(四)
「我々の羊牧場のメインは、羊毛生産ではなく、国内では希少なブランド羊肉の生産です。おかげさまでブランド肉の方は、国内羊肉シェアの99%を占めており、実質独占状態にあります。ただ、その状態に満足することはできません。いつ、消費者の飽きが来るかわかりませんからね。そこで我々はブランド羊肉の奥行と幅を広げようと、試行錯誤を重ねて羊肉のブランドシリーズ拡張のための品種改良に努めているというわけです。ですから、私も含め、葛城羊牧場には、生物学や農学の修士号や博士号をもつ者が研究職として従事しているのですよ。まぁ、私は、研究だけでなく、現場の生産管理や飼育も担っていますがね」
青年は、そんな説明をしながら、僕たちを8畳ほどの会議室へと案内した。
「ひとまず、15時まではこちらでお待ちください。金ベルトの腕時計の紳士がお見えになって当方の用件が終わりましたら、こちらに御案内しますので」
僕たち二人は、6台の事務机が向かい合わせに並んでいる簡素な会議室に入ったが、黒木は、会議室を後にすれ違う青年の胸ポケットに施されているネーム刺繍を見て、青年に声をかけた。
「失礼ながら、お名前をうかがっておりませんでしたが、遠山さん…とおっしゃるようで…」
青年は振り向いて答えた。
「あぁ、そうですね。自己紹介をしておりませんでしたね、私は遠山と申します。この葛城家の長女が私の妻でして。あと、そこらへんをちょろちょろしているが、小1の娘です。ところで、お二人は?」
窓の向こうで羊と戯れる少女を背に、黒木は「私は、北城商科大学の黒木と申します。そして、彼が同じく銀杏です」と僕を紹介した。
「黒木くんと、銀杏くんですか。わかりました、どうぞごゆっくり」
青年はそう言って、会議室を後にした。会議室の掛け時計は、このときすでに15時を回ろうとしていた。僕たちは、窓の向こうに見える羊たちと壮大な牧草地を駆け回る少女をぼーっと見つめながら、金ベルトの腕時計の男の到着をじっと心待ちにしていたのだが、15時を過ぎても一向に男が来る気配はない。
黒木もしばらくは、窓の向こうを眺めたり、事務机を中心にぐるぐると部屋の中を歩き回ったりしていたが、待てど暮らせど、男は来ず、時計は16時を回り、日も沈もうとしていた。
「来ないな」
黒木が痺れを切らしていたとき、“コンコン”とドアがノックされた。
僕が「はい」と言って、ドアを開けると、目の前には遠山青年が立っていた。
「どうも」と言って、遠山青年は部屋に入ると、彼は、窓際に立ち、背を向けながら、僕たちに話しかけた。
「どうやら、金ベルトの腕時計の紳士は来られないようですね」彼がそう言うと黒木は答えた。
「そのようですね」
その後の少しの沈黙が、一瞬部屋の空気を重苦しいものにしたような気がした。ただ僕は、二人を纏う重苦しい空気の外で、金ベルトの腕時計の男が現れなかったことに、一人、安心感を抱いていた。僕は、金ベルトの腕時計の男の正体を突き止めたいという好奇心を抑えきれずに黒雲村に足を踏み入れたものの、日が沈み薄暗くなっていくこの村に、どこか不気味で不穏な気配を感じ取っていたのである。
「まぁ、これで僕たちの金ベルトの腕時計の男探しは終わりだ。いずれまた何かの機会がやってくるさ。日も沈んでいるし、今日はもう帰ろう」僕がそう言うと、遠山青年は、淡々と話を始めた。
「お二人には、申し訳ないが、黒雲村から、札幌へ向かう交通機関は、もうこの後は、翌朝の6時にならないとありません」
「え?」僕と黒木が口をそろえた。
「ですから、お二人が嫌でなければ、今晩はこの牧場にお泊まりいただいて構いませんよ。宿直室もたくさんありますから。食事も適当なものが冷蔵庫に入っていますので、それを召し上がっていただければ」と、遠山青年は壁に貼られた牧場内の施設図を指さした。
「この宿直室B-1にお泊まりください。ちょうど2名定員の部屋ですから」
「それは大変助かります」黒木がそう言うと、僕も「不幸中の幸いです」と言ったので、遠山青年は僕たちを宿直室B-1に案内してくれた。案内された宿直室は、先ほどの会議室よりも広く、12畳はある部屋にキッチンや冷蔵庫、電子レンジ、二段ベッドなどが配置されていた。
「これはよいですね、助かります」黒木がそう言うと、遠山青年は、宿直室の冷蔵庫を開けて「このとおり、飲み物はミネラルウォーターと牛乳、食べ物は菓子パンにヨーグルト、バナナなんかがありますので、少々物足りないかもしれませんが、一晩これで凌いでいただければ。私はこのあと、仕事に戻りますが、何かあれば、こちらの内線で」と言って、宿直室を後にした。




