密命(1)
オイルランプの灯る一室に、男がひどくむせ込む声を響かせた。反射的に前かがみになった時に、縫合した左腕の傷口が動いて痛みが走り、顔も苦悶に歪む。
何度も咳をして、その後呼吸を整え、落ち着いたところでため息を一つ。手にしていたそれを机上に置く。――やはり、苦手だ。と。
暗い明かりに浮かぶそれは、パイプ。昔、社交のためにあつらえたが、結局ほとんど使わないまま。
対して、親友だった男は違った。常に喫煙具を携行していた。考えごとをするとき、書き物をするとき、楽にくつろぐとき、いつでもパイプ片手にする姿が目に焼き付いている。
それなのに。あの日訪ねた彼の書斎には、パイプが無かった。机上にはペンやインク壺など他の物は綺麗に並んでいた。だが、同じく必需品である喫煙具は部屋のどこにもなかったのだ。人に訊いても、見かけた記憶はないと。死体と一緒に埋葬したということもないらしい。
まさかとは思うが、もしかしたら。男は疑念を抱いた。可能性のひとつで裏付けるものは無い。口にしたところで、想像力の高さを笑われるだけだろう。
ただ。あの彼が騙し合い化かし合いを得意としていたのも、男はよく知っていた。死を忌避する言葉を放つのを、何度も聞いた。
あいつは、生きているのではないか。とんでもないことを企んでいるのではないか。男が抱いた予感は、流転する状況を見ている内に確信へと変わっていた。
しからば、手をこまねいているわけにはいかない。男は決意と共に、人を待っていた。
応接間の扉が叩かれる。客人が来たか、そう思って立ち、こちらから迎え入れようと。しかし、扉を開けた向こうに居たのは、灯りを下げた使用人ひとり。
「お客様がいらっしゃっているのですが」
「そう伝えてあっただろう。何も言わずにここへ通してくれと」
「ですが、あの、あまりにも怪しい男で……」
「だったらなおさら私の客に違いない。すぐに連れてきてやってくれ」
「必要ないですよ。ここにいますから」
突然会話へわり入って来た声の主は、宣言通り、使用人の後へ続くように暗闇から姿を現した。
私の客だ、先にはそう言ったが、一瞬自分でも疑ってしまった。飾り気のない漆黒の衣に身を包んだ、黒く長い髪の男。細長い布を斜めに渡し、左目を覆い隠している。そんな風貌の知り合いは居ない、少なくとも今宵の客人の普段とはかけ離れた姿だ。
当人は怪しげな変装に一切言及することなく、いつもの尊大な態度と口調でまくしたてた。
「お招きありがとうございます、ブロケードさん。ご相談とは何でしょう。あなたの狡猾なご友人のことですか? もしくは私の上官、あなたの愛しの奥方様についてですか? それとも身の程知らずの欲望の権化を戒めろと? あるいは、このお屋敷で飼い殺しにしている化け物の処遇にお困りでしょうか。どうぞ、私はなんでも承るつもりで参りました」
挑戦的な笑みが常ながら気に障る。おまけに得体の知れない異能、世間の予想通り、絶対に相いれることはない存在だ。
だからこそ手を組もうと考えた。相手の読めない手札を切る、策士を破るには欠かせないことだ。
蒼白になっている使用人には「他言無用」と告げ、扉を閉めた。
Chapter 5:亜人の頂
中央諸島の太陽は熱い。顔に照り付ける陽ざしに目を細め、ナターシャはじわじわと汗がにじむのを肌で感じた。
ただし、暑さ由来とは違う、嫌な汗である。
この日はヴェルムと二人で、ワイテの娘夫婦が暮らす島に来ていた。中枢宮殿がある大島からは、順風満帆でも一日半かかる距離にある、農業が盛んなのどかな島だ。目的の家も農園主である。
ここには何もないだろうな。段々畑が連なる島に上陸した瞬間、空気で悟った。
そして案の定、目的の屋敷を捜索しても何も出てこなかった。娘夫婦、さらにはその子どもに訊いても、ワイテに悪の気配はないと言う。軍人だから時には厳しい一面もみせるが、根は優しくよい人だ、犯罪者であるなんてありえない、と。
長居は無用、そう判断して退散したのであった。
