隠された鍵
光あふれた朝を迎える、明来とゆり。
二人の時間が重なる時、
“暗闇”の影響も浮き彫りになる。
6
鬱蒼と広がる樹海の上に、真円の月が浮かぶ。
この中を歩こうと考える事は、
命を投げ出す事と同等である。
ただ、とある者たちは
とある一角を目指して、
樹海の下に設けられた通路を歩いていく。
それは、延々と続く抜け道が故に
死へ繋がる回廊だと称する者も多い。
ようやく辿り着いた先は
外に繋がり、草原が広がる。
今は深夜なので、空には
満天に散りばめられた星が煌めいていた。
視界にすぐ映り込む建物は
白亜の為、一見病院のように見える。
だが、そびえ立つ高い壁と
巨大な門を捉えると、居城なのではと
錯覚を起こしてしまいそうになる。
その門の傍らに背を預け、
夜空を見上げている少女がいた。
深夜の樹海に溶け込みそうな
混じり気のない漆黒の髪は、
肩の辺りで切り揃えられている。
身に纏うものは、
大きいサイズのトレーナー。
茹でられたタコの足が描かれている。
露出する細い足は引き締まり、無駄がない。
大抵の者は、あどけなく
可愛らしい少女だと捉えてしまう。
しかし、今彼女の表情に浮かぶ
深い憂いを目にすると、
子どもだと思うのを躊躇うだろう。
黒曜石のような瞳に漂う、月光の粒。
語り掛けるような、星の瞬き。
彼女はそれを感じ取り、何を憂うのか。
「・・・・・・『烏』さま。差し入れですぅ。」
閉じられた門の向こう側から、
なよなよした声が漏れる。
少女は、くるりと身体を
門の方へ向けて、右腕を上げた。
ぶかぶかの袖からは、手は出ない。
ぎぃぃぃ・・・と古びた音を立て、
巨大な門は開いていく。
中から姿を見せたのは、黒縁眼鏡を掛けた
白衣を纏う一人の男性である。
小さなケーキ箱と銀色のタンブラーを
それぞれ両手に持って、ぺたぺたと
狭い歩幅と内股で歩いてくる。
その度、綺麗な艶の輪が出来た
マッシュボブヘアが、さらさらと流れた。
「御苦労。」
少女は短く告げ、両手を上げる。
男性は長身である為、身を屈めて
ケーキ箱とタンブラーを差し出した。
「今夜は満月ですねぇ。綺麗だなぁ。」
にへらと笑って、男性は夜空を見上げる。
「・・・・・・そうか。お主はそう思うのか。」
タンブラーを脇に挟み、少女は
折れ曲がった袖の上から器用に
ケーキ箱を開ける。
その際、ふわりと
焼き上げられたパイ生地の香りが漂った。
切り分けられた2ピースの中身は、
煮詰められた苺ジャムである。
少女は箱の中に頭を突っ込んで、
鼻をスンスンさせる。
バターの香りと甘酸っぱい匂いが
混ざり合って、
何とも言えない幸福感に満たされていく。
「美味そうだな・・・・・・
お主の作る菓子は、誠に絶品だ。
いつもかたじけない。」
「えへへ~。ありがとうございますぅ。
そう仰っていただけて嬉しいですぅ。」
少女に褒められ、男性は嬉しさのあまり
とろけそうな笑顔になる。
箱の中から1ピースを器用に掴み取り、
少女は大きく口を開けた。
ぱくりと、頬張る量は多く、
餌を溜め込むリスのように膨らんでいる。
「『烏』さまは、本当に
甘いものがお好きですねぇ。」
幸せそうに咀嚼する様子を、男性は
絶えることのない笑みで見守っている。
僅か二口で1ピースを食べ終えた少女は、
すぐにもう一つを手に取って頬張る。
喉につかえたのか、
脇に挟んでいたタンブラーを手に取り、
すぐさま口を付けて
ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
「新しくハーブをブレンド致しましたぁ。
爽やかな後味になっていると思いますぅ。」
ぷはぁ、と息を吐き、少女は満足げに頷く。
「うむ。申し分ない。」
「良かったですぅ。」
彼女はいつも、差し入れの飲み物を
温度関係なく一気に飲み干そうとするので、
火傷をしないように温めである。
「お薬も、忘れないように
飲んでくださいね。
苦くないようにしていますから。」
手際よく、男性は
少女の持つケーキ箱と顆粒の入った小さな袋を
さっ、と入れ替える。
「・・・・・・」
少女は、じっと、
その小さな袋を見つめる。
明らかに嫌そうな表情をするが、
男性は引かずに笑顔のままだ。
「・・・・・・いつものではないか。
苦いやつだろう。」
「さぁ。どうでしょう。」
「・・・・・・苦くないのだな。信じるぞ。」
「はい。『ジーン』先生が
特別に処方してくださっています。
なので、服用していただかないとぉ。」
「・・・・・・分かった。」
渋々と、袋の封を開ける。
「そのハーブティーと一緒にどうぞぉ。
一緒に飲んで問題はないそうですぅ。」
なるほど。
この飲み物と併用して、薬なのだな。
少女は勝手に納得をして、口を開ける。
顔を上げ、顆粒を
さらさらと口の中へ落とした。
「うえっ。」
何とも言えない、人工物の味。
すかさずタンブラーを傾けて、
ハーブティーを一気に飲み干す。
その飲みっぷりを見届け、
男性はニコニコと微笑んだ。
「今夜も、いい飲みっぷりですぅ。」
「お主!!嘘付いたな!!
いつもの、苦いやつではないか!!」
「でもぉ、後味は良いはずですよぉ。」
「・・・・・・ん?おぉ、確かに・・・・・・」
苦いのは舌に乗せた一瞬で、
ハーブティーを飲んだ後の今は、
いつもの口に残る嫌な感じはない。
「今度から、もう大丈夫ですねぇ。」
空になったタンブラーと薬の袋を
男性へ返し、少女は不服そうに悪態をつく。
「大丈夫ではない!!この薬の味自体が、
どうにもならんのか?!
儂はこの味が大嫌いだ!」
「大事な薬ですからぁ。変えられません。」
爆発する彼女の不満を、男性は
やんわりと受け止める。
なよなよして弱々しくしているが、彼は
しっかり芯を通して意志を表す。
少女はそれを知っているので、
それ以上不満を言わなかった。
「・・・・・・菓子は、至極の美味であった。
礼を言う。また頼むぞ。」
「はい!こちらこそ、
いつも有難うございますぅ。
『烏』さまが『ここ』を
守ってくださっているから、僕たちは
安心して過ごせるのですよぉ。」
ふと、冷たい風が吹き抜け、頬を撫でる。
少女は、揺れる木々たちに
眼差しを向けた。
急に黙して動かなくなった彼女を見て、
男性は首を傾げる。
「・・・・・・『烏』さま?」
「・・・・・・こんな夜は、胸騒ぎがする。
早く中に戻れ。」
「胸騒ぎですか?
どこか具合でも悪いのかなぁ・・・・・・
お熱と血圧を測らせてもらっても・・・・・・」
ゆらりと黒い人影が、
地下通路から地上に上がった所に現れた。
草原の中を渡り、
ゆっくりこちらへと歩いてくる。
その動きを、少女―『烏』は見逃さなかった。
「中に入れ、『ラッヘン』。門を閉める。」
「えっ。どうしましたか?」
男性―『ラッヘン』は、
その人影に気づいていなかった。
戸惑う彼の背中を押し、
有無を言わせず施設の中へ押しやると、
『烏』は右腕を上げる。
ぎぃぃぃ・・・・・・と音を立てて
門が閉まっていく先に、
『ラッヘン』の困り顔が浮かぶ。
そんな彼に、言葉を投げた。
「そこで待つのだ。何かあれば知らせる。」
「えっ。えっ。『烏』さまぁ?」
ばたん。
完全に門が閉まった頃には、その人影は
門の近くまで姿を現していた。
スーツを身に纏った、中年の男。
目は虚ろで、何も映してはいない。
だらりと両腕を脱力させて
頭を傾けながら歩く様子は、
まるで操り人形のようだった。
たじろぐ事なく、『烏』は
その男を見据える。
「何者だ。名を名乗れ。」
呼び掛けるが、止まる気配はない。
「・・・・・・止まれ!聞こえないのか?!」
彼女と向き合うように、男が
5m付近まで足を踏み入れた瞬間。
急に、ぎょろっと男の目玉が動く。
『烏』を捉え、にたぁと笑った。
脱力していた両腕を上げて
彼女に飛び掛かるスピードは、
歩く様子からは予想できないほど速かった。
掴みかかろうとする男の両腕を
『烏』は紙一重で避け、とん、と
ステップを踏む。
「容赦はせんぞ。狼藉者。」
男の動きよりも素早く懐に踏み込むと、
腹部に鋭い蹴りを一撃食らわす。
よろめくが呻きもせずに、再度
彼女を掴もうと両腕を伸ばしてくる。
「はっ!!」
気合の声と共に、男の顎を蹴り上げる。
天を仰ぐように仰け反り、跳ね上がると
そのまま地面へ倒れ込んだ。
ぴくりとも動かなくなった男を、
『烏』は観察するように見下ろす。
服が所々汚れているのは、無意識の状態で
転んだ拍子に付いたものなのか。
それ以外は、目立った特徴がない。
仕事帰りのサラリーマン。
その言葉が、当てはまる。
「・・・・・・なぜ、
ここに迷い込んできたのだ?」
その問いに当然、答える気配はない。
起き上がる様子はなく、
瞼は固く閉じられている。
『烏』は門に近づくと、向こう側に待機する
『ラッヘン』に声を掛けた。
「・・・・・・不審者が来た。
今、気絶して倒れている。儂の蹴りでな。」
「えっ?!
