ミ☆ ジョンと『パパ』 ☆ミ
春先の曇り空は、本来なら普く降り注ぐはずの月の光をその分厚い雲で遮ってしまっていた。夕方まで雨が降っていたせいもあって、しっとりとした薄ら寒い夜だ。
曇天を衝くようにそびえる高層タワーマンション。上層階に位置するその一室は、僅かな間接照明だけが広いリビングを照らしている。それはこの広さを照らすにはいささか薄暗すぎて、後ろ暗い密談をする時のような雰囲気をかもしていた。
その薄暗さの中に紛れるように蠢くものがあった。
それは、その小さななりにぴったりと合う半ズボンであつらえた闇色のスーツを着込んだまだあどけなさの色濃く残る少年だ。くりくりとした真っ黒な両の瞳が薄闇の中できらきらと僅かな光を反射している。摘まんだような小さな鼻と、お揃いの小さな口も可愛らしい。だが少年は根元が黒くなりかけた少し傷み気味の金髪を指先でいじりながら、見た目のあどけなさにいささか似つかわしくない威圧的な態度でふかふかのソファにふんぞり返るように座って、目前のローテーブルの上に小さく山を作る札束を鼻白んだ目で見つめていた。
「で? 今日はこれだけなんだ?」
そう言って、少年はつやつやに磨き上げられた黒光りする革靴の靴先でテーブルの上の札束の小山を軽く蹴り上げた。ばさっと万札が宙を舞う。
少年の問いかけに、彼の傍らで萎縮しきったように立ち竦んでいた中年の男は、その薄くなりかけた頭頂をしきりにハンカチで拭いながら蚊の鳴くような力のない声で申し開いた。
「そ、そうなんだ。妻が急に、私に愛人がいたことを理由に離婚を切り出してきて……慰謝料とか子供の養育費とか色々取られてしまって……」
たどたどしく説明する男に、少年はすいと目を細める。
「ふぅん、『パパ』ったら奥さんに逃げられちゃったんだ?」
少年の遠慮の無い言葉に、男はぐっと喉を鳴らす。だが次の瞬間、男はへらりと笑って頼り切ったような目で少年を見た。
「い、いや、でもこれでいつでもジョンを家に入れてあげられるよ! ジョンの大好きな高級チョコレートをたくさん買っても、文句を言う奴はもういない! それに、今回はこれだけしかあげられないけれど、ジョンがまた私の商品を流行らせてくれれば、今度はこの倍……いや、三倍の額をあげるよ!」
必死の形相で食い下がる男。その提案に、ジョンと呼ばれた少年は唇に拳を触れさせて考えるような間を取った。
少年、ジョン・ドゥは男の『子供』だ。といっても血が繋がっているわけではない。ジョンは『ナイトチルドレン』の『キング』なのだ。
ナイトチルドレンとは、このS宿界隈の路地裏で暮らす、親にも行政にも頼ることが出来ない子供たちのことだ。一人一人が色々な事情を抱えているが、多くは幼いうちに親に捨てられていて、戸籍さえ持たない者もいる。その彼らをまとめ上げるのがキングであるジョンだ。
はしこく人の目を避けて行動することに長ける彼らナイトチルドレンは、総じて情報に通じている。キングであるジョンは、その一人一人が持つ全ての情報を統括し運用することで利益を得て、ナイトチルドレンに名を連ねる全ての子供にその利益を還元するという役割を担っているのだ。
いわば、彼は高級情報屋。彼は自分の客を『パパ』『ママ』と呼び情報を売り、客は彼を『子供』としてもてなし報酬を与える。彼の出入りする家の事業が例外なく急成長するさまを見て、彼を『現代の座敷童子』と呼ぶ者もいた。
(座敷童子とはよく言ったものだね……)
ジョンは目の前の男を残念そうに見ながら、そう短く嘆息する。
彼が座敷童子なのだとすれば、これも定められた通りのルーティーンということなのだろうか。
(それならば、楽でいいんだけれどね……)
そんなことを考えながら、ジョンはクスッと笑う。
男は急に笑い出したジョンを不思議そうに見ていた。未だに現状を把握していないらしい。不思議そうな、しかし媚びたような顔をしている男の顔を、可愛らしくも悪意に満ちた歪んだ表情で見上げたジョンは、物分かりの悪い男にも分かりやすいように説明してやることにした。
「『おじさん』の作るもの、以前はとっても面白かったからここまで協力してきたんだけどさ。最近はてんでダメ。あなたはボクに頼りすぎたんだ。だから、『ママ』にだって逃げられちゃうんだよ?」
「!!」
あからさまに呼び方を変えたジョン。先ほどまでは男を『パパ』と呼んでいた彼が、今はまさに赤の他人を呼ぶ冷たさで『おじさん』と呼んで突き放している。それをもってして、ようやく男はジョンの意図を知ることが出来たようだった。
