第10話 もう一度だけ
「シュテルン辺境伯家の継承権は──本来、王太子に優先する」
国王の言葉が、広間の空気を一変させた。
貴族たちの間にどよめきが走る。椅子が軋み、衣擦れの音が重なる。クリストフの顔が蒼白に変わった。
「シュテルン家は王家の傍系ではない。──正嫡だ。先代国王の第一子がシュテルン家に降嫁した際、その血統に第一継承権が移された。クリストフが生まれる前の取り決めだ」
私は息を呑んだ。
これは──知らなかった。前の人生でも、今の調査でも、辿り着けなかった事実。
シュテルン家は傍系ではなく正嫡。つまり、クリストフの王位継承権は、最初から第二位だった。
だからクリストフは家ごと消した。自分が王になるために。
自分より上位の継承権を持つ家を、丸ごと存在しなかったことにした。
「父上、それは──古い取り決めにすぎません。現在の法では──」
「王家の勅令は、新たな勅令によってのみ覆される。それは法の基本だ。──お前が誰よりも知っているはずだろう」
国王の声は静かだったが、反論を許さない重みがあった。
この老いた王は、病に伏しながらもずっと見ていた。息子の暴走を、止められなかった自分の無力さを。
「この事実は、ハインツと私だけが知っていた。ハインツは命を賭けて、この秘密を守った。──そしてお前は、その秘密ごと人を殺した」
国王の声に、感情が滲んだ。怒りではない。もっと深い、取り返しのつかないものを見つめる眼差し。
我が子の罪を認めなければならない親の、壮絶な苦しみがそこにあった。
クリストフは立ち上がった。椅子が倒れる音が広間に反響する。
「証拠がない。すべてはこの女の作り話だ!」
「証拠なら、ここにある」
ヨーゼフが最後の文書を差し出した。
ルドルフ男爵の自白書。王太子の指示でエステルの動向を監視していたこと、マティルデの居場所の情報を王太子側に渡したこと。すべてが本人の筆跡で記されている。
「さらに、ベッカー家の証言。西棟の書庫から文書を持ち出す殿下を、近衛の兵士が目撃しています」
一つ一つの証拠が、逃げ場を塞いでいく。
壁際に追い詰められた動物のように、クリストフの目が左右に揺れた。
そしてクリストフの顔から、すべての仮面が剥がれ落ちた。整った容貌が、醜く歪む。
ドロテーアが椅子から崩れるように座り込んだ。
扇を握る手が震えている。銀髪を飾る宝石が、もう輝いて見えない。
「……もういい」
国王が手を上げた。
「王太子クリストフ。継承権の偽造、証人の殺害教唆、王家文書の不正処分。──王太子の位を剥奪し、辺境への蟄居を命ずる」
「公爵令嬢ドロテーア。典礼権限の不正使用、封蝋の管理懈怠。──公爵家には相応の処分を通達する」
広間に、誰も声を上げる者はいなかった。
クリストフは両手を垂らしたまま、立ち尽くしていた。退屈そうに欠伸をしていた男が、今は凍りついた彫像のように動かない。
(終わった──のか)
実感が、まだない。
拳を開いた。爪の跡が、掌に赤く残っていた。
◇
宮廷会議が閉じた後、国王が私を呼んだ。
玉座の間に通されると、国王は杖に寄りかかるように椅子に座っていた。
近くで見ると、病の影が色濃い。だが目の光は、ハインツに通じるものがあった。この国を守ろうとした者だけが持つ、静かな覚悟の光。
「エステル。──ハインツの手紙には、もう一つ書かれていた」
「もう一つ?」
「『エステルは二度目の人生を歩んでいる。理由は分からぬが、彼女は未来を知っている。だからこそ、信じてほしい』と」
心臓が止まるかと思った。
ハインツが──知っていた?