今はその帰路。土が踏み固められた道をいき、港を間近にしたところで、不意にヴェルムが密やかな声を発した。
「つけられている。二人だ。……振り向くな、このまま前見て歩け」
忠告に従って首を元の位置に戻し、止まりかけていた足を急ぎ動かす。
耳をすませば、なるほど、つかず離れずの足音が後ろから聞こえる。意識すれば、視線が刺さっているのもわかるような。粘っこくも冷たい汗がにじみだした。
ワイテの息がかかった人間だろうとは容易に予想がつく。尾行が監視のためだけならば、さして問題はない。だが、その手になんらかの凶器が握られている可能性もある。
確かめる必要はあるだろう。ナターシャは意を決した。
「ねえヴェルム。あたし囮になるから、そいつらやっつけてよ」
「またそういう無茶しやがる」
「このまま船に乗るのも嫌でしょ。海の真ん中に沈められたらどうすんのよ」
「まったく……わかった、任せろ」
ナターシャは即座に動いた。急に思い立って、と言う風にぴたと足を止め、自然な声を張り上げる。
「ごめん、ヴェルム。あたし、さっきの家に忘れ物してきた。取って来るから、先に港まで行ってて!」
そして踵を返して、小走りに駆け始める。後ろではヴェルムが歩き出す足音もした。
急に振り返ったことは、追手の不意をつくことにもつながった。二人の男が虚をつかれた顔で、たたらを踏むように足取りを止めた。
二人とも衣服は農民風につくっている。しかし、農夫にしては日に焼けていない、特に露出している腕の白さが際立つ。また、深く被っている山高帽も、服に比べるとかなり上等なものであり、ちぐはぐな印象がいなめない。
ナターシャはなにも気づいていないふりをして、男たちと距離を縮めていく。
向こうも怪しまれていないとほくそ笑んだか、歩みを再開した。なにげなく懐に手をやったのは、武器を取り出すためだろうか。
このまま十歩も進めば接触する。おそらくは、すれ違いざまに仕留めるつもりなのだろう。間が近づくにつれ、漏れ出る殺気が強くなった。
そこでナターシャは急停止した。ちょうど右手側に小屋がある、それを視界の端にとらえつつ、男たちを見た。
「あんたたち……農民じゃ、ない?」
正体がばれた。そうなったとき、暗殺者はどうするか。失敗したとみなして逃げ出すか。いいや、こんなに手の届く距離まで来ているのだ、それならきっと。
ナターシャの思惑通り、男たちは強攻を選んだらしい。共に思い切り地面を蹴って、襲い掛かって来る。
ナターシャは甲高い悲鳴を上げて、全力で小屋の方へと駆けた。そのまま壁沿いに周り、ちょうど道の裏側へ。
当然、男たちは追ってくる。ご丁寧に挟み撃ちだ。威嚇するように刃物をちらつかせている。
ナターシャは背を壁に預け、その場にしゃがみこんだ。怯えるように自分を抱き、右を、左を、交互に見る。
「お願いです、助けてください。なんでもしますから、命だけは、どうか……」
喉の奥を締めて声を絞り出し、懇願する。さりげなく腕を持ち上げて、そこに乗っかっていた胸をわざと強調してみせた。
黙ってしとやかにしていれば、誰もが見惚れる美人なのである。男たちが色欲に目を眩ませた、ナターシャの計算通りに。
口元に嫌らしい笑みを浮かべながら、二人が迫って来る。どうせ殺すなら、その前に好き放題楽しんでもいいのではないか。おあつらえ向けに小屋がある、そこへ連れ込んで、などと下衆な相談を交わして、完全に意識がそちらへ向いてしまっている。
ここまで見事に釣られてくれるとは。ナターシャは内心で呆れ、暗殺者を見上げていた。
そして、聞き馴染みのある足音がすぐ近くに聞こえたことで、時間稼ぎは十分だと悟った。
とたんに借りてきた猫を投げ捨てて、思い切り本音をぶちまける。
「ばっかじゃないの、あんたたち」
男たちが驚きと怒りに顔を歪めた。
と、その横っ腹に強靭な飛び蹴りが突き刺さる。意識の外からの攻撃を軽減できるはずもなく、二人まとめて吹き飛び倒れた。
「無事か、ナターシャ」
「もちろん!」
