最終話 俺は幸せだった
死ぬのが怖くないと言えば、嘘になる。
まだ、やりたいことが山ほどあった。
行ってみたい場所もあった。
食べてみたい料理もあった。
魔王を倒したら、しばらく何もせずに暮らしたかった。
カイルと酒を飲んで。
ミリアの作った料理を食べて。
エマと、くだらないことで喧嘩をして。
そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
それなのに。
たった一度の神託が、すべてを奪っていった。
◇
半年前。
大神殿の最奥で、レオンは神託を受けた。
『魔王を滅ぼすには、命の代償が必要となる』
『聖剣は、勇者と共に旅をし、その仲間として認められた者の中から、勇者に最も強い信頼を寄せる者の命を奪う』
『その者がどこにいようと、勇者との絆が残る限り、運命から逃れることはできない』
『ただし、勇者を信頼する仲間が一人もいなければ、勇者自身が代償となる』
最初は、意味が分からなかった。
何度も頭の中で繰り返した。
理解した瞬間、膝から力が抜けた。
「……何だよ、それ」
声が震えた。
カイルの顔が浮かんだ。
何度も背中を預けた、誰よりも頼りになる親友。
ミリアの顔が浮かんだ。
自分が傷つくたび、本気で心配してくれた優しい少女。
エマの顔が浮かんだ。
幼い頃から、ずっと隣にいた大切な幼馴染。
その三人に、嫌われなければならない。
心の底から軽蔑され、二度と信じてもらえなくなるまで。
「……何だよ、それ」
レオンは乾いた笑いを漏らした。
「……俺が死ぬだけじゃ、駄目なのかよ」
命を差し出す覚悟なら、できるかもしれない。
けれど、そのために大切な人たちを傷つけなければならない。
自分を信じてくれた人間を、自分の手で裏切らなければならない。
「……あいつら、何も悪くねえのに……」
レオンは祭壇の前に座り込んだ。
死ぬのは怖い。
けれど、それ以上に。
あの三人から嫌われることが、怖かった。
◇
その夜。
宿の裏庭で、レオンは一人、空を見上げていた。
星が綺麗だった。
こんな夜に、死ぬことばかり考えている自分が馬鹿らしく思えた。
「……何やってんだろ、俺」
逃げることも考えた。
魔王なんて放っておけばいい。
聖剣を捨てて、どこか遠くへ行けばいい。
カイルも、ミリアも、エマも連れて。
誰も自分たちを知らない土地で、普通に暮らす。
そんな未来だって、あっていいはずだった。
けれど。
旅の途中で見た、焼け落ちた村を思い出した。
母親を探して泣いていた子供。
魔物に殺された息子の名前を呼び続ける老人。
自分の手を握り、何度も礼を言ってくれた人々。
あの人たちを見捨てて、自分だけ幸せになる。
そんなことが、できるだろうか。
「……できねえよな」
レオンは苦笑した。
そのとき。
「レオン?」
振り返ると、エマが立っていた。
「何してるの、こんなところで」
「……ちょっとな」
「また一人で考え事?」
「まあな」
エマは隣に腰を下ろした。
昔からそうだった。
こちらが何も言わなくても、勝手に隣へ来る。
そして、何も聞かずにいてくれる。
レオンは、そんな時間が好きだった。
「……なあ、エマ」
「何?」
「もし俺が、とんでもない馬鹿になったらさ」
少しだけ、声が震えた。
「お前、どうする?」
エマは笑った。
「何それ。今でも十分馬鹿じゃない」
「ひでえな」
「でも、まあ……」
エマは少し考えてから言った。
「どんな馬鹿になっても、私はレオンの味方だよ」
胸が、苦しくなった。
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
けれど。
その言葉が、怖かった。
エマが自分を信じている限り、彼女が死ぬかもしれない。
この優しい幼馴染が、自分のせいで命を落とすかもしれない。
「……そっか」
レオンは笑った。
「ありがとな」
それ以上、何も言えなかった。
本当は、聞きたかった。
もし俺が死んだら、泣いてくれるか。
もし俺がいなくなったら、寂しいと思ってくれるか。
けれど。
そんなことを聞けば、きっとエマは怒るだろう。
そして、何があっても一緒にいると言うだろう。
だから、聞かなかった。
その夜。
レオンは、眠れなかった。
◇
最初に傷つけたのは、カイルだった。
些細なことで喧嘩を売った。
戦い方に文句をつけた。