・・・お、お怪我はありませんか?」
「指一本触れられてはいない。」
「流石ですぅ。
・・・でも、何で『ここ』に・・・・・・?」
「・・・恐らく、目覚めたらこの者は、
この場所に歩いてきた事を
憶えていないだろう。
・・・・・・操られていたと言うべきか。」
「あ、操られていた?」
その言葉が一番、合っている。
「実際の状態を、『ジーン』が見ていたら
はっきり分かったかもしれないが・・・・・・
“暗闇”の気配を感じた。」
「・・・そっ、そんなことが・・・・・・」
できるのか。
言葉を失うほどの、恐ろしい仮説だ。
「この者の意識が戻ると厄介だ。
『ここ』から運び出す。
誰か動ける者を連れてこい。」
「わ、分かりました。」
『烏』は再び、倒れた男の元へ歩み寄る。
しゃがみ込むと、眠る男に眼差しを向けた。
その瞳には、寂光が灯る。
「・・・・・・由々しき事態だな。」
*
【おじゃましまーす!】
【ふふっ。どうぞ。】
家の玄関を駆け上がる、子どもがいる。
その子を、母さんが笑顔で迎え入れている。
【どうしたの、明来?ほら、入りなさい。】
立ち尽くす自分に向かって、
母さんが笑う。
この笑顔が大好きで。
この人の笑顔を見たいから、自分は
いい子でいた気がする。
【こんにちはー!】
【こんにちは。】
リビングのソファーに、父さんがいる。
今思えば、在宅ワークだったのか
ずっと家にいた気がする。
家にはいつも、父さんか母さん、
どちらかがいた。
自分が一人で家にいることは、なかった。
【ご飯が出来るまで、
こっちに座って待っていよう。】
【はーい!】
その子どもは、父さんの言うことを聞いて
ソファーに座る。
【明来、おいで。】
自分に向けられる目は、穏やかで
とても優しい。
父さんも母さんも、怒るところを
自分は見た記憶がない。
それくらい、いつも穏やかだった。
【わぁー!かっこいー!!】
父さんがギターを抱えて、
チューニングをし始める。
【聴きたい曲はあるかな?】
そう聞かれて、その子どもは
目を輝かせながら言う。
【クローバーファイターがいい!】
【おおっ。そうきたか。】
クローバーファイター。
特撮ヒーローの名前だ。懐かしい。
簡易的にアレンジされていたけど、
テーマソングのサビ部分だと分かる。
【へーんしーんっ!!】
楽しそうにニコニコ笑いながら
変身ポーズを決めるその子どもは、
誰かに似ている。
そうか。
この子どもは、舞乃空だ。
笑顔で、分かった。
家に、来たことがあるって言ってたな。
オムライス食べたとか。
この時やったんかいな。
完全に、忘れてた。
あいつは、憶えていたんやな。
父さんのことも、母さんのことも。
大きくなって、改めて
父さんのギターを手にして。
当時は分からなかった、その価値も。
あいつは、再確認したのだろう。
【ぼくもできるかなー?】
【ああ。できるとも。やってみるかい?】
父さんはギターを下ろし、
舞乃空を膝の上に乗せる。
挟むようにして、ギターを抱え直した。
こんなことがあったのか。
今、思い出した。
この頃から、舞乃空は、舞乃空だったのか。
音楽を始めたきっかけって・・・・・・
もしかして、この時だったのかもしれない。
*
「明来ー。おはよー。起きろー。」
ノック音と共に、
舞乃空の声が耳に届く。
「早めに行くんだったよなー?
もう6時だぞー。」
心地好い脱力感を覚えながら、
明来は身体を起こして
掛けられた声に応える。
「・・・・・・ああ。今行く。」
「朝メシの準備しとくからなー。」
少し、笑い混じりの声だった。
「・・・・・・ありがとう。」
ボードの上にあるスマホに手を伸ばし、
スヌーズを解除する。
―・・・・・・
何回も鳴ってたのか。
起きれなかったな・・・・・・
今日は、寝覚めが悪くない。
久しぶりに熟睡した気がする。
見た夢も憶えているし、
何とも言えない気持ち悪さもない。
ただ、心のどこかで、
起こしてもらえる期待感があるのか。
甘えているのか。
スマホのアラームでは起きたくないのか。
自分の寝起きの悪さに、疑問を持つ。
明来は欠伸をしながら、
スマホの通知を確認する。
すると、葉音からメールが届いていた。
僅か10分前である。
《。°(°´Д`°)°。》
泣いている。
これは、聞かずにはいられない。
《おはよ》
《どうした?》
既読は、すぐに付いた。
《明来ちゃんごめん》
《オルゴールこわしちゃった》
―オルゴール。
ああ。あれか。
明来は大して動じることなく、返信する。
《べつにいいよ》
《良くないよぉ(T_T)》
《こはるがね、飛びついちゃって》
《フタのおさかな
リアルすぎたみたい》
これを見て、明来は吹き出した。
あの鮎の浮彫りは、
猫にも認められたということだ。
《それはすごい》
《棚から落ちて、中身が》
《オルゴールの土台の下に
鍵が入ってたみたい》
《今から届けに行ってもいい?》
―・・・・・・鍵?
心当たりがない上に、
“鍵”という言葉が出てくるとは思わなかった。
しかしその事よりも、最後の文章で
完全に目が覚めた。
《今から?》
《もう向かってる》
彼女の行動力は、目を見張るものがある。
《分かった玄関出るから》
スマホを片手に持ち、明来は
すぐさまベッドから下りて
部屋のドアを開けた。
寝癖が気になるとか、
寝起きで変な顔になっていないかとか、
あれこれ考えながら階段を下りる。
玄関を開けると、丁度着いたのか
葉音が泣きそうな顔で立っていた。
走ってきたのか、息を切らしている。
オルゴールをしっかり抱え込み、
明来の顔を見るなり
ぶわっと涙を溜め込む。
「ごめん明来ちゃん。
学校終わってからと思ったけど、
今夜は来れそうになかったけん・・・・・・」
朝から、顔を拝めて。生声聞けて。
それだけで嬉しいのに、泣きそうな顔して。
ハグして、よしよししたい。
舞乃空なら、それをやってのけそうだが
自分はそんな包容力がない。
だから、今できることは
微笑んで、声を掛けることだけである。
「・・・・・・謝ることないのに。」
「だってぇ・・・・・・」
ああもう。かわいい。
気づけば、制服姿だ。
特典付きじゃないか。
「鍵が入っとったって?」
「・・・うん。」
葉音は、中身を見せるように
完全に分離したオルゴールの蓋を開けた。
昨日は入っていなかった。
何の変哲もない、普通の鍵である。
「オルゴールと土台が外れちゃって・・・・・・
これ、直らんかなぁ・・・・・・」
「すぐ直ると思う。」
「えっ?!ほんと?!」
明来の一声で、葉音の顔が
ぱぁっと明るくなる。
「・・・だから、泣くなって。」
「うんっ。良かったぁ。
・・・・・・預けとくね。」
良い笑顔で、オルゴールを差し出す。
通り雨の後に出る、晴れ間の虹のように
彼女の天気は本当に、すぐ変わる。
じっと見つめているのは申し訳ない気がして、
明来は鍵に目を向け、首を傾げる。
「・・・・・・俺にも、分からん鍵かも。」
「もしかして、明来ちゃんの
パパかママのかな?」
だとしたら。
心当たりのある所は、あの場所しかない。
「・・・・・・これからお仕事だよね。
ケガに気をつけて頑張ってね。」
この上ない、
激励の言葉をいただきました。
「・・・葉音も、学校
気をつけて行ってらっしゃい。」
「はーい!またね!」
大きく手を振って
笑顔で去っていく彼女に、
明来も小さく手を振って見送る。
今気づいたが、白々と明ける空には
真円の月が、眠たそうに浮かんでいた。
今日も、良い天気になりそうだ。
片手にオルゴールを抱え、明来は
玄関のドアを閉める。
―・・・・・・
あの部屋の鍵としか、考えられん。
両親が仕事場として使っていた、
開かずの部屋。
―オルゴールの土台の下にあるなんて、
思わんかった。
こはるのファインプレーがなかったら、
ずっと分からなかったかもしれない。
明来は、ゆっくりした足取りで
階段を上がる。
―そこまでして、隠すなんて。
よほど自分に見られたくなかったのか。
でも、舞乃空が言うように、自分が
ドアを壊して入る事を考えなかったのか。
階段を上がると、
突き当りの部屋のドアを見つめる。
―いつかは、開けなければと思っていた。
でも、まさかこのタイミングで
鍵が見つかるなんて。
自分と向き合おうと、心に決めた。
憶えていないことを、
分からないことを、取り戻すために。
弱いままの自分を、変えるために。
現実を、塗り替えろ。
ずっと聴いている、あの歌のように。
明来は、オルゴールを
自分の部屋の勉強机に置き、
再び1階へと下りて、廊下を歩いていく。
洗面台に立つと、正面にある鏡で
自分の顔を確認した。
―・・・・・・寝癖やば。
こんな顔で、会ったとか。
顔くらい、洗えばよかった。
水を勢いよく出して、顔を洗う。
勢いがありすぎて、
水しぶきが服に掛かっている。
それもお構いないに、明来は
バシャバシャと洗い続ける。
「お前、洗面テキトーすぎね?」
あーあー。
後ろから、喉を鳴らして笑いながら
舞乃空が声を掛けてきた。
ホルダーに掛かっていたタオルを取り、
顔を拭きながらランドリーラックに
目を向けると、空いていた棚に洗顔フォーム、
上品な化粧水、シェービングが並んでいる。
「・・・・・・お前、これ使っとるん?」
「嗜みだろ。明来もした方がいいぞ。
まぁ俺の場合、
ヒゲはそんなに伸びねーけど。」
―・・・・・・
確かにこいつ、肌ツヤいいっちゃんね・・・・・・
それは、再会した時から
思っていた事である。
「触る?」
見つめてくる明来に、
舞乃空はニヤニヤしている。
「触らん!」
タオルを洗濯機へ放り投げ、逃げるように
洗面所から出ていく。
その後を追うように、彼は付いて歩いていく。
「葉音の声がしたけど?
