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第32話 どちらかしか選べない


 リーザが目を覚ましたのは腹のあたりに何かが当たったからだった。コツコツと突かれるような刺激は痛くなかったけれどわずらわしさがあった。


「ねえ、なあに……」


 リーザはゆっくりと身体を起こした。見張りはしゃがんだまま鉄格子の隙間から槍を差し入れリーザをつついていたのだった。


「何するのよ」

「そんなにカリカリしないでください。起こしてさしあげただけです」

「今起きたってなんにもできないのよ、私」

「それでも、さようならの挨拶くらいはできるでしょう?」


 リーザが首を傾げ、それから一気に青ざめた。さよならの挨拶――――ついに時間が来たのだと思った。けれど見張りは「想像なさっているようなことではありませんよ」と笑って立ち上がる。右足で軽く床を叩くと大きくのびをした。


「紛らわしい言い方をして申し訳ありません。ただ、慌ただしくなる前に一つか二つ尋ねておきたいことがあります。私の愚問をお許しいただけますか、王女様?」


 見張りは今日も変わらず飄々と言葉を紡ぐ。笑みを浮かべてはいるがどうにも張り付けられただけのようにしか見えなくて、リーザは軽く睨みつけた。


「……ちょっと、あなたばっかりずるいわ。私だって聞きたいことは山ほどあるのに、あなたはちっとも答えてくれなかったじゃない」

「王女を思いやった結果なんですから拗ねないでください。知らない方がいいことだってこの世にあるんですから。……それに遠からず答えに行きつくはずです、きっとね」

「?」

「それで、質問を聞き入れてくださるんですか?」


 リーザは少し考えてからゆるく頷いた。拒否するだけの理由はないし、この女が知りたがっているものに興味があった。


「いいでしょう。言ってみなさい」

「ありがとうございます」


 見張りはリーザの目の前に立つ。錆びた鉄格子を挟んで両目があう。リーザの瞳の底を覗き込むようにじっと見つめながら、彼女は唇を動かして囁いた。


「あなた様は今、二つのものを天秤にかけているのでしょう。そしてその両方を選び取ることはできないこともわかっている。……あなたはどうして生きて逃げることを選んだのですか?」


 リーザははっと両目を見開いた。見開いたが、すぐにゆっくりと息を吐きだして動揺を押し隠した。


「……あなた、本当にただの見張り? 私のことをどこまで知っているの?」

「さあ」

「またはぐらかすのね」


 リーザは少しだけ口角をあげた。


「いいわ、答えてあげる」


 見張りは何かを期待するようにかすかに首を傾ける。耳にかけられていた栗色の髪が零れ落ちて、さらりと揺れる。リーザは鉄格子に軽く触れた。


「どちらも大切だった。だからどちらも守りたかった。それができないってわかったとき、私は、せめて人間でありたいと思ったのよ」

「人間?」

「そう、人間。私はずっと、それこそ生まれたときから道具でしかなかったの。誰かのために使われるだけの人生だった。本当はとても悲しかったけれど、それを否定してくれる人なんてほんの少ししかいなかった。私はたくさんの人に道具であることを望まれていた」

「悲劇的ですね」

「それでもあの男は、私に足掻けって言ったのよ」


 リーザの指が鉄格子を伝っていく。


「無駄だって思ってた。そんなことをしたって何かが変わるわけじゃない。でもアリスティはそれを面白いって言った! 面白いって、ふざけてるでしょ。ふざけてるわ。でも私はあの一言に救われたのよ、本当に。私だって自分のために生きていたいし、それを願ったっていいって、初めて思えた」


 鉄格子をぎゅっと握りしめる。


「だから私は選んだのよ。それがどれだけ残酷なことかなんて知っているわ。それでも私、片方だけを選んだの」


 見張りは満足そうに口の端を吊り上げた。


「ああ、素敵ですね――――“あの頃”のあなたならきっと死を選んでいただろうに、今は自分の心に正直だ。それは恋のなせる業ですか?」

「いいえ。誰かの愛に応えてみたいだけ!」


 リーザがにっと笑うと、彼女はますます嬉しそうに唇を歪めた。


「いいでしょう。あれとの契約のこともありますし、私も少しはあなたの残酷な願望に力添えしましょう。そろそろ頃合いでしょうね――――」


 彼女は身体に立てかけていただけの槍を手に取ると、いつものようにくるくると回し手になじむのを確かめる。それから両手で柔く握り、切っ先を石廊下の奥へと向けた――――まるで敵でも見たように鋭く。