仲間を守るために剣を振るうあいつを、臆病者だと笑った。
「……お前、最近どうしたんだ?」
カイルは怒らなかった。
心配そうに、そう尋ねてきた。
それが、辛かった。
「別に。お前が鬱陶しいだけだ」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
カイルは少しだけ驚いた顔をした。
けれど、すぐに笑った。
「……何かあったなら、話せよ」
やめろ。
そんな顔をするな。
怒ってくれ。
殴ってくれ。
俺を嫌いになってくれ。
「……お前に話すことなんかねえよ」
そう吐き捨てて、背を向けた。
部屋に戻ったあと。
レオンは、何度も拳を壁に打ちつけた。
「……くそっ」
あいつは、何も悪くない。
なのに。
俺は、何をやっているんだ。
◇
次は、ミリアだった。
魔物に襲われた村で、少年が大怪我を負っていた。
ミリアは必死に治療をしていた。
けれど、彼女の魔力は尽きかけていた。
「レオンさん、少しだけ待ってください!」
ミリアは涙を浮かべながら言った。
「この子を、助けたいんです!」
本当なら、頷きたかった。
大丈夫だ。
俺が何とかする。
いつもなら、そう言っていた。
けれど。
「……放っておけよ」
自分の口から出た言葉に、吐き気がした。
「そんなガキ一人に構ってる暇はねえだろ」
ミリアが、信じられないものを見るような目をした。
「……本気で、言ってるんですか?」
「ああ」
「……レオンさん」
彼女の声が震えた。
「……あなたを、もう尊敬できません」
胸の奥で、何かが壊れた。
ミリアは、ずっと自分を慕ってくれていた。
初めて魔物を倒した日。
嬉しそうに、自分のことを英雄だと言ってくれた。
そんな少女に。
自分は、何を言わせているのだろう。
「……勝手にしろ」
レオンは背を向けた。
その夜。
仲間たちが眠ったあと、こっそり宿を抜け出した。
腕のいい治療師を探し、少年の家へ連れていった。
金なら、いくらでも払うと言った。
治療が終わるまで、家の外で待ち続けた。
夜が明ける頃。
少年の母親が、泣きながら頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
レオンは首を振った。
「礼なら、最初に手当てをした治癒術師に言ってやれ」
そして、念を押した。
「……その治癒術師には、俺が来たことを言うな」
母親は不思議そうな顔をした。
けれど、頷いてくれた。
宿へ戻る途中。
レオンは一人で泣いた。
少年が助かったことが嬉しかった。
ミリアに嫌われたことが悲しかった。
その両方が、どうしようもなく苦しかった。
◇
村から金貨百枚を要求したときも、同じだった。
村長の顔が青ざめた。
カイルが怒鳴った。
ミリアが悲しそうに俯いた。
エマは、何も言わなかった。
その沈黙が、一番辛かった。
本当は、村の復興を手伝いたかった。
魔物に壊された家を直し、食料を届けたかった。
だから、後から商会を通じて金貨三百枚を寄付した。
誰にも知られないように。
自分がやったと分かれば、また信頼されてしまう。
それだけは、避けなければならなかった。
善いことをするたびに、隠さなければならない。
誰かを助けるたびに、悪人のふりをしなければならない。
そんな毎日だった。
何度も思った。
もう、やめたい。
全部話してしまいたい。
カイルに謝りたい。
ミリアに、本当はあの少年を助けたかったと言いたい。
エマに、いつものように笑いかけたい。
けれど。
それをすれば、誰かが死ぬ。
だから、やめられなかった。
◇
一番辛かったのは、エマだった。
幼い頃から、ずっと一緒だった。
嬉しいことも、悲しいことも、何でも話してきた。
父親を亡くした夜。
エマは声が枯れるまで泣いていた。
レオンは、ただ隣に座っていた。
何を言えばいいのか分からなかった。
だから、朝まで手を握っていた。
そのエマが、父親の形見の剣を大切にしていることを、誰よりも知っていた。
だからこそ。
それを利用した。
『どうせお前の親父も、大した剣士じゃなかったんだろ?』
言った瞬間。
エマの顔から、表情が消えた。
次に浮かんだのは、怒りだった。
そして。
涙だった。
『……最低』
その言葉が、胸に突き刺さった。
『……大嫌い』
息が止まりそうになった。
『もう二度と、顔も見たくない』