「老宰相は、前の人生で私が処刑される前日に、一通の書簡を国王陛下に送っていた。だがその書簡は、王太子の手によって燃やされた。──それが、マティルデが拾った封蝋の書簡の正体だった」
すべてが繋がった。
ハインツは前の人生でも、最後まで私を救おうとしていた。処刑を止めるための書簡を国王に送った。
だが王太子に握り潰された。マティルデが拾った燃え残りは、その書簡の痕跡だったのだ。
「では──私が時間を戻ったことを、宰相閣下は──」
「恐らく、お前の行動の変化から推測したのだろう。あの男は、そういう男だった。理屈では説明できないことも、観察と論理で受け入れる。──お前と同じだな」
涙が、不意に頬を伝った。
止められなかった。止めようとも思わなかった。
ハインツは、最初から味方だった。前の人生でも、この人生でも。
ただ、力が及ばなかっただけ。それでも最後の最後まで、できることを全力でやり続けた人だった。
「エステル。シュテルン家の継承権は生きている。──そしてシュテルン家の血を引く者が、まだいる」
国王の視線が、扉の外に向けられた。
廊下に立つニクラスの姿が、わずかに見える。
「あの若者──ニクラスと名乗っているそうだな。シュテルン辺境伯の息子だと、ヨーゼフ伯爵から聞いている」
「……はい」
「継承権の復権と、シュテルン家の再興を認める。──ただし、それを受け入れるかどうかは、本人に委ねる」
国王が立ち去った後、ニクラスが静かに玉座の間に入ってきた。
古びた外套はそのまま。剣もそのまま。何も変わっていないのに、この部屋の光が彼を違って照らしている気がした。
「聞いていたの?」
「……全部じゃない。でも、だいたい」
ニクラスは困ったように頭をかいた。
剣の柄に手を置く癖は、今日は出なかった。代わりに、所在なさげに手を開いたり閉じたりしている。
「俺は──正直、まだよく分からない。辺境伯とか、継承権とか。そんな大層なものを背負える器じゃない」
「そうかもしれない」
「……否定しないのか」
「でも、あなたは自分の父の真実を取り戻した。それだけで十分じゃない」
ニクラスが黙った。
窓からの光が、彼の灰青の瞳に落ちる。その瞳に、もう放浪者の影はなかった。
「エステル」
「うん」
「復讐は──終わったのか」
考えた。
王太子は失脚し、ドロテーアは力を失い、ルドルフは自白した。マティルデの死の真相は明かされた。ハインツの遺志は果たされた。
でも──胸の奥に残っているのは、復讐の達成感ではなかった。
もっと静かで、もっと柔らかいもの。何かを壊した充足ではなく、何かを守れた安堵に似ている。
「分からない。復讐だったのかどうかも、もう分からない」
「じゃあ、何だったんだ」
「……たぶん、取り戻したかったの。奪われたものを。真実とか、信じた人の想いとか。そういうもの」
ニクラスは少し笑った。
「それなら、取り戻せたか」
「ええ。──あなたのおかげで」
沈黙が流れた。静かな沈黙。痛みのない沈黙。
ニクラスが一歩、近づいた。
「もう一度だけ──」
「え?」
「もう一度だけ、隣にいていいか」
不器用な言葉だった。
でも、その声は震えていた。剣を握る手ではなく、差し伸べる手で。
私は泣きそうなのを堪えて──堪えきれなくて、少しだけ笑って頷いた。
「ええ。もう一度だけと言わず、ずっと」
ニクラスの手が、私の手に触れた。
温かくて、少しだけ、震えていた。私の手も、同じくらい震えていた。
窓の外には、季節が一巡りした空が広がっている。
一度目の人生で見た空とは違う。復讐のために生きた空でもない。
ただ静かに──誰かの隣で、息をしていいのだと思える、そんな空だった。
玉座の間を出ると、廊下でロジーナが待っていた。
エプロンの裾を握りしめて、目を真っ赤にしている。
私の顔を見て、泣き笑いのような顔をした。
「エステル様、おかえりなさい」
「ただいま、ロジーナ」
この言葉が──二度目の人生で、一番嬉しかった。
ヨーゼフが廊下の窓辺に寄りかかっていた。窓の外を見るいつもの姿勢。
でも口元には、皮肉ではない笑みが浮かんでいた。柔らかく、どこか照れくさそうな。
「やるじゃないか、典礼官殿」
「元典礼官よ。もう権限は返上したわ」
「なら次は何になる?」
「さあ。──でも、次は一人じゃない」
ニクラスの手は、まだ私の手を握ったままだった。
ヨーゼフはそれを見て、何も言わずに窓の外に目を戻した。
二度目の人生は、復讐で始まった。でも終わったのは──もう一度、誰かを信じてもいいと思えた、その瞬間だった。
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