第十六話:緋と赫と朱と
少しずつ、秋の訪れを感じさせる頃。
京の都に至っては、一部赤く染まりはじめた木々が夜の街並みの風情をより際立たせる。
人の往来もそこそこな、とある歓楽街。
着流しに身を包んだ男が、お世辞にも愛想が良いとは言えない顔の上に、さらに顰めっ面を浮かべていた。
その形相は、今にも人を殺めてしまいそうなほどの威圧感を感じさせ、自然と彼の周りには先を行くのに不便がないほどのスペースが生まれていた。
カランコロン、と下駄が石造りの地面を滑る音が鳴り響く。
彼はここ最近、不愉快な気持ちが晴れた試しがなかった。
「(くそっ……今日も疼いてしょうがねぇ。もう、ひと月近く経つってのによぉ……!)」
理由は、彼の胸に袈裟懸けに付けられた大きな太刀傷。
その傷は二十回は陽が登り、同じだけ落ちた今となっても全く癒えることはなく、むしろ彼の身体を蝕み続けていた。
そして彼の脳裏には、その時の情景が色褪せることのない記憶として刻まれている。
このような傷さえなければ、あるいは植え付けられた退魔師への畏れさえなければ、彼はこれまでと同じように街を赤い霧の恐怖に包んでいたはずだった。
「(なぜ、この俺様がこんな弱者のようなマネを……ッ!ここは、俺様のシマだぞ……!!)」
男はほんの少し前まで、〝血呑の大魔〟と呼ばれ恐怖される象徴であった。
己の気分でふらりと人里に繰り出して、街を丸ごと朱に染める。それから己に恐怖する人間の生き血を盃に注ぎ、豪快に呑み干す。
彼は魔族の中でも特に偏食の気があった。肉の味を雑味だと断じ、血だけを喰らって永い時を生きてきた。
魔族はヒトを喰らうことで魔力を吸収し、魔辿炉で変換した魔素をその身に蓄えることで力とする。
血だけで吸収できる魔力など知れているが、彼ほどの『大魔族』にとってはそれで十分だった。それだけで、十分に活動する分の魔力を捻出することができていた。
ゆえに、己の趣向に寄っていくことは自然なことであり、若い女の生き血を好んで口にした。
それが今では、刻まれた傷から漏出する魔力を賄うために、ヒトのフリをしてコソコソとヒトを襲い、食べたくもない肉を喰らわなければならない。
彼は、自分自身の今の姿が、一つの地を治める魔縁の強者としてあるまじきものであると断じていた。
擬態するだけの知能はあれど力が伴わず、姑息な手段でしか生存できない魔縁の弱者共と同じようなマネをさせられていることが、『大魔族』に至るまでに彼が築き上げてきたプライドを、かつてないほど刺激していた。
「血肉を、喰らわねば……」
しかし、今宵も彼は明日を生きるための人喰いを余儀なくされる。
騒がしすぎもせず、かといって静謐な雰囲気でもない、有りふれた居酒屋。
男はそこのカウンター席で一人静かに酒を口にしていた。もちろん彼は身体の構造からアルコールで酔うことはないため、ただ周りに溶け込むための演技であるが。
「(ちっ……一番近くが二人組とは運がねぇ)」
彼は横並びのカウンター席の右端に案内された。そして一つ席を開けて左隣には男女の二人組。どれほど話術に自信があっても、話しかけるには些か不自然な構図となる。
彼、〝血呑〟が人喰いに及ぶ犯行手口は単純明快だ。
バーやクラブ、今日のような居酒屋で一人でいる人間に話しかけ、身元を聞き出した上で次の店に向かう際に連れ去る。
人外としてではあるが、彼は長年生きてきた経験から話の種やスキルはかなりのものとなっていた。
男女ともに彼の作り上げた仮初の人格に惹かれ、一人寂しく過ごしていた夜の時間に華を添えるべく、京の夜街にて彼の背中についていく。
……行き先が彼の腹の中とも知らずに。
しばらくして、此度も彼の隣に一人の女がやってきた。
「すみません、一人なんですけど……」
「あいよ。そこのカウンター席でもええか?」
「……大丈夫です」
ふわりと香る花の匂いの中に、微かに血の鉄臭さを嗅ぎ取った。
魔族としての本能が揺さぶられ、酩酊感すら覚えるような血腥さが示す先には、今し方彼の隣の席へと腰掛けた女がいた。
黒髪の地味とも派手とも言えない容姿の女だ。
