら、いいなって思う。」


「うんうん。」



事務所には、いつも通り誰もいない。


出入り口付近にあるタイムカード置きに、

“阿久屋 舞乃空”の名前が記された

カードがあった。


「あ。俺のカードだ。へへっ。」


それを手に取り、彼は嬉しそうにしている。

明来も自分のカードを取って、

説明するように言葉を掛けた。


「出勤を押して、ここに、こうやって通す。」


「はーい。」


「ここに来たら、必ず先にな。

 時給じゃないから、付かないけど。

 ・・・そういうの、知っとるよな?」


「んー・・・・・・

 そういうの、めんどーで分かんね。」


「めんどーって・・・・・・」


「ここで稼いだ金、全部預けるから。

 俺は、お小遣いとしてもらえればいーかな。

 そーゆーの、明来に頼んどく。」


「・・・・・・いや。お前な。」


「管理めんどくせーもん。

 俺が持ってたら、使っちまうぞー。」


「・・・・・・」


―・・・・・・今まで、モデルで働いた金も多分、

 母親が管理しとったんやろうな・・・・・・


「今度、一から教えるけん。

 きちんと覚えろ。」


「えー。」


「自分が働いて稼いだ金だって、

 自覚していかんと。

 ・・・生活費として、もらえればいいから。」


「・・・はーい。」


渋々返事をする彼を見て、ため息をつく。


―こいつは色々と、甘い。

 俺よりも。




タイムカードを通し終わって

階段を下りていくと、明来は

ショルダーリュックを柱際に置く。

それを見習い、舞乃空もリュックを

傍に置いた。


ペアコイルの空洞部分に腕を通して

肩に担ぎながら、寺本は二人に声を掛ける。


「今日は機器の搬入が主になるけん、

 機材と資材を現場に持っていくのは

 連休明けやな。準備だけしておく。」


「はい。」


「舞乃空。きつい時はきついって言う事。

 塩分、水分補給は我慢するな。

 熱中症で倒れやすいけんな。」


「はいっ!」


「これ。2分3分のペアコイルな。

 棚にあるやつ、全部持ってこい。」


「了解です!」


「明来は、3芯ケーブルな。」


「了解しました。」


指示通りに、明来は棚へ歩いていく。

その後を舞乃空は付いていき、尋ねる。


「ペアコイルって、何をするやつ?」


「冷媒でガスを巡らせるけん、

 ペアコイルに繋げるんやけど・・・・・・

 エアコンに、

 内機と外機があるのは知っとる?」


「・・・内機と外機?」


「部屋の中にあるやつは、知っとるやろ?」


「あー。もしかして外にあるやつが、外機?

