90 イオナの出奔4:クラグ浜の邂逅
日没前に、とイスタに言われていたものの、実際イオナはかなり早くクラグ浜に着いた。
初夏の夕方、まだまだ日の入りには時間がある。居ても立ってもいられなかった、いらいら焦る心は彼女の駆る白馬にも伝わっているのか、時々機嫌悪くたてがみを振り立てる。
「……いた」
しかし浜にひとり立つ青年を見て、焦燥は緊張へとすり替わる。
海岸線に近い松の木の一本に手綱を結わえて、イオナはイスタに歩み寄った。
「来てくれて、ありがとうございます」
朝と同じ出で立ち、麻袋を背負ったイスタは彼女に呼びかけた。
「普通なら、絶対一人でなんて来ないんだけど」
イオナは薄い夏用の巻き外套を羽織っている、もちろん腰に提げた鋼爪をさりげなく隠すためだ。
「……でも、こんなものを渡されちゃね」
外套の裾からすっと出した手には、首環が二巻き握られている。
「なんであんたが、これを持っているの」
装飾のない、のっぺりした幅広の金の環は、兄ヴィヒルのもの。
やさしい淡青色の翡翠玉がはめ込まれた、細い小さな銀の環は、義姉アランのお気に入りの品だ。
「兄とアランの事を、あんたがどこまで知っているのか、まず教えてもらえる」
一応頼む形を取ってはいるが、殺意すらはらんだ凄みのある口調で、イオナは聞いた。
しかしイスタは、全く動じた様子を見せない。どころか、さらに悲しそうな目でイオナを見た。
「……ですから、これから見せるもの。それが俺の知ってる全てです」
「?」
「来てください、こっちです」
彼は振り返り、岩場の方へと歩き出した。
そこは浜の終わり、ここから海と風雨に浸食されつつある崖地が始まっている。
磯のごつごつした岩をひょいひょい身軽に飛び越えながら、後ろに続くイオナに向かってイスタは話し出した。
「テルポシエ攻略のあの日。あなたに言われて、俺はここへ来た。でも、アランさんとヴィヒルさんはいなかった。浜をくまなく探したけど、陽動の海賊達すら、見当たらなくて……」
入り組んだ岩の窪みに目を走らせながら、イスタは進んでゆく。
「でも、この岩場でようやく、二人を見つけたんです」
はっ、とイオナは目を見開く。
「あ、ここです。足元に気を付けて」
大きな岩々の重なり合う隙間、そこはちょうど洞窟のように奥行きがあるらしい。
イスタはおろした麻袋の中から、簡易松明の細い管と火打石とを取り出し、かちかちっと火をつけた。
「俺は引き返す時、テルポシエ軍の残党に捕まって身動きが取れなかったんです。今ようやく自由になれたので、あなたにそれを伝えたかった」
小さく燃える灯を、イスタはイオナに差し出した。
「ここを知ってるのは、俺だけだったから」
すぐ後ろでは夕陽が輝いている、けれど松明を差し向けた窪みの中は暗かった。
イオナは少し屈んで、中に目を向ける。
「兄ちゃん、いるの?」
声の反響で、さほど広くはないとわかる。
≪――イオナ≫
ふと、兄の“声”が自分を呼んだように思えて、彼女はその内へ入った。
二人の気配はない、けれど兄とアランがここに居た事を確信できる何かが漂って、イオナは闇の中を松明で照らす。
――んもう、三年も連絡をよこさないで! 早く見つけ出して、フィオナとメインに会わせたい!
イオナの心は弾けそうだった。
――二人がいなくて寂しかったけど、わたしも今、こんなに幸せになれたんだよ……!
