第3話「鳴らない手鏡とでんでん太鼓」(後編)
1. 映らない鏡と、届かない願い
廃写真館の二階準備室。
【でんでん】の温かい音色に誘われ、暗闇から姿を現した女の子の影。
彼女は大きな古い手鏡を両手でしっかりと胸に抱きしめたまま、千景の足元でぽつりと呟いた。
女の子の影『わたし……お母さんに綺麗にしてもらったの。ここで、七五三の写真を撮るはずだったの……』
千景「お母さんと、写真を……」
千景は女の子の目線に合わせるように膝をつき、優しく語りかけた。
女の子の影『でもね……鏡を見ても、わたし、なんにも映らないの。お母さんも……来なくなっちゃったの』
女の子が抱えている手鏡の表面を覗き込むと、そこには埃と油膜が分厚くこびりつき、光を一切反射していなかった。鏡としての役割を果たさない「鳴らない(映らない)手鏡」。
千景はふっと胸の奥が痛むのを感じた。
怪異の持ち物は、その童の「心の留まり」そのものだ。
女の子は、鏡に映る自分の姿(綺麗にしてもらった姿)を確認することができず、「自分はお母さんに綺麗にしてもらえたのだろうか」「だからお母さんは来ないのではないか」という不安と疑念のまま、何十年もこの鏡台の前に取り残されていたのだ。
2. 手鏡の裏の小さな傷
千景は神楽鈴を片手に持ったまま、もう片方の手をそっと女の子の手鏡へ差し伸べた。
千景「ねえ……その鏡、少しだけ見せてもらってもいい?」
女の子の影は一瞬不安そうに肩をすくめたが、でんでんの音で生まれた信頼から、ゆっくりと手鏡を千景に委ねた。
千景は手鏡を受け取ると、表面を覆う長い年月と思念のノイズを、自分の袖で優しく拭った。
すると、鏡の裏側の木枠に、小さな小さな彫り傷があるのが見えた。
『いつも笑顔の、かわいい〇〇へ 母より』
千景「……! これ……」
昭和初期、写真撮影は一生に一度あるかないかの大層な行事だった。
母親は、緊張して上手く笑えない娘のために、この手鏡を贈り、「鏡を見て、笑顔の練習をしなさいね」と言って撮影の準備室に残したのだ。
しかし撮影の直前、街を襲った火事によって写真は撮られず、母子ははぐれてしまった。
女の子は「お母さんの言葉」を守り、綺麗に笑えているかを確認したくて、ずっとこの鏡を覗き込もうとしていたのだ。
3. 鳴らない手鏡を、鳴らす(映す)
千景は胸が熱くなるのを抑えながら、女の子に手鏡を正面から差し向けた。
千景「お母さんはね、あなたを置いて逃げたんじゃないよ。……この鏡の裏を見て」
女の子の影が、千景の示す木彫りの文字をなぞる。
千景「お母さんはね、あなたが笑顔でいられるように、この鏡をくれたの。あなたが綺麗かどうかは、お母さんが一番よく知ってたんだよ」
千景は神楽鈴を高く掲げ、一回、清らかに振り鳴らした。
――チリン……!
澄み渡る鈴の音が準備室全体に波紋のように広がる。
神楽鈴の音が手鏡のノイズを完全に祓うと、曇り切っていた鏡面がパッと光を反射し、そこには涙を浮かべながらも、母親に可愛らしく髪を結ってもらった七歳の女の子の「満開の笑顔」が鮮明に映し出された。
女の子の影『あ……! わたし……笑ってる……! お母さんがしてくれた髪型、すごく綺麗……!』
女の子の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「映らなかった鏡」が、何十年ぶりかに彼女の本当の姿を映し出したのだ。
4. 過去を連れて、安らかな還り
女の子は鏡の中の自分の笑顔を見て、心の底から安心したように小さく息をついた。
女の子の影『ありがとう、お姉ちゃん……。わたし、ちゃんとお母さんの自慢の女の子になれてたんだね』
千景「うん。すっごく、かわいいよ。……さあ、お母さんが待ってる場所に還ろうね」
――チリン、チリン。
神楽鈴の温かな音色に包まれ、女の子の影は大切そうに手鏡を抱きしめたまま、金色の光となって天井の隙間から秋の青空へと溶けて行った。
昭和の洋風写真館の幻影が消え、カビと埃の漂う現代の廃屋に戻る。
千景は深く息を吐き、静かにバッグから手帳を取り出した。
(独楽で居場所を割り出し、でんでんで引き出し、神楽鈴で対話する……)
道具は単なる便利なツールではない。童の頑なな心を開き、対話のテーブルに着かせるための「優しさの段階」なのだと、千景は身体で理解した。
5. 代償と、もう一つの歩み
役場への帰り道。
千景は歩道橋の上で立ち止まり、ふと自分のカバンに付けているキーホルダーを見つめた。
(……あれ? これ、誰からもらったんだっけ……)
代償——童の世界から戻るたび、千景の記憶には小さな霧がかかる。
今回もまた、その霧の向こうへ、ひとつの記憶が遠ざかっていた。
けれど、千景の足取りは重くない。
役場に戻ると、同僚が「遠野さん、お帰り! さっき頼んでた書類の件だけど……」と声をかけてくる。
千景は少し困ったように微笑み、素直に言った。
千景「すみません、少し手順を忘れてしまって……もう一度だけ、教えていただけますか?」
同僚「なんだよ遠野さん、珍しいな! いいよ、何度でも教えるよ」
「何度でも教える」という言葉の温もりが、胸に染み渡る。
失われた記憶は、こうしてまた人と関わり、教えてもらい、積み重ねていけばいい。
独楽で状態を把握し、でんでんで引き出し、神楽鈴で向き合う。
童の状態を見て、必要な手段を自ら判断する力を身につけた千景は、記憶を失う恐怖を温かな繋がりに変えながら、確かな足取りで「童帰り師」としての道を歩み始めていた。
(第3話・後編 完)




