~勉強編 11~
翌日、慌てて彼女の家族は迎えに来た。
その旨を伝えると「本当に来るとは思っていなかった」と呆れていた。
「これで暫しのお別れだね」
小さな子供が大きくなったものだ。
ここまで晴れ晴れとこの施設を出て行く人間が今まで居ただろうか。
みな、不安な顔をして出て行った。
独り立ちする者ですら。
目の前の少女は売られた家に帰る。
その顔に恐れも怯えもない。
「世話になった。他の奴等を頼む」
「君の代わりにはならないが、まぁ責任者だからね。精一杯頑張るさ」
月が見えなくなれば、朝が訪れる。
無くなった月明りを求めるよりも、朝が来たと思おうじゃないか。
「ああ。そうだ。連絡先を教えておくよ。来る時は連絡してくれ」
名刺を渡す。
プライベートナンバーも住所も書かれている、身内専用の名刺。
「連絡出来るような待遇だと良いがな」
不穏な事をさらっと言わないで欲しいのだが。
そんな事は気にせず名刺を眺めているマイペースっぷりはどこからくるのか。
「大層な名前だな」
呆れながら言われた。
自分でも思うが、名前を付けるのは親だ。
自分にとやかく言われても困る。
「逃げ弾正はいつから武田に名を連ねた?本人が聞いたら激怒しそうだな」
「図々しいと怒られるか、名前だけでもと喜ぶか、どちらだろうね」
武田昌信。
それがこの所長の名前だった。
「弟よりはマシだよ」
親が戦国好きなのだ。
何せ、母が結婚を決めた理由が父の苗字。
仲が良いからマシなものの、これで名前目当てだったのなら、散々な家庭だっただろう。
長男の自分はまだ控えめだった。
自分で慣れた両親は弟には堂々と、だが、一応は考慮して付けた。
けれど、兄と弟の立場が、名前だけでは逆転する、という何とも言えないものになり。
子供の頃は兄弟仲は悪くはないものの、良くはなかった。
まぁ互いに大人になり、自立してしまえばネタにしかならないのだが。
「弟ねぇ?これより大層な名前なんて付けるか?」
「晴信だからね。名前負けすると言って未だに愚痴を零しているよ。あはは!馬鹿だよねぇ」
誰もが知ってる程ではないが、知っている人はみんな知っている名前だ。
戦国武将でかの有名な武田信玄の若い頃の名前。
自分はそれに比べると目立ちはしないが、苗字と合わせると彼女の様におちょくられる。
逃げ弾正は武田信玄の部下、二十四将に名を連ねる者。
かなりの重臣だが、知名度は低い。
そんな名前を付ける親も、気にする弟も昌信から見たら馬鹿らしく、面白い。
「晴信なら馬鹿でも良いだろう。信繁よりはマシだ」
晴信を名乗っていたのは、主に親の目を欺く為に舞だの詩だのに遊び惚けていた時期の方が長い。
親の期待を一身に背負いながら兄を庇い、最期は殿を務めた名将、信繁。
彼のファンは根強く存在する。
「君もそう思うかい?俺もそう言ってるんだけどね」
「親にはお互い苦労するな」
「あはは!まぁ親も人の子。人間だからね」
好きな武将の名前を付けるのと、売られるのではだいぶ苦労の度合いも違うが、若い頃は確かに苦労したものだ。
彼女は自分と他人をそうゆう意味では比べない。
他人にとっての苦労は苦労として認識する。
自分の方が大変だとは思わない。
感じ方も、重みも人それぞれ。
比べる事など意味がない。
本人にとって重ければ、他人から見れば些細な事でも重いと認識する。
そこに年齢も関係ない。
親も所詮は人でしかない。
自分も大人なってしまえば、年齢は大して問題じゃないと気付く。
成人しても人は根本的に変わらない。
親になろうがそれは同じ。
経験を積み、それを自分にどう取り入れるか。
その違いでしかない。
経験を積んでも、無かった事にすれば、人は成長しない。学ばない。
実際の年齢よりも、本人の性質や性格が左右する。
「さ。待ち侘びているよ。荷物はきちんと届けさせるから安心してくれ。足りないものがあれば教えてくれれば後日送るよ」
「わかった。じゃあな」
彼女は振り返る事もなく、あっさりと親元へと帰って行った。
「久しぶり」
家族の元へ帰った彼女の第一声がそれだった。
会うのは数年振りなのだから、間違ってはいない。
本人にその気はないが、受け取り方を間違えると物凄い嫌味になる。
「…お、お帰り。元気か?」
辛うじて返事が出来たのは父一人。
「元気だ。ここは家じゃない。ただいまはまだ早いだろう」
父は、家族の元へ帰って来た事を言ったのだが、あっさりと否定された。
彼女にとっての帰る場所は家族でもなく家という住処。
冷たいと、薄情だと責められない。
帰って来た久しぶりに見た娘。
細くガリガリに痩せ、袖から見える腕は棒のよう。
右手に巻かれた包帯。
右半身の顔や腕に薄っすらと見える傷痕。
娘は右側がよく見えない。
右側の鼓膜が破れ、右耳が聞こえないだけでもかなり負担のある父。
片方が見えないというのは、聞こえない以上に負担が掛かるのか?
少なくとも、自分は聞こえなくてイライラすることはあれど、そのせいで怪我をする事はない。
家に居た頃の娘は、家の中を歩くだけでも右半身を至る所にぶつけていた。
見えないのだから避けれない。
避けれないのだから激突する。
それらの問題を対処出来るためにこの施設に預けた。
それなのに、自分達はそれを忘れていなかったか?