昨日の夜会ったばっかなのに、
また会いたくなったって?やってんなー。」
リビングに入ると、
挽かれたコーヒー豆の香ばしいにおいが
鼻腔をくすぐった。
「オルゴールを落として壊れたけん、
持ってきたんよ。それに鍵も入ってて。
今夜来れそうにないからって。」
「はははっ。いーじゃん。
理由なんて言わなくても。
“会いたかった”、で。
正直に話しすぎだろ、お前。」
そう言いながらも、
舞乃空は嬉しそうに笑っている。
「お前が、嘘が通じないって
言うからやろうもん。」
「信じてくれてんだよな。ちょー嬉しい。
おはようのハグしていい?」
―こいつは何かと、流れにこじつけて
ハグしようと企んでいる。
明来は呆れ顔で、両腕を広げて待ち構える
舞乃空を見据える。
「・・・・・・俺とハグして、何がいいんよ?」
「明来熱!いいに決まってんじゃん!
それもだけど、いつも俺の愛で
明来を包んでやりて―の。」
「・・・・・・」
「さぁ、おいで。」
「・・・・・・思い出したんやけど、お前さ。
父さんのギター、このリビングで
聴いたことあるよな?」
明来の問い掛けに、舞乃空は
目を輝かせて笑う。
「思い出したのか?!」
「・・・ああ。
お前が音楽始めたのって、それから?」
「そーだよ。」
「ふぅん。」
明来は納得するように頷きながら、
ダイニングテーブルの椅子を引いて、
腰を下ろす。
「あれ?ハグは?」
「・・・せっかく用意してくれた
朝メシが冷める。」
テーブルには既に、
完成された朝食が並んでいる。
「1、2秒で終わるのに・・・・・・」
寂しそうに、舞乃空は
広げていた両腕を下げる。
―終わらんやろうもん。
「あ。いつも昼メシって、冷凍庫の
作り置きしてるおにぎりを解凍して、
具を入れたやつ持っていくんだろ?
海苔巻いてさ。
それ、作っといたけど良かったか?
具は、梅と鮭フレーク!」
テーブルの上に、ラップで包まれた
おにぎり2個が目に入るのと、
舞乃空の言葉を聞き入れたのは
ほぼ同時だった。
「・・・・・・ありがとう・・・・・・」
明来は目を見張って、ぽろ、と
感謝の言葉を零す。
舞乃空は、得意げに笑って言った。
「俺も来週から仕事だし、
予行練習しとかないとな。
なるべく俺がやるから。」
「いや、でも・・・・・・」
「いーんだよ。楽しいから。」
今、気づいた。
彼は、ここに来た時から
自分よりも早く起きている。
しかも、ダイニングテーブルに並ぶ朝食。
自分がいつも食べるメニューである。
「・・・・・・お前は、まだ仕事じゃないだろ。
寝とっていいっちゃけど。」
細やかな気遣いに、感謝の言葉よりも
少し意地悪な言葉を掛ける。
「やだー。一緒に朝メシ食うー。」
しかし、彼は動じない。
自分と向かい合って、椅子に座る。
「・・・・・・仕事始めたら、
きつくて起きれんくなるけん。」
「俺さー。寝なくても平気なヤツなの。
多分仕事始めたら、爆睡はするけど
今よりも元気になりそー。」
「・・・・・・」
ランチプレートには、プチトマトにレタス、
目玉焼きに、トーストされた食パン。
出来上がった朝食を眺めながら、
舞乃空は満足げに微笑む。
「良い出来だろー?」
「・・・・・・うん。」
「食べたいのあったら、言っておいてくれ。
買い物行こうかなって思ってさ。
ほら、水筒必要じゃね?
・・・親からもらった金、準備で使うなら
文句ねーだろ。」
「・・・・・・そうやな。
いろいろありがとう。」
今度は素直に、感謝の言葉を告げる。
それに対して彼は、満面の笑みで応えた。
「じゃあ、いただきまーす!」
「・・・いただきます。」
手を合わせた後、舞乃空は
指でプチトマトを摘んで、頬張る。
そんな彼を、明来は
マグカップを手にしながら見据えた。
彼がここにいると、自分は
動くことが少ない気がする。
彼が率先して動くことを、自然と
受け入れているのかもしれない。
「あ。言い忘れてた。
今夜、あの人が家に来たいってよ。」
コーンスープを口に含んだ後、
舞乃空が告げる。
「・・・・・・今夜?」
最初ぴんと来なかったが、
名刺の事を思い出し、明来は相槌を打つ。
「昨日、お前と葉音が
ここでイチャついてた頃に、連絡したんだ。
そしたら、今夜がいいって。」
「・・・・・・イチャついてないし。」
―電話したのは、あの女性とだったのか。
「・・・急やな。」
「ダメか?」
「・・・・・・いや、別にいい。」
会ったのは昨日で。
会ったといっても自分は憶えていなくて。
後姿しか見ていない人に、家で会う。
人生でそんな事は、初めてである。
「仕事で遅くなるかもしれんけど、いいと?」
フォークでレタスを刺して、口に運ぶ。
「それは構わないって言ってた。
20時頃伺いますって。」
こんがり焼けたトーストに、かぶりつく。
「・・・あ。さっき、鍵とか言ってたな。
昨日フタ開けた時気づかなかったのか?」
目玉焼きは、自分好みの焼き加減だ。
「ああ。ぱっと見ただけじゃ分からんかった。
土台の下に、あったらしい。
・・・隠しとったみたいだ。」
「・・・・・・もしかして、あの部屋のやつかな?」
トーストを咀嚼する音と、混ざり合う。
「・・・・・・多分。」
―そうとしか、考えられない。
「来るべき時がきたってやつだな。」
「・・・・・・そんな大げさなもんやない。」
「タイミングって大事だろ?