 え。あれって繋がってんの?」


「当り前やん。」


「なるほどなー。」


納得したのか、舞乃空は

ペアコイルが置かれた棚を探しながら

離れていく。


その姿を見て、明来は思い出した。


―最初俺も、全然わからん状態で

 探しとったな・・・・・・


言われるままに資材を探し、

機材に触れる度、説明を受けて。

必死で覚えていた。


今は、教える方だ。

仕事を始めて。そんなに時間は経っていない。

教えながら、復習していこう。



指示を受けたのは最初だけで、後は

明来が先導して舞乃空に教えながら

資材と機材を揃えていった。


寺本は、その様子を見守っている。



資材の準備が整いつつある頃、

松宮が姿を現した。


「おはよう。」


「おはようございます!」


皆、一斉に挨拶をする。

その中でも、舞乃空の声は大きかった。

松宮は、一際背が抜け出ている彼に

目を向けて微笑んだ。


「よろしく。」


短い言葉だが、彼が発する言葉には

重みがある。


「よろしくお願いします!」


それを感じて、舞乃空は深々と頭を下げた。



明来は普段、その重みを十分に感じながら

仕事に向き合っている。


人の命。そして、

様々な専門の職人と繋がって、築き上げる。

どの分野もそうだが、自己判断では

命取りになることもある。


皆が手を取り合い、個々を理解し、

小さな積み重ねが、やがて

頑丈で大きなものになるのだ。



松宮が事務所の階段を上がっていった

直後に、電子タバコの煙を吐きながら

水野が姿を見せた。


「おう。」


手を上げて短く掛けられた、野太い声。

彼にも、松宮にはない貫禄がある。


「おはようございます!」


「よろしくお願いします!」


舞乃空の大きい声に、彼は満足げに笑う。


「今日は力仕事やけん、踏ん張れ。」


「はいっ!」


「大創。俺と松宮はトラックに乗るけん、

 お前らはこっちの車に乗っていけ。」


「了解っす。」


数分も経たずに、事務所の階段から

松宮が下りてくる。


「少し早いが、出ようか。

 ・・・時間があれば、出来る限りの

 内機設置まで施工したい。」


「了解っす。明来と俺で行きます。

 ・・・明来。ペアコイルと3芯ケーブル、

 ドレンホース一巻きずつ。」


「はい。」


「あと、スリムダクトも積んどけ。

 外機は、俺とこいつでいくばい。」


「ははっ、早速やな。頑張れよ、舞乃空。」


「はいっ!」


「よし。では今日も、安全第一で。」



内機と外機の搬入。

集合住宅の案件は、馬力が小さい機器を扱うが

部屋数も多いし、

運び入れる作業が過酷である。

階数が上がれば上がる程、手間も掛かるのだ。



明来は、ちら、と舞乃空に目を向ける。

彼は、とても良い表情をしていた。

意気込みが、溢れている。


力のある彼は、かなり役に立つだろう。

自分も、負けてはいられない。

数をこなすという事は、正確さプラス

速さを求められる。

焦らず、落ち着いて施工しなければ。





















太陽が高く昇る、正午。


こんこんこん。

とある医局室の出入り口ドアを、

ノックする音が響いた。


エルゴノミクスチェアの背に

もたれかかり、背伸びをした後

彼女は返事をする。


「どうぞ。」


その応答から少し間を置いて、

ドアがスライドして開く。


「お疲れさまです。・・・あの、

 話って何でしょうか。」


部屋に入らず、

ベージュのスクラブを着た青年は

控えめに尋ねた。

呼び出された理由に、少なからず

心当たりがある。

彼は緊張感を持って、ここに訪れた。


「お昼休憩中、悪いわね。

 ・・・どうしたの?中に入って。」


彼の様子を、彼女は感じ取っている。


青年の目の前にいる、白衣を身に纏う女性。

自然に浮かぶほうれい線と、

白髪交じりの黒髪。

彼女の容姿は地味で清楚だが、

静かに見据える双眸には

計り知れぬ理知の光が宿る。


「失礼します。」


会釈して断りを入れると、

部屋へ踏み入れる。

そんな青年を迎え入れた女性は、

堪らずに顔を綻ばせた。


「ふふっ。緊張しているのは何故かしら。

 何か心当たりがあるの?」


畏まり、身体を小さくさせる彼は、

彼女と目を合わせることが出来なかった。


「・・・えっと・・・その・・・・・・」


白状すべきなんやろか。


「そのソファーに座って。」


優しく促され、彼は言われるままに

優しい手触りのソファーに腰を下ろす。


「悠生くんは私の元で働いて、

 どのくらいになるかしら。」


「・・・・・・三年ちょっと、でしょうか。」


「そうね。とても良い顔になったわね。」


「・・・・・・何も、変わってませんよ。」


「歳を重ねて、落ち着いたのかしら。」


「・・・・・・それも、あるかもしれません。」


「最近では、『ラッヘン』も貴方の事を

 とても頼りにしているわ。」


「お師匠さんの教えが、上手やからです。」


「あら、謙遜するわね。」


「自分は日々、頑張るのみです。」


それしか、自分は取り柄がない。


「・・・きちんと、休んでいるの?」


「寝るのも、惜しいです。」


「頑張り過ぎは、良くないわね。」


「性分なんですわ。」


「ふふふっ。かなり知っているわよ。」


「・・・・・・話って、何です?」


「緊張、解れた?」


「焦らされるのは、好みではないです。」


「じゃあ、単刀直入に。

 『ランクス』の元で働いてみないかしら。

 貴方のその、真っ直ぐさと頑張りを

 彼が惚れ込んでいてね。」



青年は、目を見開く。