娘の腕に残る注射の跡は鬱血し、酷くグロテスクな痣が広がっている。
この跡の代償が毎月振り込まれる金。
娘が何かされた代価。
その金で自分達は何をした?
学歴がないという理由だけで自分よりも仕事が出来ないのに出世していく同僚や後輩。
そんな職場に嫌気が差し、気楽な自営業を始めた。
頭を下げる回数は減った。
満員電車で潰される事もない。
好きな車の中で気楽に運転し、取引先と会う時だけ愛想を良くすればいい。
右耳が聞こえない。
それは会社で酷くストレスだった。
こっそりと話しかけられても聞こえない。
聞き返すと呆れられる。面倒がられる。
電話をしている時に話しかけられても聞こえやしない。
自分だって好きで聞こえないんじゃない。
けれど、誰も分かってくれない。
聞こえない人間の気持ちなど、不便さなど聞こえる人間には分からない。
説明すれば、その場では理解して貰える。
だが、実際には分からない。
だから直ぐに忘れられる。
聞こえない方に話し掛けてくる。
社内の人間に「聞こえないって言ってんだろ!」と怒鳴った事も一度や二度じゃない。
けれど、それも取引先には出来やしない。
へこへこと謝らなければならない。
面倒な顔をされ、担当を替えて欲しいと言われる。
上司にお前は悪くない、気にするとと肩を叩かれ、別の人間に割り振る。
酷く屈辱的だった。
自分に否はない。
悪い事はしていない。
ただ、片耳が聞こえないだけ。
それだけなのに。
それが、酷く重かった。
だが、家族を養うには頑張るしかなかった。
耐えるしかなかった。
けれど、プライドを押し殺し、耐え、頑張っても、マイナス以上に仕事を頑張っても、出世する事はない。
そして、その頑張った代価の給料よりも高額が毎月送られてくる。
これ以上、耐えられなかった。
耐える必要もなかった。
だから辞めた。
自転車操業だが、それらを補完し、自由に遊ぶ金が出来る程の余裕があったのは。
この目の前の娘の犠牲があってこそ。
新車を買い。
新しい家電を買い。
年に四回の旅行。
毎週末の外食。
それらは全て、娘の血液、細胞、何かの実験がそれだけの意味が、価値があったからこその代価。
娘が帰って来た時の為にと残してもいない。
自分達を忘れた娘への意趣返しでの散財。
娘はまだ幼かった。
言葉がわからない娘。
買い物先でよく迷子になっていた娘。
親の見分けもつかない。
だから医者に見せた。
普通の子より時間が掛かると言われた。
そのために預けた。
親の顔を知ってる訳がない。
見分けられる訳がない。
覚える段階ですら無かった。
それが当たり前な程の条件は揃っていた。
親の顔すら覚えていないほど幼い娘を手放したのは誰だ?
そんな早い内に、手に負えないと他人に任せたのは?
自分は片耳が聞こえないから仕方ないと。
妻も身体が弱くまともに働けないと。
目も、言葉も不自由な娘の頑張った代価。耐えた代価。
目の前の娘は言葉に不自由はない。
あんなに聞こえなかったのに、掠れた小さな返答にも返事が来た。
仕方ないのだと開き直っても良かった。
周りに理解して貰えば良かった。
ハンデを負っているのだから。
だが、そうはしなかった。
負けん気の強い娘だった。
逃げなかったのだろう。
親に見放されても。
たった一人で。
出来るようになるまで。
何かで補えるようになるまで。
「どうした?帰らないのか?」
娘の声は、片耳が聞こえない自分でも良く聞こえる。
思えば、娘の声が聞こえず困った事がない。
右側にいる時はジェスチャー付きだった。
聞こえなくても困らない。
今も、出口を指差し、首を傾けている。
それだけで、意図はわかる。
自分はたった一人の理解者を手放した。
逆に、娘を最も理解出来るのは自分だった筈ではないのか?
自分は理解される事しか望まなかった。
理解する事をしようともしなかった。
理解されない事に苛立ち、そんな自分の右耳に苛立った。
娘は、理解される事を望まない。
理解されない事が普通だと。
普通に合わせられるよう努力しかしていない。
「帰ろう。ここで立っていても意味がない」
立ち止まっても意味がない。
過去を悔やんでも意味がない。
そう聞こえた。
「折角だ、お祝いに外食でもするか!」
そうだ。過去には戻れない。
娘は帰って来た。
それでいい。
これからどうするか。
一緒に娘と進んで行けばいい。
「あと、生活必要品も買わないとな!何が欲しい?」
「何があるんだ?服は送ったが。寝床は?」
「流石に昔のは使えないな…」
サイズが違う。
「なら、布団などは施設の物を送って貰う。ついでにいらない家具も譲って貰ってくる。他に必要な物は?」
「食器や歯ブラシとかだな」
「それは流石に新調する必要があるか。伝えて来る。先に車に行っててくれ。そうだな…出入り口にでも車を寄越してくれると助かる」
「一緒に行くか?」
「問題ない」
スタスタと奥に行ってしまった。
固まったままの妻と息子を促し、駐車場へ向かう。
出入り口で待つ事数分。
娘は直ぐに気付き、自然に後部座席に座った。
入り口にも階段にも、車にぶつかる事も躓く事もなく。
まるで見えているかのように。