レオンは笑った。
『そりゃ結構』
うまく笑えていただろうか。
声は震えていなかっただろうか。
エマが走り去ったあと。
レオンは、しばらく動けなかった。
「……ごめん」
誰もいない道で、呟いた。
「……ごめんな、エマ……」
何度も謝った。
けれど、もう遅かった。
あの子の心を、自分で傷つけた。
それが必要だったと分かっていても。
どうしても、自分を許せなかった。
その後、レオンはエマの剣を鍛冶屋へ持ち込んだ。
父親の形見だった。
柄には、何度も握られた跡が残っていた。
鍔には、小さな花の模様が刻まれていた。
「新しい剣を買った方が安いぞ」
鍛冶屋にそう言われた。
「……代わりがあるなら、わざわざ直しに来ねえよ」
レオンは答えた。
修復が終わる頃には、自分はもういないだろう。
だから、魔王討伐から数週間後に連絡してほしいと頼んだ。
剣と一緒に、小さな青い袋を預けた。
十年前。
エマが自分のために縫ってくれた、お守りだった。
ずっと、持ち歩いていた。
何度もほつれを直しながら。
捨てられるはずがなかった。
「……頼む」
レオンは鍛冶屋に頭を下げた。
「……あいつに、返してやってくれ」
◇
魔王城へ向かう前日。
カイルが、レオンの前に立った。
「……お前とは、もう一緒に戦えない」
その顔には、怒りと失望が浮かんでいた。
レオンは、何も言わなかった。
「……昔のお前は、こんな奴じゃなかった」
知ってる。
「……俺は、お前を信じてたんだぞ」
知ってるよ。
「……親友だと思ってた」
俺だって、そうだ。
今でも。
お前は、俺の親友だ。
けれど、言えなかった。
カイルの拳が飛んできた。
頬に、鈍い痛みが走った。
地面に倒れた。
口の中に、血の味が広がった。
「……二度と俺の前に現れるな」
レオンは、ゆっくりと起き上がった。
そして、笑った。
「……そうかよ」
カイルは背を向けた。
ミリアも、ついていった。
エマは、一度だけ振り返った。
その目には、もう昔のような温かさはなかった。
三人の背中が、遠ざかっていく。
レオンは、ずっと見送っていた。
声をかけたかった。
待ってくれ、と。
行かないでくれ、と。
俺を一人にしないでくれ、と。
喉の奥まで、言葉が出かかった。
けれど。
唇を噛みしめた。
今さら、引き止めてどうする。
ここまでやったんだ。
あと少しだ。
あと少しで、あいつらは助かる。
「……これで、いい」
レオンは呟いた。
「……これで、いいんだ」
何度も繰り返した。
そうしなければ、立っていられなかった。
◇
その夜。
レオンは一人で酒を飲んでいた。
四つの杯を並べて。
カイルは、酒が強かった。
ミリアは、いつも果実水を飲んでいた。
エマは、酔うと妙に絡んできた。
そんなことを思い出して、笑った。
「……何やってんだろ、俺」
杯を持つ手が震えた。
明日、死ぬ。
それが、ようやく現実味を帯びてきた。
怖かった。
たまらなく、怖かった。
死にたくなかった。
まだ、生きていたかった。
カイルと、もう一度喧嘩したかった。
ミリアに、また怒られたかった。
エマと、くだらない話をしたかった。
いつか、四人で旅の思い出を笑い合いたかった。
そんな未来が、欲しかった。
「……くそっ」
レオンは顔を覆った。
「……死にたくねえよ……」
涙が零れた。
「……俺だって、生きてえよ……」
誰もいない部屋で。
勇者は、声を殺して泣いた。
しばらくして。
レオンは顔を上げた。
目の前には、三つの空の杯があった。
「……でも」
小さく呟いた。
「……あいつらには、生きててほしいんだよな……」
涙を拭った。
「……しょうがねえか」
笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
◇
魔王城。
玉座の間。
レオンは、一人で魔王と向かい合っていた。
『……人間よ』
魔王が低く笑った。
『仲間はどうした』
「……置いてきた」
『ほう。一人で我に挑むか』
「ああ」
『愚かな』
レオンは聖剣を構えた。
「……うるせえよ」
戦いは、長く続いた。
何度も斬られた。
何度も吹き飛ばされた。
骨が折れた。
血が流れた。
それでも、立ち上がった。
カイルなら、きっとこう言うだろう。
『無茶すんな、馬鹿!』
ミリアなら、泣きながら治してくれるだろう。
エマなら、怒鳴りながら隣に立つだろう。
