第3章(前編) 影の兆し ― 静かに満ちていく違和感 ―
アストリア本社の午後。
窓の外には薄い雲が広がり、
柔らかい光が会議室を染めていた。
休憩を終え、会議室に戻った4人は
新システム刷新の具体的な要件確認を始めていた。
美乃の落ち着いた説明はわかりやすく、
メンバーの信頼を集めているのがすぐにわかる。
だが――
部屋の隅に漂う、微かな違和感。
柊は気づいていた。
凪もまた、いつのまにか黒縁メガネの奥の目つきが
“凪の領域”に入る一歩手前の鋭さになっている。
環だけはまだ、
ただ素直に美乃の言葉を聞いていた。
◇◇◇
「では、この部分が新システム導入後に懸念される点です」
スクリーンに映る現行システムのログ。
美乃が資料をまとめたスライドを提示すると…
柊の眉が、ほんのわずかに動いた。
凪は腕を組みながら覗き込み、
視線を一点で止めた。
環だけが、
少し不思議そうに資料を見つめている。
「……美乃さん、ここ。ログに妙な空白がありますね」
凪の声色が変わる。
「ええ。私も変だと思って、調べてみました。
当時の担当者に聞いても『そんな仕様は知らない』と言われて…」
美乃の表情はごく自然。
疑わしいそぶりもない。
しかし柊は、その“自然さ”が逆に気になった。
「……これ、誰かが意図的に痕跡を消している可能性がありますね。
少し前のログを書き換えたような……」
凪の言葉に、環が小さく息をのむ。
美乃は静かに頷いた。
「やっぱり……そう思うわよね」
柊はスライドをもう一度見つめ、
軽くペン先をトントンと机に当てた。
その癖が出るのは、
“確実におかしい” と判断した時だ。
「美乃さん、ここまで調べたのはあなたですか?」
「ええ。システム刷新の提案を進める中で見つけたの。
ただ……私はアクセスできる範囲が限られてるから、そこからは追えなかったわ」
その言い方は淡々としていた。
けれど、その奥にかすかな緊張が見える。
凪はゆっくり眼鏡に触れ、
まっすぐ美乃を見た。
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なにかしら?」
「美乃さん、このログにアクセスしたのは、
あなたじゃないですよね?」
そのひとことに、室内の空気が止まった。
環の肩がビクッと震え、
柊はすぐに環の左手をそっと包んだ。
美乃は――
静かに、しかし迷いなく答えた。
「……ええ。私じゃないわ。
私はこの“空白”に気づいただけ」
凪はゆっくり頷く。
そして、柊の表情が引き締まり――
「……美乃さん。
あなた、内部で“何かされている”可能性が高いです」
環が不安そうに柊を見上げる。
美乃は静かに微笑んだ。
「……まあ、そうでしょうね。
あれだけ反対されているのだもの。
何かあるとは思っていたわ」
凪はペンを指でカチッと鳴らし、
“凪の領域”へと完全に入った。
「ここからは僕たちの仕事です。
美乃さん――あなたを守りながら進めます」
その声はふだんの明るさとは違い、
澄んでいて、冷静で、芯が強い。
環はその横顔に
ふと胸がぽかぽかしてきた。
すると美乃が、
まるで環の心の動きを見抜いたように微笑んだ。
「……あなたたち3人、本当にいいチームね。
私、少しだけ安心したわ」
◇◇◇
でも――
このとき美乃はまだ知らなかった。
自分が“疑われる側”にされるという罠が
すぐそこまで迫っていることを。
アストリアには、
静かに膨れあがる影が蠢いていた。
そしてすぐに――
その影が、美乃を飲み込もうとしていることを。