手に入ったってことは、そういうことだ。
今度開けようぜ。」
目玉焼きの黄身が
とろりと、口の中に広がる。
「葉音も呼ぼう。」
「・・・・・・いや、葉音には知らせない。」
「何でだ?」
「・・・・・・」
なぜ、自分は躊躇うのか。
舞乃空はいいのに、葉音は。
両親の知らない一面を見て、
彼女が泣きそうで。
もし自分が憶えていない部分に、
それが関わったいたとしたら。
沈黙する明来を、
舞乃空は真っ直ぐに見据える。
彼は、何かに怯えている。
それは、彼の両親と関わっているのか。
幼なじみの彼女に知られたくないのは、
何か思うところがあるのか。
「・・・・・・明来のパパママって、
どんな仕事してたんだ?」
「・・・・・・分からない。」
正直、そうだった。
どんな職種なのか。
どんな人と関わっていたのか。分からない。
「会社の名前も、分からないのか?」
「・・・・・・」
それは、分かる。
でも、言いたくない。
黙々と、明来は食事を進める。
「・・・・・・言いたくないなら、
もう聞かねーけど。
でも多分な、それを知ったところで
俺がお前から離れることは、
ありえねーからな。」
軽はずみで、聞くわけじゃない。
それを眼差しで語り、舞乃空は
目玉焼きに醤油を掛ける。
明来は、ちらっと彼に目を向けて
それを感じ取る。
そう。舞乃空なら。
受け止められる、強さがある。
「・・・・・・“Lotus”っていう財団、知っとる?」
「・・・・・・知らねー。」
「そこに、所属してたっぽい。
検索したら、出てくる。」
「後で調べとく。」
自分は勿論、調べて、知っている。
その財団のトップが数年前、逮捕されている。
それに至った経緯の、詳しい内容は
恐ろしくて、震えながら確かめた。
しかし両親がその財団の何者で、
どういう仕事をしていたのか。
それには辿り着かなかった。
だから、怖い。
だから、親戚から、白い目で見られている。
葉音が知ったら。
自分と距離を置くかもしれない。
舞乃空も、知って、
気が変わるかもしれない。
「明来。食べ終わったら、ハグな。」
「・・・・・・は?」
―この流れで、それはないやろ。
そんな目で見ると、
舞乃空は不敵の笑みを浮かべた。
「・・・・・・現実を塗り替えようぜ。」
言っている事は、滅茶苦茶だ。
でも、こいつが言うと。
なぜこんなに、格好いいのか。
妙な動悸が起こる。
彼から目を逸らし、それに耐える明来。
大らかな笑みを湛えながら、
舞乃空は言葉を紡ぐ。
「教えてくれて、ありがとな。」
その響きには、深い何か思わせる。
彼がハグを求める意味が、
少しだけ理解できた気がした。
思わず、視線を合わせる。
自分が隠していた、秘密の一部。
それを、ようやく舞乃空に告げられた。
彼なら、笑い飛ばしてくれると思っていた。
自分と過ごす時間とは、無関係だと。
「なぁ。葉音と昨日、どこまでいった?」
「・・・・・・はぁ?」
「チューくらいしたんだろー?」
いきなり話題が余計なお世話なものになり、
明来は顔を真っ赤にさせる。
「・・・してないって!!」
「えーっ?肩くっつけてたじゃん。」
「あ、あれは、その・・・・・・」
―葉音から・・・・・・
「その反応だと、また葉音からだろ。」
―何で、分かる?
「・・・モヤモヤすんなぁ。
俺が今度教えてやるよ。手取り足取り。」
「お、教えなくていい!!」
「おー。遺伝子に任せるってやつか。
俺は否定しない。
その方が、明来らしくていい。」
「意味分からん!!」
重かった空気が、一気に吹き飛ぶ。
賑やかな朝食の時間。
会話をしながら、食事をする。
これが自然で、日常に行われる有難さ。
光あふれる時間は、これから
当たり前になっていくのだろうか。
滑らかな舌触りと、自然の甘さ。
いつも口にするコーンスープが、
こんなに濃くて染み込むものだとは
今までに思わなかった。
温かくて、優しい。
笑顔を絶やさない舞乃空を眺めながら、
明来は噛みしめる。
この時間が、いつまでも続けばいいと。
微かな、寝息。
それと、上品な整髪料のにおい。
あたたかみ。
全身を包み込む、両腕。
その中で瞼を上げたゆりは、
間近に映り込む胸板を、凝視する。
顔を上げると、蔵野の寝顔が
目に飛び込んでくる。
いつも綺麗に整えられていた彼の前髪は
乱れて、閉じられた瞼に掛かっている。
徐々に浮かび上がる、昨晩の出来事。
鼓動が跳ね上がり、一気に目が覚めた。
今自分は、当然何も着ていない。
彼も、だ。
こんな朝を迎えたのは、初めてである。
“彼”と寄り添って、
添い寝をしたことはある。
だけど、肌と肌で確かめ合うような、
そんな時間は、なかった。
敢えて“彼”は、それを止めていたのか。
“力”を使うことで、体温を感じられくなる事を
気にしていたせいなのか。
それに対して、何も疑問を持たなかった。
自分も求めなかったし、寄り添うだけで
充分幸せだったから。
今となっては、分からない。
それを確かめる術は、もうない。
彼女は、目の前で寝ている彼に、
どんな顔をして合わせればいいのか戸惑った。
高鳴りは、上昇して止まらない。
身体は火照り、汗が滲みそうだった。
自分は、なんてことを。
今更だと言えば、それで終わりなのだが。
これでは、順序が逆ではないか。
―そうだ。
まず、この彼の両腕を、
ゆっくり外して、離れないと・・・・・・
このままだと、心臓の爆音で、
どうかなりそう。
焦りを抑えるように息を整え、ゆりは
自分に絡みついている蔵野の両腕に、
そっと両手を添える。
彼の顔を確認できる程、部屋の中は
程よい光が、カーテンから差し込んでいる。
思わず、じっと彼の寝顔を見つめた。
―・・・・・・
ゆっくり、じっくり顔を見るのは
初めて、かも・・・・・・
昨晩は、部屋の照明を落としていて
暗かったので、はっきり見えていない。
彼との食事の前には、
コンタクトを外していた。
ぼやけていた方が、好都合の時もある。
特に、昨晩に関しては。
暗い中、彼の目が
自分を捉えていたのは気づいている。
その度、息が止まりそうで。
射貫くように、見つめられて。
思い出すだけで、もう。
彼の瞼に掛かる前髪に、目を向ける。
―・・・・・・前髪、あった方が・・・・・・
好きかも。
彼の両腕から逃れるのを忘れるくらい、
その事が気になった。
触れようと、片手を伸ばす。
すると、閉じられていた瞼が、少し開いた。
彼女は、どきっとする。
その手を引っ込めようとしたら、
それを許さないように彼の手が覆う。
「・・・・・・おはよう。」
柔らかい笑みと、挨拶の言葉が
彼から零れた。
「・・・お・・・・・・
おはよう・・・・・・ございます・・・・・・」
顔が火照る。紡いだ声も、震える。
彼の両腕は、さらにふわりと
力を籠められて彼女に絡みついた。
これでまた、離れることが困難になる。
どっ、どっ、と突き破りそうな鼓動に、
彼女は耐えた。
このあたたかみは、苦しい。
申し訳なさすぎて。
幸せすぎて。
「・・・・・・このまま、
ずっと、こうしていたいが・・・・・・
戻らなくてはならなくなった。」
耳元で心地好く響く、彼の声。
「・・・・・・はい。」
彼の懐で、彼女は小さく相槌を打つ。
それは、“見えて”いた。
彼が今日、ここを発ち、戻ることは。
「君は今夜、彼らと会うんだね。」
「はい。その予定です。」
「・・・恐らく、
『家』に招くことになるだろう。」
「・・・・・・その手筈で、
話を勧めようと思っていました。
蔵野さんから・・・・・・
許可を得られたら、実行しようと。」
いつも通りに。
平静を保とうとして、仕事口調になる。
ふぅ、と耳元で、小さく息が漏れた。
蔵野は頬を、ゆりの頬に摺り寄せる。
「・・・・・・二人でいる時は・・・・・・
軽い方がいいなぁ。」
彼の仕草と
吐息まじりの囁きは、甘すぎる。
冷静でいられる筈がない。
「・・・・・・ず・・・ずっと、
そうでしたから・・・・・・
まだ、どうしたらいいか・・・・・・」
分かりません。
彼女は、消え入りそうな呟きを漏らす。
上司であり、目上の男性である彼に、
彼女は今まで敬愛を持って接していた。
それを、急にくだけて、恋人のように
話す事とか、触れるとか、できない。
「・・・・・・ゆっくりでいいから。」
じゃないと、悲しいよ。
言葉の意味とは裏腹に、
笑い混じりだった。
自分の反応を、楽しんでいるような。
「・・・は・・・・・・はい・・・・・・」
返事をするのが、精一杯である。
どきどきする。
何もかも、包まれて。
固まっていると、彼は、ふっ、と
小さく吹き出す。
「君は、意外と・・・・・・」
そこで、言葉は止まる。
「・・・・・・え?何ですか?」
当然、気になる。
「・・・・・・何でもない。」
「・・・・・・言ってください。」
「・・・・・・何でもないよ。」
「・・・・・・気になります。」
「じゃあ、恵吾と呼んでくれたら。」
えっ。
声にならず、ゆりは息を漏らす。
「蔵野さん、ではなくて、恵吾。」
「え・・・えっと・・・・・・」
―それは、ハードルが高いですよ。
「言えないのなら、言わないよ。
・・・・・・まぁ、言わなくていいのかもね。」
「そ、そんな・・・・・・」
「さてと。一緒にシャワーを浴びようか。」
「えっ?いや、それはっ、ちょっとっ・・・・・・」
その慌てぶりに、今度は
大きく吹き出して笑う。
「ははっ。そんなに慌てなくても。」
「・・・うぅ・・・・・・」
遊ばれている。そんな気がする。
「僕は、良いけどね。」
「・・・・・・私は、駄目ですっ。」
明るい所で、自分の裸を見られるなんて。
それは、恥ずかしくて、無理だ。
昨晩、沢山見られているかもしれないが。
それでも。
「・・・・・・ああ、楽しい。」
可笑しくてたまらない様子で
彼は笑い続け、両手を彼女の両頬に添える。
額と額が、触れ合いそうな距離。
視線は自動的に、彼を双眸を捉えるしかない。
「・・・数日、会えないと思うから・・・・・・
焼き付けておくよ。」
君の目、肌、髪、身体。
そして、におい、声、呼吸、心、全てを。
「・・・・・・貴重な時間を、有難う。」
胸が、締め付けられる。
それは、こちらが言いたかった。
自分の為に、向き合う時間をくれて。
温もりを感じながら、朝を迎えられて。
「・・・・・・こちらこそ、
有難うございます・・・・・・」
―“彼”の思い出、言葉、温もり。
それを、大事に閉じる時間をくれて。
「・・・・・・ゆり。」
また、忙しない日常が始まるけれど。
これから君が、傍にいると思えば。
「・・・・・・恵吾、さん・・・・・・」
少しずつ。
貴方を、想っていきます。
今まで、私を想ってくれた時間に
追いつけるように。
これからの時間を、貴方とともに。
真円から少し欠けた月が、
夜空に浮かんでいる。
時刻は、午後8時を回ろうとしていた。
閑静な住宅街の中を、
ゆりは颯爽と歩いていく。
その度に、パンプスのヒール音が鳴り響いた。
街灯が照らし出す彼女の姿は、
サーモンピンクのシャツと
キャラメル色のフレアスカート。
ハンドバッグと、大きめの手提げ紙袋を、
左手に持っている。
辿り着いた先は、とある一軒家。
玄関前のアプローチには、照明が灯っていた。
門扉のすぐ横にあるインターホンを鳴らすと、
“はい”、と応答が返ってくる。
「・・・・・・『小百合』です。」
彼女は敢えて、この家に住む少年に手渡した
名刺の名前を紡ぐ。
その方が、警戒する事はない。
玄関のドアは、すぐに開いた。
中から出てきたのは、背の高い少年。
ウェーブがかったローシェンナ色の髪と、
左耳に付けられた2つのピアスが印象強い。
「こんばんはー。」
少年―舞乃空は門扉を開け、にこやかに
挨拶の言葉を紡ぐ。
ゆりは応えるように会釈をして、
柔らかく微笑んだ。
「こんばんは。」
「明来のやつ、
仕事がちょっと長引いたみたいで。
ついさっき帰ってきたんっすよ。
今、シャワー浴びてるところで・・・・・・
待ってもらってもいいっすか?」
「ええ。勿論。」
舞乃空は先導するように、
アプローチを歩いていく。
彼の背中に目を向けながら、ゆりは
後を付いていった。
「ゆりさん、って呼んでいいっすかね?