そんな光景が、何度も頭に浮かんだ。
「……はは」
レオンは笑った。
「……やっぱ、一人はきついな……」
けれど。
誰もいないからこそ、よかった。
誰も傷つかない。
誰も死なない。
自分だけで済む。
「……あと少しだ」
レオンは剣を握り直した。
「……あと少しで、終わる……!」
最後の力を振り絞った。
聖剣が、光を放った。
魔王が咆哮する。
レオンは叫んだ。
「……これで、終わりだあああっ!」
聖剣が、魔王の胸を貫いた。
巨大な身体が崩れ落ちる。
魔王の気配が、消えた。
長かった戦いが、終わった。
◇
静寂。
レオンは、ゆっくりと膝をついた。
聖剣から、光が溢れた。
神託の言葉が、頭の中に響いた。
『勇者を信頼する仲間が一人もいなければ、勇者自身が代償となる』
胸の奥が、熱くなった。
身体から、力が抜けていく。
命が、消えていく。
「……ああ」
レオンは、小さく笑った。
「……ちゃんと、俺なんだな……」
よかった。
カイルじゃない。
ミリアじゃない。
エマじゃない。
誰も、犠牲にならなかった。
「……よかった……」
涙が零れた。
安心した。
本当に、安心した。
けれど。
同時に、胸が苦しくなった。
思い出すのは、三人の顔だった。
怒りに震えるカイル。
悲しそうに俯くミリア。
涙を流して、自分を睨んだエマ。
最後に見た、あいつらの顔。
それが、自分に向けられた最後の表情だった。
「……そっか」
レオンは呟いた。
「……本当に、嫌われちまったんだな……」
笑おうとした。
けれど、涙が止まらなかった。
あんなに一緒にいたのに。
あんなに笑い合ったのに。
最後には、誰も自分を信じてくれなかった。
それが、自分の望んだ結果だった。
分かっていた。
分かっていたのに。
「……寂しいな……」
小さな声が漏れた。
本当は、嫌われたくなかった。
本当は、最後まで親友でいたかった。
本当は、優しい人間のまま死にたかった。
誰かに、ありがとうと言われたかった。
誰かに、よく頑張ったなと褒めてほしかった。
誰かに、忘れないと言ってほしかった。
でも。
そんな願いは、もう叶わない。
レオンは、ゆっくりと目を閉じた。
そのとき。
ふと、昔のことを思い出した。
まだ、勇者になる前。
四人で旅を始めたばかりの頃だった。
『お前、ほんと無茶ばっかりするよな』
カイルが呆れたように笑っていた。
『でも、まあ……お前と一緒なら、何とかなる気がするよ』
ミリアも笑っていた。
『レオンさんは、私の憧れですから』
そして。
エマが、いつものように隣にいた。
『ねえ、レオン』
『何だよ』
『私たち、ずっと一緒にいようね』
あのとき、自分は何と答えただろう。
確か、照れくさくなって。
『……当たり前だろ』
そう答えた気がする。
レオンの頬を、涙が伝った。
ああ。
そうだった。
自分は、確かに愛されていた。
最後には嫌われてしまったけれど。
それまでの日々が、嘘だったわけじゃない。
カイルは、本当に親友だった。
ミリアは、本当に自分を慕ってくれていた。
エマは、本当に自分を大切にしてくれていた。
あの日々は、確かに存在した。
誰にも、それだけは奪えない。
「……はは」
レオンは、小さく笑った。
「……俺、結構幸せだったんだな……」
涙は、まだ止まらなかった。
けれど。
もう、寂しくはなかった。
目を閉じると、三人の笑顔が浮かんだ。
怒った顔でも。
悲しんだ顔でもない。
自分が、何よりも好きだった笑顔だった。
「……ありがとな」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「……俺と、一緒にいてくれて」
聖剣の光が、少しずつ弱まっていく。
レオンは、最後にもう一度だけ笑った。
「……じゃあな、みんな」
その表情は、穏やかだった。
勇者レオンは、誰にも看取られることなく、その生涯を終えた。
けれど、その最期は。
決して、孤独なものではなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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他にも切なく心に残るような短編作品を書いていますので、よろしければそちらも読んでいただけると嬉しいです。