タレ目のおっとりとした雰囲気が、男に気やすさを覚えさせるだろうと彼は感じた。
そんな人畜無害な容貌の女が、血の匂いに敏感な自分にしか分からないほどとはいえ、なぜ血の匂いを漂わせているのかと考え、そしてすぐに答えを見つける。
どうも右頬が殴られたように赤く腫れており、口内からその血の匂いは漂っているらしい。
どこか陰鬱とした表情を浮かべている事からも、男か家庭か……何かしら事情を抱えている様子らしかった。
「(そんな女が一人、こんな居酒屋になぁ……ふん、しかし俺様としては都合が良い。適当なタイミングを見計らっていつも通りに――)」
そう女を横目で視認しながら、内心で概算を立てた。
魔族である彼が、女の失意の様子なぞに心動かされることはなく、その目は女を上質な餌としか認識していなかった。
ただ、有りふれた女の姿の中でも、まるで血が通う様が表層化したように真っ赤なその瞳だけは、いやに印象に残った。
ゆえに、さぞかしその血も美味いだろうと〝血呑の大魔〟としての趣向が顔を覗かせ、内心で彼は舌鼓を打った。
「――そら酷いなぁ、せっかくの旅行やったのに。それも二百万もその人に使うて」
「……でもきっと、私がもっと頑張ってればあの人も……」
「やぁ、お姉さんはよう頑張っとるよ。きっと担当の兄さんにもそれは伝わっとるはずや」
〝血呑〟はいつもと同じように、演技のための口調で気安く先程の女に声を掛け、身の上話を聞き出していた。
酒が入っているからか、それとも元々頭がよろしくないのか、女の話は延々として要領を得ない。
「(……クソがッ、同じ話ばかり。こんなホスト狂いの女の話に一々耳を傾けねばならんとは、はらわたが煮えくり返りそうだ……!!)」
それでも何とか話を頭の中で整理すると、彼女は担当のホストの男に高価なシャンパンボトルをプライベートの旅行を引き合いにおねだりされたようだ。
そして二百万もするそのボトルを貢ぎ、旅行の日となったが、行き先は予定していた沖縄旅行ではなく京都になった上、担当のホストはナンバー入りが叶わず終始不機嫌な様子だったらしい。
二人は遂にホテルにて口論になり、その拍子にホストの彼から殴られ、そのまま一人飛び出してしまって今に至るとのこと。
〝血呑〟からすると、話自体は至極どうでも良いものであったが、隣の女には面倒な身分もなさそうなうえ、失踪してもそのホストの男とやらに女の行方の疑いを押し付けられそうなため都合が良いと考えた。
ゆえに、この苦痛に塗れた時間を終わらせてさっさと外に連れ出し、その血肉と魔力を頂いてしまおうと彼の方から話を切り出す。
「ただ、俺の地元を下に見るのはいかんなぁ?」
「えっ……いや、そんなことは……」
「ハハハッ、冗談や!……あぁ、ほんでもええとこはようけ知っとる。せっかくやから、店変えてもうちょい話聞かせてや」
〝血呑〟は座ったまま少し姿勢を倒して、女の様子を下から見上げるようにそう提案する。
それに対して女は少し目を見開いた後、少し困ったように視線を彷徨わせる。
「……でも、彼が探しに来るかも」
「せやなぁ、けどそれまで一人やと寂しいやろ。大丈夫、こんな時ぐらいちょっと悪いことしてもバチ当たらんよ」
「そう、かなぁ……」
「それに、もし俺とおるとこ見せたらその兄さん嫉妬させれるんちゃう。そしたら、次からは離さんようもっと大事にしてくれる思うで」
そこで、女の視線がカチリと交わり定まる。その瞳の奥には僅かな欲が浮かんでいるように伺えた。
それを見た〝血呑〟は、今はまだ表に出さない内心にて、心底からくだらない人の営みを蔑み、そして渦中に入らざるを得ない自身に対しての苛立ちを再燃させた。
***
血の鉄と花の香が混じり合い、〝血呑の大魔〟は思考の輪郭がぼやけるような感覚を抱いた。
「(魔力が、枯渇してきやがった……だが、この女がそれなりに魔力を蓄えてやがるのが救いだな)」
歩みを進めるたび人通りが少なくなっていき、先ほどから見渡す限り彼と連れ出した先程の女以外にヒトは見当たらない。