それとも、
『小百合』さんの方がいいっすか?」
「・・・・・・どちらでも。」
「じゃあ、ゆりさんで。
俺の事は、舞乃空で構いません。
呼び捨てでいいっすよ。クソガキなんで。」
玄関でスニーカーを脱ぎながら、
彼は歯を見せて笑う。
「・・・・・・自分を卑下するような事、
言わないように。
舞乃空くん、と呼ばせてもらうわね。
・・・お邪魔します。」
苦笑しながら嗜めると、ゆりは
パンプスを脱いで玄関を上がる。
「へへっ。叱られちゃったー。」
嗜められたことに対して、
舞乃空は嬉しそうである。
脱いだパンプスを、しゃがんで
綺麗に並べるゆりに目を向けて、
彼は言葉を紡ぐ。
「・・・ねー、ゆりさん。
何か、良いことありましたよね?
昨日会った時と、全然違うっすもん。
何ていうかー、明るくなったし。
和らいだというかー。」
その指摘に、ゆりは少し焦った。
だが隠したところで、
無駄な抵抗かもしれない。
観念するように小さく息をつき、吐露する。
「・・・・・・あったかもね。」
「ですよね?!」
舞乃空は声を上げ、満面の笑みを浮かべる。
「良かったっすね!
相手は勿論、あの人っすよね?
包容力レベチだよなー。
俺も、ああなりてー。」
聞くことに躊躇いがない。
ゆりは苦笑いしながら立ち上がり、
やんわりと言葉を返す。
「詮索しないでもらえる?」
「大人の事情、っすもんね。」
「・・・・・・こら。」
「良かったじゃないっすかー。
あの人、めっちゃいい人っすよ。
・・・あ。俺より知ってるってね。
っていうか、何で今まで
付き合わなかったんっすか?
もうすでに両想いだったのに。」
「・・・・・・ふふっ。」
ここまで、ずけずけ聞かれると
妙に清々しい。
彼ならではの、持ち味なのか。
「おー。ゆりさんの笑顔、最高っすよ。
これからもっと笑わないと。
あの人も喜びますよ。」
「大きなお世話。」
「はははっ。すんません。」
「夕ご飯まだでしょ?筑前煮を作ってきたの。
良かったら、一緒に食べましょう。」
ゆりは見せるように、
手に持っていた紙袋を少し上げる。
舞乃空は目を見開き、
とても嬉しそうに笑った。
「やばっ!ゆりさんの手料理!!
あざっす!!
米炊いてはいたんっすけどー、
おかずをどうしようか考えてて・・・・・・」
「口に合えばいいけど。」
「合います!!合わせます!!」
「ふふっ。」
彼の大きなリアクションに、
彼女は思わず笑う。
彼の人懐っこさは、培われたものだ。
大人が常に、周りにいる環境で
身に付いたもの。
そうしなければ、生きられなかった。
その背景がある。
「あ。それ履いてくださいねー。」
促された先には、
ふわふわ裏地のルームシューズが
一組置かれていた。
「ソファーでゆっくりしていてください。
何か飲みますー?」
舞乃空は、ゆりから
手提げの紙袋を丁寧に受け取ると、
リビングに入っていく。
「ご飯を食べる時、一緒にいただきます。
ありがとう。」
ルームシューズを履き、彼の後を追うように
リビングへ足を踏み入れる。
するとすぐに、
落ち着いた浅葱色のソファーが目に入った。
そのソファーへ向かって歩いていくと、
ゆっくり腰を下ろして
ハンドバッグを横に置き、部屋全体を見渡す。
整理整頓され、掃除も行き届いている。
その事に感心しながら、
ゆりは言葉を紡いだ。
「・・・・・・明来、っていうのね。名前。」
アイランドキッチンのワークトップに
紙袋を置き、舞乃空は食器棚から
陶器の大皿を取り出して言葉を返す。
「はい!いい名前っしょー?」
彼は、自分の事のように嬉しそうだ。
「明るいに、来るという字?」
「はい。パパママのセンス、
いいっすよねー。」
「あなたも、とてもいい名前よ。」
「そうっすかねー?へへ。
ゆりさんに言われると、何か嬉しいっす。」
舞乃空は、デレデレしている。
「ゆりさんって、正直な人っすよね。
言葉の発音に表れてるっすもん。
・・・ゆりさんだから言うっすけど、俺
耳がエグいくらい良くて。
それで、建前と本音を
聞き分けられるみたいっすね。」
まるで、他人事のように紡ぐ。
きちんと向き合って、
自己分析している証拠だ。
「ああ、あと・・・雰囲気?近い言葉だと、
オーラってやつかなー。
何となくだけど、分かるっす。」
「・・・・・・ええ。」
その感覚は、自分も同じだ。
「ゆりさんはっすねー。
リアルで、正義のヒーロー・・・あっ、
ヒロインがいるとしたら、
ゆりさんみたいな人だろうなーって
思います。だから、憧れちゃいますね。」
彼の言葉に、彼女は首を傾げる。
「・・・それは、勘違いじゃないかしら。」
「そうかなー?
ずばばばっと、悪をなぎ倒し、
難事件を円満に解決する正義のヒロイン、
的なー感じ。」
“なぎ倒す”という言葉のニュアンスは
近いのかもしれないが、自分の場合は
護身と護衛の為である。
「ヒロインじゃないことは、確かね。」
「俺も、強くなりてーっす。
ゆりさんみたいに。」
身の上を話していないはずだが、
どうやら彼は見えているらしい。
ゆりは小さく笑って、言葉を返す。
「なれるから。誰でも。」
リビングから、聞き慣れない声がする。
身を整え、パーカーとジーンズに着替えた
明来は、浴室から廊下に出ると
その事に気づく。
鈴の音のような、高く澄んだ響き。
舞乃空の笑い声も、混じって聞こえる。
楽しげに、会話をしているように思えた。
玄関の三和土を覗き込むと、
見慣れないコーラルピンクのパンプスがある。
あの女性が、もう来ている。
―・・・・・・
昨日会ったばかりやろ?
あいつのコミュ力、エグいな。
リビングに入るのを、ドアの前で
躊躇していると、中の方から開いた。
明来は、びくっとする。
「おー。明来。
今、様子見に行こうと思ってたんだ。」
顔を出したのは、笑顔の舞乃空である。
何となく安心感を覚えながら、口を開く。
「・・・・・・遅くなって、悪い。」
「ゆりさん、もう来てるぞ。」
「・・・・・・ゆりさん?
