第2話「鳴らない手鏡とでんでん太鼓」(前編)
1. 隠れ潜む影と、役場の日常
秋も深まり、街路樹の葉が赤く色づき始めた頃。
千景は役場の窓口業務をこなしながら、時折ふっと自分の手元を見つめることがあった。
最近、小さな違和感がある。
ふとした瞬間に、昨日まで当たり前に覚えていた仕事の手順や、同僚の雑談の内容が、霧がかかったように思い出せなくなることがあったのだ。
(童の世界へ深く入ることの……代償……)
けれど、千景の心に悲壮感はなかった。
忘れてしまっても、メモを取り直したり、先輩に聞き直したりして、もう一度覚え直せばいい。そうやって一つひとつ「自分を再構築していく」感覚を、今の千景は受け入れ始めていた。
そんな折、市民生活課に新しい相談が持ち込まれる。
「旧市街の廃屋になった写真館なんですが……夜になると、二階の窓辺に小さな女の子の影が立っていて、通りかかる人をじっと見つめているそうなんです」
現場は、昭和初期に建てられた洋風写真館の跡地。
近所の人々が気味悪がって声をかけても、返事どころかまったく反応を示さず、ただ窓の奥の暗闇へすーっと消えてしまうのだという。
2. 届かざる気配——「出てこない童」
夕方、千景は旧写真館の前へと足を運んだ。
蔦の絡まる古びた木の扉を押し開けると、埃と古い薬剤の匂いが鼻をくすぐる。
独楽を取り出し、床に滑らせる。
独楽は静かに回り続け、二階の奥にある「準備室」を示してピタリと軸を安定させた。居場所は明確だった。
千景は階段を上がり、準備室の前で神楽鈴を構えた。
――チリン、チリン。
鈴の音と共に空間が切り替わり、昭和のレトロな写真館の風景が広がる。
独楽が示した鏡台の陰に、小さな女の子の姿が見えた。大きな手鏡を両手で抱え、膝を丸めている。
千景「こんばんは。……何か、探しているの?」
千景は優しく語りかけた。
だが、女の子は千景の姿が見えていないかのように、手鏡を固く抱きしめたまま、部屋の隅の暗闇へとさらに身を潜めてしまう。
攻撃してくるわけでも、拒絶するわけでもない。
ただ、深く傷つき、怯えるあまり「自分の世界」に閉じこもり、外部からの関わりを完全に遮断しているのだ。
千景の神楽鈴の音も、優しく差し伸べた手も、少女が自ら作った心の殻を通り抜けることができない。
(見つけることはできた。でも……出てきてくれない。話を聞く場所まで、呼び寄せることができない……)
千景は無理に踏み込もうとせず、一度引き返す判断を下した。
今の千景には、「引く」勇気と「準備する」冷静さがあった。
3. おばばのつづら——導きの「でんでん」
本家に戻った千景は、奥の間でおばばに向き合った。
おばば「ふむ……傷が深すぎて、殻に閉じこもっておるか。無理に引きずり出せば、その童の心が壊れてしまうな」
おばばは再び竹つづらへ手を伸ばし、小さな丸い木製の道具を取り出した。
柄のついた小さな太鼓の両脇に、短い紐と木札が結びつけられている。
おばば「【でんでん】じゃ。……童を力で引きずり出す道具ではない。『こっちへおいで』と、優しく呼びかけるための音を鳴らすのじゃ」
千景「でんでん太鼓……」
おばば「鈴の音が『対話』なら、でんでんの音は『案内』じゃ。地場の奥に隠れた童の心をそっとほぐし、こちらへ歩み寄らせるための道を敷くのじゃよ」
千景はでんでん太鼓を受け取り、柄を両手で挟んで軽く回した。
――でん……でん……。
素朴で、どこか懐かしく温かい木と漆の音が、奥の間に優しく響き渡る。
胸の奥にいる「6歳の千景」が、その音を聞いて、嬉しそうに小さな膝を伸ばすのを感じた。
千景「これなら……あの子も、怖がらずに出てきてくれるかもしれない」
4. 再度写真館へ——優しい音色
翌日の黄昏時。
千景は再び写真館の二階準備室に立っていた。
独楽を回し、地場の境界線を確認する。立ち位置を決め、境界線のこちら側にしっかりと足を置く。
千景は神楽鈴ではなく、まず【でんでん】を胸の前に掲げた。
ゆっくりと、柄を揺らす。
――でん……でん……でん……。
素朴で温かい音が、静まり返った廃屋の中に染み渡っていく。
それはまるで、「もう怒られないよ」「ここは安全だよ」と語りかけるお母さんの手拍子のような音色だった。
鏡台の陰で手鏡を抱えて固まっていた女の子の影が、耳をぴくっと動かした。
女の子の影『……何の音……?』
――でん……でん……。
千景は焦らず、一定の拍子ででんでんを鳴らし続けた。
強引に近づくのではなく、童が自分の足で一歩を踏み出すのを、待つ。
女の子の影は、そっと手鏡の陰から顔を覗かせると、音に導かれるようにゆっくりと膝を立て、千景の方へと歩み出てきた。
女の子の影『……懐かしい音。……わたし、お母さんに写真をとってもらうのを……ずっと待ってたの……』
千景の足元まで歩み寄ってきた女の子を見て、千景はそっとでんでんを収め、胸元から神楽鈴を取り出した。
童を呼び寄せ、安全な場所へと誘う。
お膳立ては整った。ここからが、童帰り師・遠野千景の本当の対話だった。
(第2話・前編 完)