応えながら自分も動く。重い蹴りを直接食らわせられた側の男は、まだ立ち上がれないで咳きこんでいる。その隙に、右手を踏みつけナイフを奪った。
背中をむけて逃げようとしたもう一人も、ヴェルムが捕まえる。首を腕で締め上げて、意識を落とし無力化した。
ナターシャは男の手を踏みつけたまま、しゃがみこんで詰問を浴びせた。
「誰に命令されて動いている」
「命令? はっ、オレたちゃ誰の命令も受けない気ままな狼さ」
「だったらどうしてあたしたちを殺しに来たわけ」
「おめえさんたちの首に、闇の世界で賞金がかけられてるんだ。赤い肌の大男と、黒に紫と白が混じったヘンテコな髪の男と、そのどっちかと一緒に居る赤毛の女とってな」
「誰が金を出すって?」
「さあ? 情報屋が流してくれた話が、そいつの顔も名前も知らねえからな。ましてその元締めなんて……や、やめろ! ほんとに、ほんとに知らねえって!」
蒼白な男の言葉を聞いて、ナターシャは金玉を叩きつぶそうと準備した拳を引っ込めた。
たとえその情報屋とやらを捕まえても、大本の人物まではたどり着けないように仕組んであるだろう。バダ・クライカ・イオニアンのやり口から自明なことだ。
「……露骨な手を使いはじめたってことは、焦ってるってことかしら」
「いいや。それならこんな小物をあてにせず、もっと確実な方法をとるだろう。いくらでも手駒があるんだからな」
「ほんの戯れで死んでくれたら儲けもの、ってわけ。頭くるわ、本当に」
「もしくは、あの爺さんと別の誰かが勝手にやってることか」
「別、か」
ナターシャが思い浮かべたのは、ライゾット=ソラーのこと。彼が生存する可能性を、まだヴェルムには知らせていない。どこに誰の耳があるかわからず、秘密が保証されない中で手札を晒すわけにいかないからだ。
やらなねばならないことはたくさんある、こんなところで遊んでいる暇はない。
中枢に戻ろう。捕えた男たちはヴェルムが脇に抱えて、二人は港へ急いだ。
暴漢たちは島の警察として屯している治安小隊に引き渡し、ナターシャたちは出帆目前だった小型帆船に飛びこみで乗せてもらった。これで隣の島に行き、そこからはナコラ港への定期船に乗る。ワイテの息がかかっていることを考え、往路でも政府所有船は使わなかった。
気は急いても、船足はこちらでどうすることができない。ナターシャは甲板で飛沫を肌に感じながら、ぼんやり海を眺めていた。隣にはヴェルムが、逆方向へむいて立っている。
「……局長は無事よね、きっと」
「がちがちに監督されてるわけだから、逆にこっちより安全かもな」
ディニアスの処遇について、ナターシャたちが聞き及んでいるのはこうだ。
まずは更生のために三日間、各種長官より教育指導が与えられる。終了後は当面の間、ミリア=ロクシア異能省統括の監督下で、局内の業務を行う。ただし単独での行動は禁止、常に監査員が同行する。また宮殿外への外出も同じく禁止。
ここで何らかの問題行動がみられた場合は、中枢政務官として不適格と見なされ、追放されることになるそうだ。そうなれば、危険思想を持つ異能者として逮捕されることになるだろう。これまでの横暴は、肩書きがあるから許されていた部分もおおいにある。
「寛大な処置よね。あれだけ派手にやっちゃったんだから、すぐに収容所送りになると思ってた」
「殺した相手が異能だったからだろ。しかも、戦闘力が高い危険な裏切り者を」
「……そっか」
人ならざる力を持つ者は人にあらず、人の法にて守られるべき存在でなし。ギベルを殺したこと自体は罪に数えられない、犯罪者でないものを牢獄に放り込むこともできない、そういうことだ。審問会の論点は、ディニアスが政府中枢長官として適格なものだったかどうか、それだけだったに違いない。
「しかし誰もかばってやらねえとはな。ギベルも哀れなやつだ、同情するぜ」
ヴェルムがぽつりと呟いた心情は、ナターシャにもなんとなく理解できた。
ただ、表だって肯定することはためらわれた。
ナターシャは口を閉ざし、うねる波音を聞いていた。船が大きく揺れる。今日の海は少々、荒々しい。