『小百合』さんじゃなくて?」
「ああ。ゆりって、本名なんだよ。
何となく、ゆりさんって呼ぶ方が
いいかなーって思って。」
―どれだけ打ち解けとるんよ。
明来は、ちらっと
リビングの中へ目を向ける。
ソファーの方から、視線を感じた。
中に足を踏み入れ、その女性と目を合わせる。
「・・・・・・初めまして。」
ゆりは、すっと立ち上がって会釈をする。
綺麗に伸びた背筋と
少し吊り上がった目元は、凛としていて
彼女の美しさと比例している気がする。
少し圧倒されつつ、明来は会釈をした。
「・・・・・・初めまして・・・・・・
蓮尾 明来です。」
「・・・・・・」
しばらくの、静寂。
二人が向き合う中、舞乃空は黙って
その行方を窺っている。
何も言葉を告げることなく視線を向ける
ゆりに対し、明来は
どうしようか戸惑い始めた、直後。
彼女は、ふわりと微笑んだ。
「佐川 ゆりです。よろしくお願いします。」
真摯な面持ちから、緩んだ笑顔が
とても綺麗だった。
「・・・よろしくお願いします・・・・・・」
思わず会釈をして、言葉を漏らす。
そんな明来の頭に
ぽんっと手を乗せて、舞乃空は
笑いながら言う。
「はははっ。何キンチョーしてんだー?
ゆりさんがさ、
夕メシのおかず作ってきてくれてんの。
一緒に食べよーって。」
「・・・・・・えっ?」
「お仕事、大変お疲れさま。
・・・筑前煮は好き?」
―・・・煮物。大好物だ。
「・・・・・・はい。」
「良かった。たくさん作ってきたから、
遠慮なく食べてね。」
優しい笑顔と温かい眼差しは、
どこか母性を感じる。
ゆりの佇まいと雰囲気に、明来は
少しだけ緊張の糸を緩める。
「腹が減っては・・・ってやつだなー。
とにかく食おうぜーっ!!」
待ちきれない様子で、舞乃空は
アイランドキッチンへ小走りしていく。
「見て見て明来ー!うまそぉだろー?!」
大皿に盛られた、山盛りの筑前煮。
人参、里芋、牛蒡、蒟蒻、筍、蓮根、鶏肉。
それぞれ、味を最大限に引き出す形に
切られており、醬油だしが染み込んでいる。
松宮家でも、具材は微妙に違うが
この筑前煮が並ぶ時がある。
これが食卓に並ぶと、米の進み具合が違う。
「全部盛り付けたの?」
てんこ盛りの筑前煮を見て、ゆりは笑う。
「切り崩す感じで、攻めましょう。」
舞乃空は、得意げに言っている。
―・・・この大皿があるの、こいつ
よく見つけられたな。
一人になってから、
使わないだろうと奥に直しておいた
裏柳色に染まる、陶器の大皿。
両親がいる頃は、これに
色んな料理が盛られて、食卓に並んでいた。
「煮物とか、ちょー久しぶり!
やばっ、米足りるかな?」
同感だった。
これだけ立派な煮物を目にして、
腹が減らないのはおかしい。
いや、今かなり減っている。
それを思い出した。
大皿を持ってダイニングテーブルへ向かう
舞乃空の後を、明来は
吸い寄せられるように歩いていく。
「ゆりさん、こちらにどーぞ。」
テーブルの中央に大皿を置くと、
舞乃空はすぐに椅子を引いて、ゆりを促す。
「・・・ふふっ。ありがとう。」
促された椅子の方へ歩いていき、
ゆりは静かに腰を下ろす。
自然に出た舞乃空の紳士的な行動に、
明来は目を丸くした。
「明来ー。ご飯大盛りー?」
彼は弾むように、キッチンに置いてある
炊飯器へ歩いていく。
「・・・・・・うん。」
自分の定位置である椅子を引き、
彼に視線を送りながら座る。
「俺も大盛りー!」
「私は少しで。」
「はい!かしこまりました!」
舞乃空の機嫌が、明らかに良い。
「味噌汁いるかなーっと思って、ケトルで
お湯沸かしてたんだけど。
インスタントでいいよな?いる人ー。」
「・・・よろしく。」
「もらおうかしら。」
「かしこまりました!」
何から何まで、先回りしている。
彼の気が利いた行動は、筋金入りだ。
テーブルの真ん中に、筑前煮の大皿。
それぞれの位置に、味噌汁の椀と
炊きたてのご飯を盛った茶碗、そして
取り分ける陶器の皿。
この皿は、大皿とセットなので、
同じ色合いである。
そして、冷蔵庫に常備している徳用明太子を
容器から適量取り出して、
白磁の皿に盛り付けている。
この徳用明太子は、
いつも行くスーパーの目玉商品である。
とある専門店と提携しているらしく、
工場から出た訳あり品を直で卸している為、
かなりの破格で売られている。
勿論売り切れるのは早いので、
普通に買い求めるのは困難である。
だが、スーパーの店主と陽菜は同級生で、
そのよしみで取り置きしてくれているという。
陽菜が自分の事を
店主に伝えているらしく、頼んでおけば
自分も取り置きしてくれる。
立派な夕食を目の前に、
横に並んで椅子に座る明来と舞乃空は
手を合わせて、声を上げる。
「いただきます!」
「いただきます。」
即座に、筑前煮を取る為の大きなスプーンを
手にして、舞乃空は
明来の取り分け皿を持つ。
「大盛りだな?」
「・・・大盛りやな。」
「俺も大盛りー!」
二人のやり取りを、ゆりは微笑みながら
温かく見守っている。
そして少し遅れて、手を合わせた。
「・・・いただきます。」
食事中、三人の間で会話はなかった。
それは気まずいからではなく、
明来と舞乃空が
食べることに集中していたからである。
優しく温かい筑前煮の、醬油だしの
程よい甘さと、持ち味が違う素材の主張。
それを、一心不乱に堪能する。
そうしないと、申し訳ない。
二人の、その気持ちが表れていた。
ゆりはそれを察して、静かに食事を進める。
明太子のしょっぱさがリセットして、
さらに食を進めた。
てんこ盛りだった筑前煮と
三合炊いていたご飯は、瞬く間に
平らげられた。
ゆりは、一度だけ取り分けた筑前煮と
少量のご飯、一切れの明太子で食事を終えた。
「ごちそうさまでしたー!!」
「ごちそうさまでした。」
明来と舞乃空は、至福のため息をついて
手を合わせ、丁寧に頭を下げる。
「ゆりさん、大満足っす。
ありがとうございました!」
「・・・すみません。がっついちゃって。」
二人が表す言葉は違うが、
思いは同じである。
ゆりは微笑み、言葉を掛ける。
「こちらこそ、食べてくれてありがとう。」
「食べてくれて、だなんて!
何言ってるっすか!ちょーうまです!!
またお願いします!!」
舞乃空の言い分に、
明来も大いに同感である。
また、食べたい。素直にそう思う。
「ふふっ。嬉しい。分かりました。」
「よしっ!!
・・・あー、腹いっぱいで、幸せ過ぎるー。」
「・・・・・・俺も。」
だが食べ過ぎた後の、あの苦しさはない。
心地好い満腹感で、椅子の背もたれに
身体を預ける。
舞乃空も同じような状態になりながら、
腹を擦っている。
「ゆりさん、料理上手っすねー。
俺とか、レシピ見てやるっすけど
思ってる感じの味にならなくて。
・・・やっぱ、食べてもらう相手がいると
上達するのかなー。」
「・・・・・・そうね。
自分の料理を食べさせたのは、
久しぶりよ。」
ふと見せる、彼女の遠い目。
何かを、よぎらせたのか。
「・・・そうなんっすね。」
舞乃空も察して、その事には触れずに
笑みを浮かべて言う。
「じゃあこれからは、
あの人の為に作らないとっすね。」
その発言に、彼女は目を見開いた。
頬が赤く染まる時間は、すぐに訪れる。
「・・・・・・彼は、忙しいから。
食べてもらうのは難しいかもね・・・・・・」
「そんなことありませんよー。
作ったら必ず、あの人なら
どんな時でも食べてくれますって。」
「どんな時でもって・・・・・・あのね。」
彼女が戸惑う姿は、まるで少女のようだ。
そのギャップに、明来は自然と微笑む。
「あの人って・・・誰?」
「あー、ほら。知り合いって言ってた人だよ。
眠ったお前を、車で家に送ってくれた紳士。
ゆりさんの上司、でもって、恋人。」
「こ、恋人って。」
「あ。旦那さんの方がいいっすか?
・・・はははっ。分かりやすく真っ赤。
明来ー。ゆりさん可愛いだろー?
