第19話 美しい魔女(2)
先にリーザが腰かけたのを見てエヴァも椅子を引いた。リーザの真後ろに立つウィリアムにも会釈する彼女は立派な淑女であった。
リーザは角砂糖のポットを引き寄せ、中から一つをつまみ上げた。ふたを閉めポットをエヴァの方へ押し出せば、彼女は三つ取り出して紅茶に沈めた。
「クワイエルさんは甘い紅茶が好きなの?」
何気なく声をかければ、彼女は恥ずかしそうにはにかむ。
「ええ……子供のころからやめられなくて」
口元を指先で覆うが頬がうっすらと赤くなっているのが見える。初めて彼女に命が灯ったような気がしてリーザは思わずほっとしてしまった。彼女はやはり人間なのだ――――それがたまたま美しすぎただけで彼女はちゃんと生きている。
心の内を悟られないよう自然な動作で紅茶を口にした。エヴァもカップに手を伸ばし、それから思い出したかのようにリーザを見た。
「殿下、わたくしのことはどうぞエヴァとお呼びください」
「いいの?」
「ええ、もちろん。わたくし、殿下とは良い関係を築ければと思っております」
エヴァは純真な少女のように胸の前で指を組む。それから二人は取り留めのない世間話ばかりを交わした。リーザは終始にこやかに頷きつつ彼女を観察していた。
エヴァの年齢は聞いていないが、見た感じ二十代前半といったところだ。清楚とも妖艶ともとれる不思議な雰囲気をまとう彼女はゆっくりとカップに口づける。
リーザはじっと見つめる――――陶器のような肌に赤い瞳が輝いていた。吸い込まれてしまいそうなほど魅惑的で、ぞっとするほど艶やかな色だ。そして薄く色づく唇はまさしく乙女のものだった。同じ女性のリーザですら視線を奪われてしまうのだから恐ろしい。慌てて目を逸らし髪を見遣った。真っ白なそれは絹糸のようで、天井から降り注ぐ光に照らされ、眩いまでにきらめいた。
――――彼女の美しさは暴力的だ、とリーザは思う。
彼女を一目見れば否応なしに引きずり込まれてしまうのだ。たとえ彼女がそれを望んでいなくとも心惹かれてしまう。人のものとは思えない美貌には、やはり“黒魔女”の名がふさわしい。リーザの視線に気が付いたのかエヴァが気恥ずかしそうに俯いた。
「あ……ごめんなさい」
「いえ、いえ、大丈夫です。ただあんまりじっと見るものですから緊張してしまって……。何かおかしなところでもありました? このような場に出るのは初めてですから、分からないことも多くて」
エヴァは不安げに問いかける。リーザは申し訳なさを感じながらゆるく首を振った。「あなたが綺麗すぎるから」という一言は心にとどめておくことにした。
少し気まずくなってしまったのをどうにかしたくて、リーザは軽く手を叩いた。
「ああ、そうだ! せっかくだからエヴァさんの魔術を見せてほしいの」
「わたくしの、ですか?」
「ええ。駄目だった?」
「いえ、そんなことはありませんよ。少し驚いてしまっただけです。殿下は魔術に興味がおありなのですか?」
頷くと、エヴァは嬉しそうに目を細めた。
「魔術師の一人として嬉しい限りです。お近づきの印に何か披露させていただきますね。殿下に喜んでいただけるような魔術――――そうですね、こういうものはいかかでしょう」
エヴァはティーカップをテーブルに置くと軽く呼吸を整えた。魔術を使う前の下準備だ。その姿はアリスティドを思い出させた――――が、何かが違う。
次の瞬間、リーザは目を見開いていた。
身体の奥がひどくざわついた。心臓がドクドクと高鳴り、背筋を駆け上がってくるような何かに鳥肌が立つ。全身がピリピリと痛んだ。
「……っ!?」
今までにない感覚に震えが止まらない。勢いよく振り返ってウィリアムを見れば彼は平然とした顔で立っていた。それどころかリーザの挙動に首を傾げている。どうして――――リーザは焦るように思考を巡らせるがすぐに分かった。エヴァの魔力に影響を受けているのだ。
「イル、エルイド、アビ、エーリア……」
彼女は朗々と唱え上げてる。その間にもリーザの底なしの魔力が応えるように高ぶった。いても立ってもいられないくらい血が熱くて、瞬きを繰り返した。