男はたった今、ジョンの『パパ』ではなくなったのだ。
それだけではない。ジョンは今、離婚された男の元妻のことを『ママ』と呼んだ。つまりそれは、今まで男がジョンと契約を結んでいたように、元妻とジョンの間に新たな契約が結ばれているということだった。
理解はしたものの、思考が追いついてこないのだろう。ぱくぱくと水槽の中の金魚のように口を開閉する男。ジョンは下から覗き込むようにそんな男を見上げると、裂けてしまうのではないかと思うほどにニィと口角を上げて笑いながら、ひと思いにトドメを刺す。
「そう、ボクにたくさんお小遣いをくれる人はおじさんだけじゃないんだよ。例えば、おじさんの元奥さん。ボクがあなたの書類ケースからちょっと失敬したもののコピーをあげたら、あなたよりずっと面白いことを言ってくれたよ。丁度いいからあなたから離れて別の会社に売り込むように助言したら、すごくてきぱき動いてくれた」
ジョンの言葉を理解していくにつれ、男の拳がぶるぶると小刻みに震え出す。歯も限界まで食いしばり、ギリギリという音が聞こえてきそうなほどだ。
「きさま……」
ジョンと元妻の裏切り行為。その全てを理解し怒りが頂点に達した瞬間、男はテーブルの上にあった豪奢で重厚なガラス製の灰皿を咄嗟に掴んで振り上げた。男は目の前のジョンの頭にその灰皿を思い切り打ち付ける気だった。
だが、その灰皿を掴んだ手は振り下ろされることはなかった。人を……しかも幼い少年を殺めることに対しての躊躇が勝った、というわけではなかった。男は力の限りに手を振り下ろそうとしている。しかし力強く腕を掴まれているかのように振り下ろすことが出来ない。
その男をすいと細めた目で見上げながら、ジョンは優雅にそのすんなりとした足を組み替えた。
「ボクが憎い? ボクのこと殺したいんだよね? いつでもどうぞ。ボクには戸籍もないから、死体さえ上手く隠せば完全犯罪は可能だよ。まあ、もっとも……」
そこまで言うと、ジョンは手で水を受ける時のように皿にして差し出したてのひらにふっと息を吹きかける。その瞬間、てのひらの上には小さな異形が姿を現した。一見、黒いトカゲのようにも見える艶めいた皮膚を持つソレ。だがその頭部には目らしいものは存在せず、そのかわり背に一対のコウモリのような翼がついていた。
ジョンが可愛がるようにソレを手の甲に乗せて頬ずりしてやると、ソレは嬉しそうに大きく裂けた口を開いて真っ赤な口内と鈍く銀に光る鋭利な歯を見せた。
小さいながらも邪悪に蠢くソレは、矮小な男を威圧するには十分すぎるほどだった。
「……そんなに簡単に殺されてなんかやらないけれどね?」
ソレの禍々しさと、抵抗にはいかなる手段も厭わないという趣旨のジョンの言葉に、男は今更のように恐怖した。ごとりと大きな音がして男の手からガラスの灰皿がこぼれ落ち、床に敷いてあったラグの上に転がる。
確かに、ナイトチルドレンの当代のキングには奇っ怪な能力があるのだとウワサではまことしやかに囁かれていた。だが男がジョンと父子になって一年、ジョンはそんな能力を使う様子もなかった。だから男は、あれは箔を付けるためのデマなのだと思っていたのだ。
しかし、今なら愚鈍な男にもわかる。ジョンの呼び出したソレ。その正体は……。
「あ、悪魔……!」
がくがくと恐怖に震えながら、男が叫ぶ。
だがジョンはその男を退屈そうに眺めて小さくあくびをしてから、何でもないことのように言ってみせた。
「あーうん。そうみたいだね。ボクのことを悪魔召喚士と呼ぶ人もいるしね。でもボクは呼び方には特にこだわらないなぁ。だって、これはボクが生まれつき持っていた力で、ボクにとっては息をするのと同じように使えるものだもの。名前を知らなくても困らないし、ね」
最後に可愛らしく小首を傾げたジョンは、ふと気付いたように自分の手の甲に乗って大人しくしている小悪魔に一度目を向けてから、また男を見上げて笑う。
「あはは、こんなこと教えてももう無意味だよね! さて、この子もお腹が空いてるみたいだし……。ねぇ、おじさん。この子のごはんになってくれる?」
ジョンの言葉に応えるように、小悪魔はその羽を羽ばたかせた。そして、カーッと口を大きく広げ、男を威嚇する。
「ひぃ……」
男が意識を保っていられたのはそこまでだった。現実から逃避するように、いとも容易く男はその場にひっくり返って意識を手放したのだった。
「あははははははははは!」
薄れゆく意識の中、男が最後に聞いていたのはジョンの高らかな笑い声。その声は甲高く男の耳をつんざいて、脳裏に深い爪痕を残すように焼き付いた。