奥まった所にうずくまる何かが目に入る、灯をそこに近づけて、つい彼女は叫びかけた、再会の悦びを。
「アラン! 兄ちゃん!」
兄の大きな手が、アランの小さな手が、自分の頭と頬を撫でる錯覚――
「!!」
イオナの手から松明が落ちて、岩盤のようなその足元に、乾いた音をたててぶつかった。
ころころり、……細い管は回りまわって、後ろに立つイスタの手で拾い上げられる。
「……俺が見つけた時と、ほぼ同じです」
イスタはゆっくりと、灯りをその骸のほうに向けた。
ぼろぼろになった毛織の何かの塊は、よくよく注視すれば墨染と青色の外套二着だったものらしい。
それに大量の骨がばらばらとまぎれ、てっぺんに二つの頭蓋骨がのっかっていた、ちょうど向かい合って何かを囁き合っているように。
その後ろの岩壁には、樫の戦闘棒が立てかけられたまま、朽ちていた。
イオナは開けた口を、はくはくと震わせた。
「あなたに渡した首環は、そこにあって……」
松明で指し示しかけたイスタは、急に息ができなくなった。
どっ、
イオナが左手でその顎を掴み、ものすごい勢いで彼を岩壁に打ち付けたからだ。
「イオナさんっ」
げほっ、と激しく咳込みながらイスタは叫ぶ。
目の前に、突き付けられた鋼爪がきらめく。
「……だれが、誰が……なぜ……、」
もがき喘ぐような苦し気な声でイオナが問いを絞り出す、イスタは抵抗しようなんてこれっぽっちも思わない。あえてゆっくり、告げた。
「わかりません。俺が見つけた時にはもう、二人は事切れていたんです」
構えられた鋼爪の長い刃のむこう、イオナの双眸からぼろぼろと涙がこぼれ出す。
ふっ、と彼女は退いて、イスタを解放した。
・ ・ ・
イスタの持っていた扁桃油を振りかけて火をつけると、二人の遺骸はやがて煙に変わっていった。
沈んだ夕陽はいまだに空を明るく保っている、そこにいがらっぽく白い煙がたなびく中、イスタとイオナは窪み近くに立ち尽くしている。
無言のままのイオナに向かい、イスタは言う。
「……これは、これだけは確かに言える事ですが。ヴィヒルさんの致命傷は、広刃の短剣でつけられたものでした。テルポシエ騎士や、イリー人の使う型じゃない」
イオナが、ほんの少しだけ顔を上げた。
「二人とも肌脱ぎになっていて、傷の手当はしてたみたいなんです。アランさんは背中のこの辺り、さらしがきれいに巻かれてたから判別できなかったけど……ヴィヒルさんは胸の上あたりが。拭いて、脂を塗っただけだったから、広い傷口が良く見えました」
イスタをじっと見据えながら、イオナは思い返している。そうだ、この子はこうだった。目で見た風景を本当によく憶えていられて、この辺をパスクアに買われて先行見習をやっていたんだっけ。しかし……。
「……どうして、広刃の短剣とすぐにわかったの」
「わかりますよ」
おもむろに、彼は短衣の裾をめくり上げ、松明をかざして見せる。
わずかに浮いたあばら骨の合間に、古い傷跡が一つ残っている。
「自称父親が、海賊の端くれだったから。突然とち狂って、陸に囲ってた妾とその二歳の息子を刺殺したつもりで、自分も死んじまった」
イオナは、イスタをまっすぐ見た。
「他の事は何も憶えてないけど、向けられた刃の形だけは、今でもはっきり言い表せる」
イスタも、イオナを見た。二人は何も言わず、しかし全てを理解した。
イオナは自分の中に、あかい赫い憤怒の炎が上がるのを感じ、そして笑った。
寂しく、笑った。
「……ありがとね、イスタ君。三年間も、ずっと一人で背負っててくれて……」
唇を引き結んで、イスタは頭を横に振る。
抑えていた涙が、とうとう彼の目尻に滲んだ。
・ ・ ・ ・ ・
ゆっくりと降りる宵の闇の中を、イオナの騎馬姿が遠ざかってゆく。
松明の灯も尽きて、しょぼんと岩場に佇むイスタの脇に、ぬうんと大きな影が寄り添った。
「ありがとう。彼女と会う事、許してくれて……」
ダンを見上げて、イスタは言った。
こんな薄闇の中では、本当に見分けがつかない。
様々な色の染め返しが激しく入れられて、もはや枯草色とも言えなくなった外套を羽織るダンは、無言で頷く。
「約束通り、気配どられるぎりっぎりの所で、全部聞かせてもらったよ!」
やはり岩陰から出て来たアンリが、側に立って言った。染め染めになった外套の上、焼きたてぱんのような血色のよい顔が、黄昏どきの微光を無視してつやっと輝く。
「君にとっても、今は敵方のひとになるわけだからね! でも鋼爪で迫られた時は、さすがにひやひやしちゃったよ」
「女は殺らねえぞ」
珍しくきりっとした調子で、ビセンテが言った。手入れの行き届いた彼の外套もまた、茂みの中に溶け込む迷彩へと変貌していた。
「するめ」
「ビセンテさんも、静かにできてお利口でしたよ! はい、食べ過ぎると腰が抜けちゃうから、これで最後です」
ビセンテは、干しいかの咀嚼を始めた。
「敵か味方か、……そう言うのも全部わかってる。けど……」
大きく育った背を少し丸め気味にして、イスタは言った。
「わかってるんだけど。あの優しかった二人がイオナさんに会えないまま、忘れられるのは……」
ダンの大きな大きな手のひらが、
「耐えられなかった」
青年の頭を、やさしく叩いた。
「冷えてくるよ」
アンリが肩に押しつけてきたものを、イスタは広げてさっと羽織る。これも迷彩緑だった。
「さあ、では気持ちを切り替えて、ね。ナイアルさんとの合流地点へ向かいましょう!」
ビセンテの咀嚼音が、ふいと止まる。
「めしは?」




