第48話 止まった時間
百十二年前。
時計の長針も短針も、その日付を指したまま止まっていた。
「時計が……。」
悠人は思わず近付く。
古びた時計ではない。
埃一つなく、今にも動き出しそうな美しい置時計だった。
それなのに。
針だけが動かない。
少女は静かに微笑む。
「気になりますか?」
「はい。」
悠人は素直に頷いた。
「壊れているんですか?」
「いいえ。」
少女は首を横へ振る。
「止めたんです。」
「私が。」
その一言で部屋の空気が変わった。
◇
ガルは部屋の中を見回す。
壁。
床。
天井。
窓。
どこにも異常はない。
ミリアも魔力を探る。
「呪いではありません。」
「幽霊でもありません。」
「魔法も使われていません。」
「じゃあ何で……。」
悠人は少女を見る。
百十二年間。
この部屋で生き続けていた。
普通ではありえない。
少女は本を机へ置く。
「私はエリス。」
「昔、この王城に住んでいました。」
「昔?」
「百十二年前です。」
悠人は思わず苦笑する。
「それが昔すぎるんです。」
◇
セシリアが一歩前へ出る。
「失礼ですが。」
「あなたは……人間なのですか?」
少女は少し考えたあと、小さく笑った。
「私にも分かりません。」
「気が付いたら。」
「ずっと、この部屋にいました。」
その答えに誰も言葉を返せなかった。
◇
ガルは窓際まで歩く。
窓を開ける。
夕方の風が部屋へ流れ込む。
外には王都の景色。
普通の部屋だ。
「外へ出たか。」
少女は寂しそうに首を横へ振った。
「出られません。」
「扉を出ると。」
「気付けば、また椅子へ座っています。」
悠人は思わずエレナを思い出した。
影の屋敷。
あの時と似ている。
「また閉じ込められてる……。」
◇
その時だった。
コチッ。
小さな音が響く。
全員が時計を見る。
止まっていたはずの長針が、一目盛りだけ動いた。
「動いた!」
悠人が声を上げる。
しかし。
時計は再び止まる。
エリスは静かに時計を見つめていた。
「また少し。」
「時間が進みました。」
その言葉には、どこか嬉しそうな響きがあった。
ガルは時計の前へ立つ。
そして、小さく呟く。
「そういうことか。」
「店長?」
悠人が振り向く。
ガルは時計から目を離さず言った。
「止まっているのは。」
「時計じゃない。」
その言葉に、一同は息を呑んだ。
「時計じゃない……?」
悠人は首をかしげた。
ガルは止まった時計へ近付き、静かに文字盤へ触れる。
「この時計は正常だ。」
「壊れていない。」
「でも。」
悠人は針を見る。
「止まっています。」
「ああ。」
ガルは短く頷く。
「時計が時間を刻めないだけだ。」
「この部屋では。」
ミリアがゆっくり部屋を見回した。
「時間そのものが乱れています。」
「だから時計も進めない。」
「じゃあ。」
「百十二年間。」
悠人は少女を見る。
「この部屋だけ時間が止まっていた?」
エリスは静かに首を横へ振った。
「少し違います。」
「時間は流れています。」
「でも。」
「外へ出て行かないんです。」
誰も意味を理解できなかった。
◇
エリスは窓の外を見る。
夕焼けに染まる王都。
「毎日。」
「同じ夕方なんです。」
「朝にならない?」
「はい。」
「夜にも。」
「昼にも。」
「ならないんです。」
悠人は言葉を失った。
百十二年間。
同じ夕方を繰り返している。
そんな部屋が存在するのか。
◇
レオンは腕を組む。
「だから。」
「泊まった奴は倒れるのか。」
ミリアも頷いた。
「体だけは外の時間で動きます。」
「でも部屋は夕方のまま。」
「時間の流れが噛み合わない。」
「その反動で体調を崩しているんです。」
「なるほど。」
悠人はようやく納得した。
呪いではない。
時間の異常だった。
◇
ガルは少女へ尋ねる。
「最後に覚えていることは。」