女の方は人気がなくなっていく様相に、ソワソワと落ち着かない様子で視線が泳いでいる。
灯りのない薄暗い通りに入り込んだ時、女は遂に我慢ならず前を悠々と進む男に叫ぶように問いかける。
「ね、ねぇッ!ホントにこっちで合ってるの……?」
「……」
その言葉にピタリと〝血呑〟扮する男が足を止める。しかし問いかけに応えることなく、無言を貫く。
「い、一回……明るい方に行きましょう……?地元でも迷うことだって……」
流石に異変を感じたのか、女は言いながら後退りするように来た道を戻り始める。
「……せやなぁ、一体どこで間違えてしもたんやろなぁ」
対して暗がりの道に立ち尽くす男は、ポケットに手を入れながら闇に染まった上空を見上げてポツリとそう言葉を溢す。
それから肩を落とすように視線と首を落として、ため息を吐いた――。
「――お前も、俺様も」
「ひっ……!!」
突如として、男がぐりんッと背後の女を振り返る。
光を映さない濁った暗色の瞳孔が、女の怯えた顔を捉える。
顔立ち自体は変わらぬものの、その口元には到底覆い隠せぬほどの鋭い大量の牙が携えられていた。
そして女が、不穏と恐怖からほんの僅かに瞼をまばたいた次の瞬間には、男の大きな掌が眼前へと迫っていた。
「〜〜ッ!!」
女は当たり前にその強襲を避けることなどできず、頭を掴まれコンクリートの壁に打ち付けられる。
ゴシャ、という鈍い音と共に女は足元から崩れ落ち、その場にうつ伏せで倒れ込んだ。
「……」
酷く冷めた目で、倒れる女をしばらく見下ろしていた〝血呑の大魔〟だったが、己の生命活動を支える魔力がジリジリと減っていく感覚に焦燥感を取り戻し、女に手を伸ばす。
地面に広がる艶のある長い黒髪を雑に払い除け、女の身体を起こして仰向けにする。
あの特徴的な真っ赤な瞳は閉じられており、身体の脱力具合からも完全に気を失っていることがわかる。
「チッ、無駄に着込みやがって……」
〝血呑の大魔〟は肉の味すら我慢ならないほどに敏感な舌を感性をしている。
ゆえに衣服もろとも口にするなど、それは獣と同義の行為であり、そこまで堕ちることは彼の中の最後のプライドが許さないことだった。
夏の名残りはなくなり、急に秋夜の肌寒さを感じるようになったからか、女は丈の長いコートを着込んでいた。
魔族である彼からしても、コートを出すにはいくらなんでも早いだろうと違和感を感じるが、構わずそれに手を伸ばした。
その時の彼には既に、魔力を早く吸収しなければならないという焦燥感と、焼き鏝を当てられたように疼く胸の傷の痛みしか存在しなかった。
「――えぇ、きっと存在してきたこと自体が間違いなのですよ……貴方も、私も」
だから、気を失い倒れていたはずの女の声が聞こえるまで、視界の外の変化に気づくことができなかった。
音に従い、〝血呑〟は視線を服から僅かに奥にずらす。女の顔がある方へ。
その過程で、ズキリズキリと胸の傷がかつて無いほどに痛んだ。
「お、まえ……はッ……?!」
「おや、このような暗がりでもわかるほどに、どうも顔色が悪い」
血が通う様が脈々と浮かび上がるような緋色の瞳が闇夜に妖しく輝き、魔族をじっと見つめていた。
雲間から僅かに覗く月光が照らすのは、濡れ羽色のそれではなく、あるがままを映すような白銀の糸。
「……それとも、漸く私のことを思い出してくださったんでしょうか」
「伊織、圭……ッ!!」
〝血呑〟にとって最も新しく、それでいて最も深い因縁の存在との、あり得ざる再会をここに果たした。
突然の形勢変化に、彼は逡巡する。
すなわち、この有利なマウントポジションから目の前の忌々しい女を仕留める一撃を放つか、脱兎の如く逃走するか。
動揺は迷いを生む。
魔素で構成された肉体の本能は、生存のための逃走を選択し、頭は沸騰しそうな怒りと屈辱、そして圭を仕留めれば傷を治せるかもしれないという抗い難い欲に支配される。
「ぐ、くッ……ぎ……ィ、ッ……ころ、す……殺すッ!!」
コンマ数秒の葛藤の末、彼は自ら退路を絶った。
擬態を部分的に解除し、小さな圭の頭を殴り砕こうと、数倍に膨れ上がった赫腕を振りかぶる。