恋愛下手なのは、お前も同じだなー。」
とばっちりである。
明来は、じろっと舞乃空を睨む。
「巻き込むな。」
「事実じゃん。」
怯むどころか、面白がっている。
「からかっているわね。」
ゆりも舞乃空に対して、鋭い視線を送る。
「・・・うわ。ごめんなさい。調子に乗りました。」
彼女の睨みは、
ただならぬ圧を感じさせる。
舞乃空は、びくっとして素直に謝る。
明来もその事に気づいて、怯みながら
彼女に視線を送った。
二人が縮こまる様子を、ゆりは
小さく息をついて見据える。
「・・・・・・私が今日訪れたのは、
明来くんが倒れた経緯を探るのと、
『私たち』の『家』に招待する為よ。」
「・・・『家』・・・・・・?」
『家』というのは、どこを示すのか。
「ゆりさん。何か、見えたっすか?」
舞乃空の質問は、何を指しているのか。
明来には理解できなかった。
何も分からないまま
ゆりに目を向けていると、彼女が
視線を合わせてきた。
「・・・・・・“暗闇”が、邪魔をしている。」
―・・・・・・“暗闇”・・・・・・?
「・・・・・・見えないってことっすか。
それって、相当厳しくないっすか?」
ついさっきまで明るい笑顔を浮かべていた
彼は、真摯な面持ちになって
言葉を吐いている。
「・・・・・・でも、分かることはある。」
「・・・?それは?」
「私たちの見解だと、“暗闇”の影響は
その人に長く留まる事はできない。
その人が意識を取り戻すと、
離れてしまうのよ。」
「・・・・・・ってことは、つまり?」
「何かをきっかけに
操り人形のように操られて、
何かをきっかけに、その糸が
ぷつんと切れる。
・・・・・・繋がった状態ではいられないって事。」
「・・・・・・」
「彼の場合は・・・・・・
“暗闇”の影響が離れず、繋がったまま。
いつ訪れるか分からない状態。
それはつまり、いつでも操られるという事。
明来くんが今、その状態で
意識を保っていられる事は・・・・・・おかしい。」
その発言に、舞乃空は焦った様子で
声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください。
それって、どういう事っすか?
その“暗闇”ってやつに、いつでも
乗っ取られる状態にあるって事っすか?」
「・・・・・・そうなるけど・・・・・・
それが、どうして可能なのか。
だとしたら、なぜ彼を自由にさせるのか。」
二人の視線が、自分に注がれる。
明来は唯々、押し黙って
行方を見守るしかなかった。
「あっ。ゆりさんが言ってた、
明来の成長に比例するっていうのは?
それが関わっているってことは?
・・・俺、それが聞きたくて。
ずっと引っかかってます。」
リビング内の空気が、重くなる。
彼女の発言を待つ舞乃空と、
二人の会話を聞くことしか出来ない明来。
その中で、ぽつりと零れた、鈴の音。
「・・・・・・声変わり。」
なぜその単語が、今出るのか。
全く分からず、二人は首を傾げた。
ゆりは考え込んでいるのか、
テーブルに視線を落としている。
「・・・今、明来くんの声はまだ、
声変わり中で不安定よね。
それが、安定した時。
それを、待っているとしたら・・・・・・」
半ば、独り言に近い呟きだった。
「待っているって・・・・・・
声変わりが終わるのを?
一体誰が、何を・・・・・・」
舞乃空が尋ねようとした言葉を遮るように、
彼女の凛とした声が紡がれる。
「明来くん。あなたが手にしている鍵。
その鍵を、使ってみない?」
鍵。
鍵といえば、朝の。
オルゴールの中に隠されていた鍵しか、
思い浮かばない。
でも、なぜそれを、彼女が。
明来が驚愕していると、
舞乃空はそれを諭すように告げる。
「・・・・・・ゆりさんは、
未来を読むことが出来るんだ。
その人と目を合わせたら、それが見える。」
「・・・・・・えっ?」
―何だ、それ。
つまり、それは・・・・・・
目を合わせたら、先に何が起こるのか、
分かるってことか?
今こうして、彼女と目を合わせている
この時も、既にそれが見えている?
探るような視線を向けられるのは、
当然である。
ゆりは、明来の眼差しを
真っ直ぐに受け止める。
「信じるのは
難しいかもしれないけど・・・・・・
舞乃空くんの言う事は、本当よ。
私は、幾多に起こりうる
その人の行方を、見据えることが出来る。
それを防ぐことも、導くことも。」
―あり得ない。
その言葉しか、浮かばない。
「勿論、人の行方には繋がりが重なる故に
防げないことも、導くことも
困難な場合がある。あなたの場合もそう。
・・・・・だから、全てのことを
思いのままに導くことは、できない。
それは、知っておいてほしいの。
・・・私ができることは、
最善の道を見据えて、それに導くこと。」
―易者。そうだ、占い。
占いなんて、不確かなものやないと?
この先、何が起こるか分かるって?
決まっているって?
あり得ない。
「・・・でも、私が見据えたところで・・・・・・
あなたが見据えなければ、
それも叶わない。
全ては、あなたの心構えが必要なの。」
彼女は、示している。
疑う気持ちが、曇らせるということを。
「見据える覚悟は・・・・・・ある?」
―その質問の答えは、もう出ているはずだ。
それなのに、俺は。
改めるように一呼吸して、明来は口を開く。
「・・・・・・あります。」
「私の力も・・・・・・受け入れられる?」
「・・・・・・」
ふと、隣で黙って見守っている舞乃空に、
明来は目を向ける。
すると、すぐに彼と視線が合う。
彼の、嘘を見抜く力。
そして彼女の、未来を読む力。
見えないものに頼ることが、
“暗闇”に向き合えるということを・・・・・・
自覚している。
再びゆりの方へ視線を向け、頷いた。
「・・・・・・はい。鍵を使います。」
あの鍵は、やっぱり。
あの部屋の鍵なのか。
違いましたと言える可能性を、
どこかで期待していた。
でもそれはもう、ない。
あの鍵が、あの部屋の鍵であることを
願うしかない。
「・・・・・・ありがとう。」
お礼の言葉を紡ぐゆりの表情は、
決して明るくはない。
彼女が言う、“暗闇”の影響のせいで
未来を見据えることが
困難であるせいなのか。
見据えた先に映し出される自分の姿が、
思わしくないのか。
いずれにせよ、
それを知ることはできない。
「・・・・・・覚えておいてね、明来くん。
未来は、創り出すものよ。
決まっているのではなく、
辿るものではなく、
あなた自身が、紡ぐもの。」
ゆりの言葉は、まるで啓示のようだった。
「・・・・・・今、ね。
尊敬する祖母が、あなたの身を案じて
言葉を残してくれた。
『私たち』は、どこにいても
繋がる事ができるの。
声を届けてくれる、『番人』がいる。
・・・・・・言っている意味が
分からないかもしれないけど、
言葉を伝えてもいいかしら。」
確かに今、彼女が言った事を
理解するのは難しい。
だがそれを、絵空事とは思えない。
明来は、静かに頷く。
ゆりはそれを見届けて、口を開いた。
「“満たされた先に、訪れる闇。
堕ちる世界に待ち受けるは、
真の姿であり、偽りの姿。
歩みを進めるも、滅亡へ導かれ、
止めるも、時空を歪ませる。”」
紡がれた言葉は、古語に近い。
「“いずれも、現在を見据えよ。
兆しを導き、解放される。”」
この言葉を聞いて、理解するのは難しい。
二人は、心に刻むことしかできなかった。
「・・・・・・これから、
あなたが選ぶ道には・・・・・・
困難が待ち受けている。でも、
『私たち』が全力で支える。
だから、しっかり見据えて、進んで。」
ゆりの眼差しは、母親のように温かい。
かつて、自分に向けられていた
溢れる慈しみ。
それを思い出して、明来は目を緩ませる。
「・・・・・・ありがとうございます。」
昨日会ったばかりなのに。
弱い自分を、支えてくれる。
しかも彼女は、先入観を持たずに
温かいご飯と優しさまで与えてくれた。
こんな大人もいるのか。
そう思い、彼は俯く。
彼女のような大人に出会い、縋れることは
幸せ以外の何ものでもない。
何かに怯え、震えながら過ごす時間は
もう、迎えたくない。
「そういえば、ゆりさん。
『家』に招待するって言ってたっすけど・・・・・・
『家』って、
普通の家のことじゃないっすよね?
ギルドみたいなもんっすか?」
ゆりは湯呑を両手に持って、
茶を一口含んだ後告げる。
「・・・・・・そうね。私のように名乗って、
それを生業にする人がいる。
『家』の、本当の目的を知る者は・・・・・・
限られているけど。」
明来は顔を上げて、
二人の会話を聞き入れる。
「極秘事項、ってやつっすよね。
了解済みですよ。
俺も明来も、口が堅い方っすから
安心してください。」
「有難いわね。・・・招待という形は、
滅多にないのだけど・・・・・・
明来くんに直接、会わせたい人がいるの。
私のように、実際会ってみなければ
発揮できない、力の持ち主。
・・・・・・ゴールデンウイークに、
予定は入ってる?」
「ちょーひまです。だよな?明来。」
話を振られ、少し間を置いて頷く。
「・・・予定はありません。」
「じゃあ2日だけ、時間をもらえるかしら。
具体的な場所も教えられなくて
申し訳ないけど、
一緒に東京へ出向いてくれる?