他人の魔力に触れるのはこれが初めてではない――――神殿にはたくさんの魔術師がいるし、アリスティドだって普段は自分の魔力を使うのだ。いつだって魔力を感じた。それでもここまで激しい反応は示さなかった。
人間離れしているのは美貌だけではない。エヴァは息さえ乱さず楽しげに魔力を振りまいている。ぞっとするには十分だ。リーザが両手を握りしめたとき、ほのかに甘く上品な香りが鼻をくすぐった。
「何、これ……花?」
ぽつりと呟けば、エヴァが笑みを浮かべた。
「どうぞ、ご覧ください」
両手を広げて示している。つられるように周囲を見回した。目に映る光景に息を呑む。庭園中の花がすべて咲いているのだ。ぬくもりが足らず蕾のままだったものまで残らずすべて。驚きのあまり目をこするが幻ではなかった。
「すごい――――こんな魔術、見たことない」
しばらく放心していたがふと我に返る。リーザは身を乗り出した。
「すごい、エヴァさん! あなたって本当に優秀な魔術師なのね! すごいわ!」
「ありがとうございます。せっかくの機会ですから、わたくしの知る呪術を応用し、花の眠りを妨げました。効果は一日きりですが……喜んでいただけたようで何よりです」
エヴァは照れ隠しのように紅茶を一口流しこんだ。少し頬を赤らめているのがやはり愛らしかった。
リーザが話を切り出そうとしたのと同時に、時計塔の鐘の音が鳴り響いた。二人はふと城の方に視線を移し、それからまた視線を交えた。エヴァは困ったように目尻を下げた。
「もう少し殿下とお話していたかったのですが、わたくし、これからディラック様にお会いする約束がありまして……」
エヴァは俯きがちに申し出た。そんなことはとうに知っていたが、リーザは何でもないように「そうだったのね」と相槌を打つ。
「アリスティは時間に厳しいから……早く行かなくちゃね」
リーザは残りの紅茶を飲み干すと先に立ち上がった。その時軽く足がもつれて、軽く椅子にぶつけた。脛のあたりがじんわりと痛む。こんなことで動揺してしまう自分が情けなかった。
「エヴァさん、今日はありがとう。とても楽しかった。またお茶をしましょうね」
「こちらこそ、良い時間をありがとうございました。それではお先に失礼します」
エヴァは深々と礼をしてから歩き始めた。リーザの隣を通り過ぎたとき、ふと残り香が漂った。
「あ――――」
香水とも花の香りとも違うそれ。一瞬で心を攫われたリーザは瞳をとろけさせる。爪先から痺れてしまいそうになるほど心地よくてぼんやりと立ち尽くした。もっと、と思うのに彼女の背中は遠ざかっていくばかりだ。深紫のドレスに手を伸ばして――――。
「おい、リーザ。聞いてるのか、リーザ」
ウィリアムに肩を揺さぶられて、はっと気が付いた。彼は唇を尖らせていた。
「ご、ごめん。何の話だった?」
「だから、俺らも早く出るぞ。晩餐会の準備もあるんだからのんびりしてられねえよ」
「ああ、そっか、そうだね……」
適当に頷けば、むっとした顔のウィリアムは背を向けて歩き出す。どうやら生返事が面白くなかったらしい。リーザは彼の背を追った。もくもくと足を動かしながらも静かに考え込んでいた。
「あの香り、どこかで……」
心当たりを順番に上げていく。いくつめかで、リーザは足を止めた。
――――いつだったか、城で見知らぬ女とすれ違ったことがある。漆黒のドレスを身に着けた白髪の女だ。彼女も同じ香りをまとっていた。眩暈がするほど良い香りだった。顔は見ていないけれど間違いはない。あれはエヴァだ。
「そっか、あれはアリスティに会いに……」
ひとり言を零せばウィリアムが怪訝な顔つきのまま振り返った。「何でもないの」と言えば、おかしなものを見るような目で首を傾げたので、リーザは苦笑いする。
「気づかないうちにいろいろ始まっていたんだなあって話」
城を見上げて図書館を探す。カーテンさえしまったその部屋で何を話すのだろうと考えてみたりもするが、いつまでも正解が出ない。堂々巡りに嫌気がさしたリーザはふいと視線を外しまた歩き出した。ドレスにはいつまでも花の香りが残っていた。