エリスは少しだけ目を閉じた。
「誰かを待っていました。」
「誰を?」
「……思い出せません。」
「約束だけ覚えています。」
「約束?」
エリスは静かに頷いた。
「『夕方までに帰る』って。」
部屋が静まり返る。
百十二年間。
少女はその約束だけを信じて待ち続けていた。
だから時間も。
夕方のまま止まってしまった。
悠人の胸が少し痛くなる。
◇
その時だった。
コン。
扉が小さく鳴る。
誰も触れていない。
コン。
コン。
今度は窓が鳴った。
そして。
部屋中の時計という時計が、一斉に動き始める。
カチ。
カチ。
カチ。
ミリアの顔色が変わる。
「店長。」
「時間が動き始めました。」
ガルは静かに頷く。
「ああ。」
「待っていた相手が。」
「近付いている。」
その瞬間。
廊下の奥から、ゆっくりと誰かの足音が聞こえてきた。
百十二年間、一度も聞こえるはずのなかった足音が。
コツ。
コツ。
静かな廊下へ足音が響く。
誰も話さない。
足音はゆっくりと部屋へ近付いてくる。
セシリアは思わず剣へ手を掛けた。
レオンも一歩前へ出る。
しかし。
ガルだけは動かなかった。
「店長?」
「ああ。」
「敵じゃない。」
短い一言だった。
◇
やがて。
コン。
部屋の扉が静かに叩かれる。
百十二年間。
誰も訪れることのなかった部屋。
その扉が、今初めて外側からノックされた。
エリスの身体が小さく震える。
「……来た。」
その声は震えていた。
嬉しさと。
信じられないという気持ちが混ざっている。
ガルは静かに扉を開けた。
◇
廊下には、一人の老人が立っていた。
王城の庭師だった。
年齢は八十を超えているだろう。
白髪交じりの髪。
深い皺。
震える手。
老人は部屋を見るなり、その場へ膝をついた。
「お嬢様……。」
涙声だった。
エリスは目を丸くする。
「……誰?」
老人は苦しそうに笑う。
「覚えておられませんか。」
「私は。」
「庭師見習いだったトーマスです。」
その名前を聞いた瞬間。
エリスの表情が変わった。
「トーマス……?」
遠い記憶が少しずつ戻ってくる。
庭で花を植えていた少年。
毎日笑っていた少年。
そして。
ある日の夕方。
「そうだ……。」
エリスは小さく呟いた。
「約束。」
◇
老人は涙を拭う。
「花を摘みに行って。」
「夕方までに戻りますと。」
「約束したんです。」
「ですが。」
「王都の外で事故に遭い。」
「戻れませんでした。」
治療。
戦乱。
復興。
気が付けば何十年もの歳月が流れていた。
それでも老人は忘れなかった。
約束を。
「ずっと。」
「謝りたかった。」
その言葉が終わった瞬間だった。
カチ。
止まっていた時計が動き始める。
一秒。
また一秒。
静かに時を刻み始める。
夕焼けだった窓の外も、ゆっくりと夜へ変わっていく。
百十二年間止まっていた夕暮れが、ようやく終わった。
◇
エリスは涙を流していた。
「帰ってきてくれた。」
「約束。」
「守ってくれた。」
老人は何度も頭を下げる。
「遅くなって。」
「申し訳ありません。」
エリスは静かに首を横へ振った。
「ううん。」
「待ってて良かった。」
その笑顔は、百十二年間で初めて見せる、本当の笑顔だった。
◇
部屋の空気が変わる。
重苦しさが消えていく。
ミリアが小さく息を吐く。
「時間の歪みがなくなりました。」
「事故物件ではなくなりましたね。」
ガルは静かに頷く。
「ああ。」
「原因は未練だった。」
悠人は窓の外を見る。
夜空には星が輝いている。
この部屋にとっては、百十二年ぶりの夜だった。
「また売れるようになりますね。」
悠人が笑う。
ガルも小さく頷く。
「営業。」
「はい。」
「依頼完了だ。」
異世界不動産は今日もまた、一軒の"住めない家"を、人が住める場所へ戻した。
それが、この店の仕事だった。