旅費は考えなくていいから。」
“東京”という単語を聞いて、
舞乃空は苦笑気味で言葉を吐く。
「新鮮味ないなー。」
「・・・・・・東京・・・・・・」
―一度は、行ってみたいと思っていた。
明来は躊躇うことなく、承諾する。
「分かりました。俺が勤める会社の休みは、
1日から6日までなんですけど・・・・・・
何日にしますか?」
ゆりは、明来の目を見据えながら答える。
「・・・・・・1日と2日で、いいかしら。
滞在が延長する場合も、
あるかもしれないから。
そうならないように、最善を尽くします。」
「東京に戻るなら・・・・・・そうだなー。
美味しいイタリア料理のお店が
あるんっすけど。みんなで行きましょー。
ちょーうまっすよー。」
“イタリア料理のお店”と聞いて、
ゆりは小さく笑う。
「・・・私もね、心当たりがあるのよ。
舞乃空くんが言っているお店と、
同じ所じゃないかしら。」
「おっ。ゆりさんもご存知で?
有名っすもんねー。
是非行きましょーよー。」
甘える素振りをする舞乃空を、
明来は少し引き気味で見る。
―何だ、その甘えっぷりは。
「そうね。実は、東京に出向いた時には
いつも行くお店なのよ。ご馳走するわ。」
「やったーっ!!」
両手を上げ、立ち上がって喜ぶ舞乃空。
彼の機嫌の良さと盛り上がりは、
美味しい料理が食べられるからなのか。
美人に、弱いのか。
「ゆりさん。とりあえず、
後片付けを先にしてもいいっすか?
お茶でも飲んで、待っていてくださーい。」
「ええ。」
てきぱきと、テーブルの上の食器を重ねて
シンクへ持って行く彼の後を、明来は追う。
「俺が洗う。」
「じゃあ、俺は
明来が洗ったやつ水で灌ぐー。」
シンクに並んで片付け始める二人の少年を、
ゆりは温かい眼差しで、
微笑ましく見守っている。
「ゆりさーん。名刺に書いている連絡先って、
スマホの番号っすよね?
メアド教えてくださいよー。
電話できない時とか、便利かなーって。」
―躊躇いなく、こいつは。
そんな目で、明来は舞乃空に目を向ける。
「・・・・・・ごめんなさいね。
スマホは持っているけど、
必要最小限にしか使わないの。
疲れちゃうから。」
「・・・・・・あ。なるほど。了解っす。」
聞いた割には、あっさり引く。
彼の行動は、謎が深い。
「明来くん。
お手洗い、借りてもいいかしら。」
「あ、はい。リビングを出て、
廊下の突き当りです。」
す、と立ち上がる所作と、
歩いていく際に起こる風は、清廉さを感じる。
そんな彼女を、二人は黙って見送った。
「・・・・・・舞乃空。」
「んー?」
「・・・・・・いや、何でもない。」
「なんだよー。気になるじゃん。」
しばらく食器を洗い続けた後、
明来は尋ねる。
「お前、ゆりさんみたいな女性がタイプ?」
泡で包まれた食器を受け取ると、
舞乃空は笑いながら
蛇口から出る流水で灌ぐ。
「タイプー?はははっ。
何お前、妬いてんの?」
「・・・・・・はぁ?」
「安心しろー。人妻に手を出すほど、
飢えちゃいねーから。
・・・元気づけたいっていう方かな。
彼女、かなり苦労人みたいだし。
美人な女性って、素直に
受け入れてもらえなかったりするんだよ。
ゆりさんの場合は、心も綺麗だからさ。
汚してやりたいとか、妬みとかさ。
嫌がらせされるとか、
結構多いんじゃないかな。」
「・・・・・・そうなのか?」
「人間って、疑いの目を持つから。
それは身を守ることにもなるから、
全部が悪いとは言い切れないんだけどさー。
・・・俺は、ほら。嘘が通用しないじゃん?
彼女はそれを知っているから、
本音で吐き出せる。
そう考えるとさ。俺の事、安心して
頼ってくれるかなーって。」
舞乃空は饒舌に、言葉を紡ぐ。
彼は、こんな考えを持ちながら
彼女に接していたのか。
驚きもあるが、彼ならではの考えなのだと
明来は納得した。
そして、それは。
彼も、彼女と同じく、
心が綺麗なのだという証拠でもある。
でなければ、考えつかない。
もしかして、自分のことも。
彼には、どう見えているのか。
「・・・・・・明来も。
明来は俺の・・・恩人だから。
俺の今があるのは、お前のお陰。
一生掛かっても、返せねー。
少しでも返していくからさ、
いっぱい頼っていいんだぞー。」
恩人なんて。
自分は、彼を助けたつもりはなかった。
寂しい。
それだけだった。
「・・・恩人とか、言うな。俺の方が・・・・・・」
助けてもらってばかりだ。
言葉を飲み込む。
これからまた、迷惑を掛けてしまう。
「あー。そんな顔するー。」
舞乃空は顎を、明来の頭に乗せる。
「両手使えなくてハグできねーから、
顎ハグね。」
その行動にびっくりして、身を引く。
「あ、顎ハグっ?何やそれっ」
すぐ離れることができたものの、
妙な動悸が起こる。
「俺が今、作った。良くね?」
彼はニヤリと笑い、得意げである。
「何も良くないっ!」
不意打ちに、明来は慌てて
できる限り距離を保とうとする。
「お前の、とびっきりの笑顔。
見たいんだよなー。まだ見てないんだよー。
いつか見てやる。」
「え、笑顔?」
「そう。明来の笑顔見たら俺、
気絶するかも。」
「あのなっ・・・・・・」
言い掛けて、止める。
視線を感じたからだ。
御手洗いから帰ってきたゆりが、いつの間にか
自分たちに視線を注いでいる。
明来は、少なからず動揺した。
―・・・・・・き、気づかなかった。
いつ、戻ってきたん?
まさか、今さっきの、見られた?
この状況を、舞乃空は面白がるように
笑いながら発言する。
「あらー。見られちゃったね、明来。
俺たちがイチャついてるとこー。」
「なっ・・・い、イチャついてないっ!
・・・あ、ゆ、ゆりさん。
片付け、もうすぐ終わりますから。」
「・・・・・・ふふっ。」
ゆりは吹き出して、笑う。
肩を小さく揺らして笑い続ける彼女は、
風に揺れる花のように可愛らしい。
二人は、目を奪われる。
笑える要素は、あったのだろうか。
明来が疑問に思っていると、
彼女は笑みとともに言葉を零す。
「舞乃空くん、天才ね。」
これにもまた、首を傾げる。
しかし彼は、便乗するように笑う。
「へへっ。褒められたー。」
―いや、分かってないやろうもん。
明来と舞乃空、交互に目を向けて
彼女は、さらに紡いだ。
「あなたたちなら・・・・・・
困難を乗り越えられると思う。」
それは、何に対してなのか。
知る由もなかった。
片付け終わった後、
明来を先頭に、舞乃空、ゆりの順番で
二階へ続く階段を上がっていく。
「ねー、ゆりさん。
『家』って、どんな所っすか?」
「・・・・・・お城みたいな所よ。」
「えっ。じゃあ、あの人って・・・・・・
ガチで王様なんっすか?」
「王様?・・・ふふっ。そうかもね。」
「となると、ゆりさんは女王様かー。」
「・・・・・・ち、違うから。」
「え?違うことないっしょー。
王様の伴侶なんですから、女王さ・・・・・・」
「違います。」
「照れてます?はははっ」
「雷を落としていいかしら。」
「・・・・・・ごめんなさい。」
二人が会話をする中、言葉を発せない程
明来は今、緊張していた。
開かずの部屋に辿り着くのは、
あっという間である。
「・・・・・・鍵を、取ってきます。」
やっとの思いで吐いた声も、
掠れてしまう。
「・・・明来。大丈夫か?」
その様子に気づいて、舞乃空が声を掛ける。
「・・・・・・ああ。」
短く答えた後、明来は
自分の部屋のドアを開け、入っていく。
彼が、机の上に置いておいた鍵を手にする
その短い時間の中、ゆりは
舞乃空に近づいて囁く。
「・・・・・・あなたは、
どこまで見えていたの?」
彼女の質問。
それは、深い意味を持っていた。
それに気づいた彼は、
真剣な面持ちで言葉をもらす。
「・・・・・・ほぼ、ですね。」
彼の答え。
それを聞いて、ゆりは納得した。
「・・・・・・ありがとう。」
感謝の言葉を、返された。
先程言われたことも、共通しているのは
未来を見据えてのことなのだろう。
舞乃空は敢えて、何も反応しなかった。
明来は鍵を手にして、
二人の元へ戻ってくる。
ゆりと舞乃空は、
何事もなかったかのように彼を迎えた。
この一瞬の出来事で、
二人の思考は確信に変わり、一致する。
彼が抱える“闇”は、
切り離せるものではないのだと。