「牙を捥がれてもなお、この殺気……しかし残念ながら、本日の貴方の終点は私ではない――」
「――それでは〝七理〟、あとはお任せします」
その言葉を合図に、差し込む月明かりを覆い隠すような小さな人影が躍り出る。
クルクルと、まるで宙を泳ぐかのような自由な回転と共に建物から落下する。
回転と落下が合わさったそのエネルギーは発散する場所を探している。
――岩戸坐す御門神 神通力解放 【神魔戴天】――
「ぉ、らァァッ!!」
「ッ、ッ?!ぐッ……ァッ!!」
引き絞った蹴りにより、赫腕による殴打は捉える場所を見失い、主人と共に水平に吹き飛び大地を転がっていく。
対して、十全に不意打ちを決めた下手人――外法師『七理』のカエデ、あるいは門浦楓眞は倒れた姿勢そのままにいる圭の隣へと、綺麗な着地を決める。
「ふぅ……誰の女に手ぇ出しとんじゃー、とか言ってみたり」
「……ふむ、いつから貴方は典型的な悪質ホストになったので?」
「は?なんの話……?」
腰に手を当てて抑揚のない言葉で恍ける楓眞に、圭はむくりと起き上がって土埃を払いながらそう告げる。
意図が読めないといった様子を見せる楓眞に、圭が言葉なく己の右頬を示すと、「そういう設定ね」と一人納得の言葉を漏らす。
「チィ……!!新手か……だが、一体どこから……ッ」
「――!……へぇ、今のでちゃんと起き上がるかよ。並の魔族だったら消し飛んでるだろうに」
苦悶の声を漏らしながらも、現代に至るまで『大魔族』として畏れられてきた彼は、しっかりとした足つきで立ち上がる。
京の街外れ、暗闇に聳える鬼の姿が徐々に顕になっていく。
既に街中での面影はなく、太く荒々しい対の赫腕を携え、鬼の貌の上には逆立ち波打つ白髪。縦寸については楓眞や圭の三倍はあり、それを支える胴と足は重厚な筋肉の鎧に覆われている。
姿を目に捉えただけで、大の男であれど泣いて許しを乞うてしまうほどの生物としての圧倒的な覇気。
しかし、それを前にしても常と変わらぬ態度を貫く者だけがこの場には残っていた。そのように場と時間を手配した。
「やはり、魔力強化の雑さは貴方の課題ですね。……さて、それより逃げられますよ?」
「あぁそうそう。これだね、わかってるよ。――『浄土結界』、起動」
加えて、楓眞は手元から取り出した拳大の鉄鉱石に魔力を込め、目の前の魔族のためだけの場を仕上げる。
退魔導具『浄土結界石』。
結界の力を司るこの退魔導具は、俗世からあらゆる穢れ――すなわち『魔縁』の力を隔離する。
魔力による汚染を自動で浄化し、魔力を帯びたあらゆる存在の出入りを結界構築者の意思の基で選定する。
つまり、目の前の魔族との決闘場であり、また魔族にとっての檻でもある。
〝血呑〟がこの場から逃走を果たすには、結界の耐久性能を超える一撃をもって物理的に破壊するか、結界を司る『浄土結界石』を破壊するしかない。
「……〝七理〟、どうぞこれを」
「ん、せんきゅー」
「それでは私は万が一のために外で見張ってますので……ご武運を」
圭は、先ほどまで身につけていた丈の長いコートを楓眞に手渡すと、闇夜に溶け込むように姿を消した。
そして楓眞がそのコートに腕を通した瞬間、〝血呑〟は目の前の現象に目を見開く。
その瞬間まで認識していた眼前の少年に対する、夕空のような茶髪と茜色の瞳などといった認識が、霞がかってボヤけていくような感覚を抱いた。
「(なに……ッ?……いや、何かしらの退魔導具、あるいは神器ッ!伊織圭の姿を誤認していたのも原因はこれか……!)」
しかし、彼も歴戦の魔族だ。
即座に目の前の事象を理解と予想に置き換えて、対応だけに思考を使う。
〝血呑〟の本能が、死闘の気配を察して研ぎ澄まされていく。
楓眞もまた、目の前の大魔族を堕落した過去の存在などではなく、手負いの獅子として対処すべく気を張り詰める。
「……さぁ、鬼退治の時間だ」
「クソがッ!!どいつもこいつも……俺様を、舐めるなぁッ!!」
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