まさか、そんな話が来るとは思わなかった。


「・・・・・・ほんまの話ですか?」


「勿論よ。」


「そうなると・・・・・・

 ここを、離れるという事ですか?」


「離れるといっても、

 担当エリアが変わるだけね。」


戸惑いが、大きい。

嬉しさではなく、もやもやしたものが

胸に広がる。


「・・・・・・あまり、

 嬉しそうじゃないわね。」


彼の表情を窺って、女性は言葉を紡ぐ。


「私が担当する心療エリアとは違って、

 外科的療法に関わるエリアだから・・・・・・

 今よりも勉強する事は多いわね。

 確かに大変だけど、才覚のある貴方なら

 十分にやっていけるわ。

 ・・・是非、経験を積んでもらいたいけど。」


「・・・・・・はい。

 それは、本当に有難くて、

 自分には勿体ない話だと思います。」


だが。

そうなると。


「・・・・・・先生の元で働けるだけで、

 十分なんです。自分は。」


彼女に、会えなくなる。


「・・・・・・貴方が悪いとは、思わない。

 貴方の中に芽生えた、その気持ちを

 否定するわけじゃないの。

 でも・・・・・・」


ああ。やっぱり先生は。

知ってはる。


「・・・・・・すんません。実は・・・・・・」


「謝る必要はないわ。でも・・・・・・

 しばらく離れて、考えてみましょうか。

 出来る事が、増えると思う。」



先生は、自分から離れる事を

望んではる。


「・・・・・・はい。」


決意を固めて承諾した彼を見据え、

女性は微笑んだ。


「私は、貴方が立派に育っているのを

 誇りに思う。・・・息子がいたら、

 こんな気持ちかしらね。」


「・・・・・・自分は先生の事、

 ほんまに尊敬してます。

 今まで、本当に有難うございました。」


深々と頭を下げる青年に、女性は

いつまでも笑みを絶やさなかった。


「私もだけど、

 『ラッヘン』も寂しがると思うわ。

 時々でいいから、会いにいってあげてね。」


「はい。」


ほんまに、あの時が最後やったんやな。


これで、ええんかもしれん。


彼女を笑顔にさせたい自分の気持ちだけ、

空回りするよりも。

敢えて、止めてもろうた方が。

今は何もできんのやと、認識した方が。



他の誰かでもええ。


彼女を、笑わせたってあげてほしい。



どうか。

叶いますように。
























「ただいまー・・・・・・」



玄関から上がって廊下へ、膝を崩して

うつ伏せに倒れ込む舞乃空。


その様子を、明来は靴を脱いで

普通に上がると、澄ました顔で見下ろした。


「・・・おい。そこで寝転がるな。」


「・・・はーっ、冷たくて気持ちいー・・・・・・」


気持ちは分かるが。


「ほら、腕上げろ。」


「あいー・・・・・」


自分のショルダーリュックを置くと、

彼の背中に貼りついているリュックを

剝がしてやった。


「よく頑張ったやん。」


「ハンパねー・・・・・・」


彼は本当に、よく頑張っていた。


「水野さん、驚いとったね。

 外機を軽々運ぶ奴は珍しいって。」


「えへへ・・・

 いやー、張り切り過ぎたー・・・・・・

 マジでエグいわー・・・・・・明来は、すげーよー。」



フローリングの、

ひんやりする感じが丁度いいのか

彼は中々起きない。


ため息をつき、声を掛ける。


「風呂、先に入るけど。」


「どうぞー・・・・・・俺、

 しばらくこのままでいいかもー・・・・・・」



てっきり、“一緒に入るー!”って言って

起き上がると思ったが。


冗談を言う気力も、ないようだ。



目を閉じて、

床に頬を引っ付けている彼は、

どこか微笑ましい。


自分も、それをしたことがあるので

気持ちがよく分かる。



じっとして動かない彼の顔を覗き込んで

見つめていると、朝の事を思い出した。



“よく頑張りましたのチュー、くださいっ。”



今、彼は目を閉じている。

今が、それをするには

いいタイミングだ。



―・・・いやいや。何考えとるん?

 そんなの、俺から出来るわけないやん。



葛藤するのも恥ずかしくなって、

彼から視線を外す。



「・・・・・・舞乃空。」


「・・・・・・んー?」


「・・・・・・仕事、やってみてどうだった?」


「あー。めっっっちゃ楽しかったよー。」



にへらと、目を閉じたまま彼は笑う。


その顔が、何かをくすぐった。


「・・・・・・お疲れさま。」



膝を折りフローリングに付けて

前屈みになると、

素早く彼の頬に唇を落とす。


それに、舞乃空は

かっ、と目を見開いた。


明来は既に、洗面所へ姿を消している。



「・・・えっ・・・・・・

 今の・・・えっ・・・・・・

 明来、今の、なーに?ちょっとー。

 あー、くそー、身体が重いー。

 待ってー。ねー。明来ちゃーん。」






舞乃空の初出勤は、無事に終わる。



穏やかな日常に、足を踏み出した二人。

その行く手を阻もうとする、暗闇。


彼らに芽生えたものが、もたらす道は。



























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― 新着の感想 ―
[良い点] あああああああっ!!!!♡♡♡♡♡ もう、もうっ……!!ご馳走様です!!(*´ノi`)・:∴・:∴・:∴・:∴✨️ 最後の!ほっぺ、ちゅー、明来ちゃんから、頑張った舞乃空くんに!明来ちゃん…
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