第35話 剣をとる
リーザは顔を伏せながら城塞内を歩いていた。空は薄い雲に覆われていて、星の光は途絶えがちだ。あたりはほとんど真っ暗闇に近い。リーザは長いスカートを揺らしながら、人目につかなさそうな建物の影を進んだ。
焦りとじれったさからつい速足になってしまうが、すぐに気持ちを落ち着ける。今すぐ走り出して目的の場所まで行きたいのはやまやまだ。しかし侍女の服を着ている以上、目立たずにいられる場所には限りがあるから迂闊には歩き回れなかった。
第一、頭巾もかぶれないのだから顔を見られたら終わりである――――油断はできない。
下働きたちの生活拠点である建物の端まできて、リーザは柱に身を隠した。城壁まで向かうとしたら、このまま開けた場所を突っ切らなければならない。向こうには武器庫があるが、そこまではどうしても目立ってしまう。
「……でも、行くしかない」
リーザは覚悟を決めて、大きく一歩を踏み出した。何の問題もないのだ。ただ堂々としていればいいだけ――――。
だがその時、笛の音が甲高く響き渡った。
「――――まだ少ししか経っていないのに!」
耳をつんざくような高音は、異常事態が起こっていることを知らせるための警笛だ。このタイミングなら間違いない――――脱獄に気づかれた。
リーザはびくりと肩を揺らした。見張りの兵たちが一斉に振り返って、すぐにあたりを警戒し始める。しかし今さら戻ることもできず、リーザは速足に武器庫の方へと向かった。視線を感じるが今ならまだ間に合う。
笛の音だけでわかることには当然限りがある。彼らはまだ脱獄を知らないだろうし、そもそも自分の国の王女殿下が牢に放り込まれていたことすら知っているかも怪しい。だから今なら間に合うのだ。
武器庫の近くまでやってきて、リーザはその陰に身を隠した。まだ城壁まで距離があるが、依然人は増え続けていて、ひとまず人目を避けるために建物の中に滑りこんだ。
「中を通って、向こうの扉から出れば目につかないはず……」
薄暗くて障害物だらけの倉庫を手探りで進んでいく。最初は蹴躓いたりもしたが、だんだんと目が慣れてきて中の様子がよく分かる。武器庫とはいってもただの倉庫のようなものらしく、大したものは置かれていなかった。
長いスカートをたくしあげながら小箱を乗り越えて、近くにあった箱の中を漁る。高い位置にある窓からは時々星の光が差し込んできて、リーザの手元を照らした。ふと上を見上げたとき、鐘の音が耳の奥で反響した。
「王女殿下が逃走中! 見つけ次第捕縛! 繰り返す、王女殿下が――――」
伝令がここまでうっすらと聞こえてくる。情報はあまりにも端的だが、全員の知るところになっていよいよ動きづらくなった。
「ここに隠れたのは案外正解だったかも」
少なくとも無策でうろつくよりはマシだった、と自分に言い聞かせる。もう少しで向かいの扉だ。リーザは足音を殺しながらそっと歩み寄る。しかしリーザがたどり着くよりも早く、扉は一人でに開いた。
「……!」
「っ、誰だ!」
身を隠すだけの時間もなかった。リーザは背を向けてすぐに闇にまぎれようとするが、腕を掴まれてしまう。やられた、と思うがもう遅い。腕を引かれて力づくに振り向かされる。無造作に結った長い髪がばさりとなびく。
「お前、こんなところで何を――――」
目と目が合って、男は言いかけのままで固まった。
「王女殿下……?」
ぽつりと呟いた彼は、数舜呆けたようにリーザを見つめ、それからはっと我に返ったように扉の向こうへと顔を向けた。人を呼ぶつもりなのだとわかって、リーザの身体はさっと冷え切る。
「離して!」
リーザは勢いよく腕を振って強引に拘束を解いた。思い切り突き飛ばし、距離を取り、そして近くに置いてあった剣を掴みとった。鞘からは抜かずに突きの形に構えて、大きく足を踏み出す。
不意をついたとはいえ単調な攻撃だ。寸前のところで防がれてしまって、男も同じように鞘から抜かないまま剣を構えた。
「王女殿下、手を下ろしてください。わたくしと戻りましょう」
「駄目よ、それはできないの」
「きっとこの戦争でお疲れになってしまったのでしょう。ですがそれもいつかは終わること。ですから、どうかお戻りになってください」
男はそっと手を伸ばしてきた。不慣れで不格好なそれに、しかしリーザはゆるく首を振る。
「ごめんなさい。私はもうこれ以上、あなたの力にはなれない……」
男が懐に手を伸ばした。警笛を取り出すつもりだ。リーザは剣を斜めに返し、下から斬り上げるようにして男の手を止めた。
「っ、王女!」
男はまだどうしていいものか迷っている。彼の激しい動揺はリーザにとっては幸運だ。リーザは一方的に攻撃をしかけた。手を止めたら終わりだ。声を上げさせず、警笛にも触れさせない。
リーザは剣を構えなおしながら唇を小さく動かした。
「アイル、エ、アド――――」
脇腹を狙って突き、それが受け流されてつんのめる。態勢が崩れたところに足払いをくらって、リーザの身体は前に倒れていった。
「失礼いたします!」
腕を掴まれて、リーザの身体は受け止められた。さすがに床で顔を殴打させるわけにはいかないと思ったのだろう。リーザが顔を上げると、男はやや緊張した面持ちでリーザを見返していた。
「俺の勝ちです。さあ、お部屋に戻りましょう」
不器用に微笑んだ彼はきっと悪い人ではないとわかっていた。それでもここで決意を鈍らればすべて水の泡だ。
「いいえ、勝つのは私よ」
リーザは静かに目を閉じ、残った数小節を唱え上げた。
「――――リューズ、イリス、ア、ルシ、アリシエラ」
瞬間、二人の間で光が炸裂した。
「あ――――」
リーザが最初に覚えたのはこの照明魔術だった。ただ光を出すだけの単純な魔術だが、これを戦闘に応用できると教えたのはアリスティドだった。だがリーザ自身試したのはこれが初めてで、目は閉じているのに瞼の向こうが真っ白になる。軽い眩暈を覚えて、あれをまともに食らったなら、しばらくは目も頭もまともに働かないだろう。
「く、そ……!」
事実、男は目を押さえたままずるずると崩れ落ちた。
「い、ぐ……」
「最初から正攻法で勝てるなんて思っていなかったの。ごめんなさい。つらいでしょうけれど失明はしていないはずだから安心して。でも視力が戻るまでは無理に動いちゃ駄目よ、怪我をしてしまうから」
「あ、お待ち、くださ……」
リーザは彼の服の中から警笛を取り出し、近くにあった短剣をスカートの内側に仕込むと、すぐに扉に駆け寄った。
一度だけ振り返って、目元を押さえる彼の無事を祈ってから背を向けた。