 リーザはびっくりして、何をしているのと尋ねた。満足できるような返事はなくて、見張りはにっと口角を上げるだけった。


「ああ、目を閉じていたほうがいいですよ」


 彼女は横目で笑いかける。


「荒事なんてお嫌いでしょう?」


 リーザは「え」と声を出したがすぐに目を見開いた。石の床からかすかな振動を感じたのだ。遠くから物音もした。それはだんだんと近づいてくる。リーザは鉄格子に身体をくっつけるようにして廊下を見た。鉄の臭いが鼻についた。


 石がむき出しの廊下には明かりが少ない。すぐそこですら真っ暗闇だ。けれど何かいることだけは分かっていた。リーザはじいっと見つめ続ける。闇がゆらりと揺れる。それは人の形だったのかもしれない。


「はッ――――!」


 一声と一閃。リーザには何も見えなくて目を白黒させるばかりだ。気づけば槍を盾のようにして歯を食いしばる彼女と、それを上から押さえつけるように体重をかける男がいた。


 彼女は唇を動かした。やはりルーディア語だ。そのほとんどが聞き覚えのないものだったが、そのいくつかを耳が拾った。古語だった。たちこめる膨大な魔力に背筋がぞくぞくとする。この感覚をリーザは知っている。


「小細工すんじゃねえよ!」


 男は右足を振り上げると、勢いよく蹴り飛ばした。見張りが声をあげて倒れたので、すかさず追撃した。松明の光が一瞬男を照らす――――ウィリアムが剣をきらめかせた。


「待って、ウィル、殺しちゃ――――!」


 とっさに叫べば、彼の切っ先がピクリと揺れた。見張りはその隙を見逃さなかった。


「――――!」


 詠唱がすべて終わる。彼女の姿が霧のように消え失せる。ウィリアムは勢いのまま床に倒れこんで大きな音を立てた。


 リーザは鉄格子を掴みながら言葉を失っていた――――ふわりと、かすかな残り香を感じたのだ。花でも香水でもない、けれど眩暈がしそうなほどよい香り。嘘、とリーザは呟いた。


「そんな」


 彼女と“あの女”とは似ても似つかぬ顔だった。髪も目も違う色だった。あの女は城の牢にいるはずで、そして何が狂ってもリーザを助けるような真似は――――。


「なんだ⁉ どこ行った⁉」


 ウィリアムは跳ね起きてあたりを見回したが遅かった。彼もそれが分かったのか、剣先を下ろしばっと振り向いた。リーザの名を呼びながら鉄格子に駆け寄ってくるのでリーザも同じように彼の名を口にした。


「ウィル、鍵が……!」

「壊す!」


 ウィリアムは剣を逆さまにして柄頭で錠前を叩いた。数回勢いよく振り下ろせば鉄の塊が床に落ち、扉は音を立てながら開く。リーザは転がり出るようにしてウィリアムにしがみついた。


「ウィル――――このばか! ばか!」

「なんで罵倒されてるんだよ、俺!」

「危ないことするからでしょう!」


 リーザはウィリアムを見上げた。その不服そうな黒い瞳を見つめる。彼は気まずそうに顔をそらすがここで止まるリーザではない。


「私、あなたのことだってとても大切だって言ったじゃない! あなたに何かあったら私、どうしたらいいか分からなくなる! なのにウィルはどうして無茶ばかり――――」


 ウィリアムはむっとした顔で手を伸ばし、リーザの口を塞いだ。むぐ、と間抜けな声が出てリーザはますます腹が立った。引きはがして、ついでに彼の胸のあたりを殴った。


「私、本気で言ってるのよ!」


 彼は分かった、分かったから、と繰り返す。


「悪かったって。ちょっとだけ無茶したし考えなしだった。でもちゃんと助けに来たんだから少しは許してくれよ!」

「それは嬉しいけれど、話が別なの!」


 一歩も譲ろうとしないリーザにウィリアムは髪をガシガシとかき乱した。それからリーザの手首を掴んで駆けだした。リーザはつられて足を動かした。


「ね、ちょっと、待って!」


 リーザは必死になって足を出した。そうしないと転んでしまう。足元も見えないほどの暗がりでは、引かれる手だけがすべてだった。


「ウィル、どこへ――――」

「地上! とにかくここを出ないと」

「道、分かるの」

「牢まで連れていかれるときに覚えたから」


 二人は長い階段を駆け上がった。彼の言葉は本当のようで、その足は迷うことなく道を選んだ。リーザは息を切らしながらついていくだけだった。


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