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理想の陰(3)

 バダ・クライカ・イオニアンとは。暴風吹き荒れる最中、ナターシャは脳中で問答していた。燃え盛っていた憤怒を他に預け、己は初心に立ち返るべく。


 バダ・クライカ・イオニアンとは何か。世間から差別を受ける亜人族およびアビリスタらが、己らの尊厳を叫ぶために生まれた宗教だ。


 人間の主権を否定し、それを許すイオニアンの神ルクノールを否定する。ゆえに「神殺し」の罪を背負い、かの神に背く使徒エスドアを祭り上げ、その御旗のもとに集い、宿命に抗わんとする者たちだ。


 イオニアンの真なる子、自らのことをそう称し、暴威を奮ってでも己らが虐げられない世を作り上げようとする過激な組織だ。


 数多の罪を犯し、数多の人間を傷つけ、しかしひたすらに己らが理想の世を求める。それがバダ・クライカ・イオニアンという異能教団の狙いだ。世間ではそう認識されてきたし、ナターシャもそう理解していた。


 しかし、その陰を追った先にあったのは。亜人の世、異能の世、そう理想を謳う陰で、同じく亜人たる人魚へ非道がなされていた。陸に揚げ拘束し暴行を加え、ただ金と同義の「夢」を生むだけの家畜として扱っていた。それが現実、ナターシャが暴いた真実だった。


 分からない。果たして、自分が追ってきたものは何だったのか。地上を陥れるためバダ・クライカ・イオニアンに加担している、悪意に支配された同族、そんなもの最初から存在しなかったのだ。与えられた情報から手前勝手抱いた幻想を信じ込み、熱心に踊り狂った、滑稽な話である。


 夢が解け闇の中に放り出された気分だ。どこに進めばいいのか、何を信じればいいのか、行先を見失い、戸惑い、途方に暮れる。ナターシャは昔も一度、似たような気分になったことがあった。地上に果てしない夢を抱き出でて、かけ離れた亜人に対する容赦のない現実を知り、心砕かれた若かりし時。


 ――どうすればいいだろうか、どうすべきなのだろうか。昔時も必死で考えた、残酷な現実をも生き抜くために。


 では今、バダ・クライカの真実を目の当たりにして、力無き自分に何が出来るだろうか。総監局として、あるいは人魚族のともがらとして出来ること。あるいは、やるべきこと。


 そんなもの一つだ。事件の被害者として、なおかつ同族の仲間として、囚われた娘たちを保護することである。


 そして洞窟に激震が走った。岩肌の脆くなった各所から小石が剥がれ落ち、それから静かな間がやって来る。その後、ヴェルムの重低な吐露が届いた。向こうはけりがついたらしい。


 出てきて良いとは言われていないが、漂う雰囲気からして、もう行っても噛みつかれることはないだろう。ナターシャはもらい受けた大判の上着を腕に引っかけ、物陰より歩み出でた。


 ナターシャの足音に、まずはセレンが素早く振り向いた。怜悧な瞳は特別な感情を示していない、起立して次の指示を待っている、そういった印象だ。


 さらに奥でヴェルムも振り返った。わずかに開いた口からは未だ憤怒の混ざる荒い息を漏らしていたが、ナターシャと視線が合うと、彼の鳶の目にはむしろ悲哀の色が濃くにじんだ。


 三者とも言葉を発しない、隅で拘束されている二人の人魚も呆気にとられたように言葉を失い、ただ波の音だけがうなり声を上げている。その中をナターシャは早足で歩み、地面に伏せっている金髪の娘のもとへ身を寄せた。


 憔悴した体をかき抱くように助け起こす。外見を人間換算すると十八ほど、ナターシャより二回りは若い娘だ。活力に満ち溢れている年頃のはずなのだが、こうして触れても身じろぎ一つしない。散瞳した眼は何を見ることも無く、一切の光も失われている。半開きなった口から漏れる息遣いが、唯一、彼女の命の灯火が尽きていないことを示していた。


 やりきれなさを覚えながらも外には放たず、ナターシャは黙ったまま、携えていたヴェルムの上着を娘の肩に引っかけた。地上の衣服は気に入らなかろうが、まさか裸のまま放置できるはずもない。ただ、ちゃんと着せてやるには、手首に拘束する魔封じの枷が邪魔だった。


 この枷はアビリスタの犯罪者を捕え処罰するために、政府中枢は異能研究局で開発された物品だ。なぜそれがここにあるのかとうい疑問はさておくとして、本来の用途からすれば非常に優秀な代物である。素材の黒石は触れた魔力を吸い上げ蓄える力を持っており、身にしていればアビラが使えないのみならず、何もしていなくても徐々に力を奪っていくのだ。


 優秀な道具は、裏の立場になると非常に厄介な物品とも言える。特に亜人にとって種族固有のアビラと魔力は、生命力と尊厳に直結するものだ。単なる拘束具として以上に、囚われ人を苦しめる。


 だから先ずは解放しなければならない。ナターシャはセレンに介抱を代わることを促すと、立ち上がって、どこかにしまってあるだろう手枷の鍵を探しに行った。


「なんだナターシャ?」

「鍵を……枷を解くの。海の力に触れられれば、少しは楽になるはずだから……」

「あァ、なるほどな。あの鎖ぐらいなら、引きちぎれるが」

「お願い。少しでも……」


 ヴェルムはズボンの裾を引きちぎった布で、刀傷の応急手当をしていたが、ナターシャに請われて立ち上がった。歩む足取りには傷んでいる気色など全くなく、力強さがあふれている。


 と、その後ろ姿にセレンが声を投げかけた。

 

「お気をつけください。ひどく嫌な気が向いています」

「わかってら。そりゃあいつらにしてみりゃ、俺も同じだろうよ」


 なおかつ、改めて忠告されることでもなかった。拘束された二人の人魚は、ヴェルムの接近を察するなり、絹を裂くような金切声を上げ始めたのだ。激情と共に叫ばれる内容は、聞くに堪えないほど汚い地上の人に対する罵詈雑言。


 ただし向けられる男には伝わっていない。人魚族の言葉は、地上の民のそれとはまったく異なるものなのだ。平常の状態で発せられるのを人間が聞けば、単に鼻歌を唄っているように感じるだろう。


 だから人魚たちからの威嚇は、ヴェルムには単なる恐怖の叫びに聞こえた。申し訳なさそうに眉を下げながら、彼は首に巻きつく鎖に手をかけた。


 腕に噛みつかれるが、それには甘んじる。筋肉に目一杯力を込め、鎖を歪ませ引きちぎった。二人ともを続けて。


 一つ目の戒めから解放された人魚たちは、すぐさま肩を寄せ合った。


 ヴェルムは一歩分ほどの距離を置き、しゃがみこんだ目の高さはそのままに、優しい口ぶりで話しかけていた。政府で用いる公用語が通じないと見るや、東方亜人種の言語をも交えて。はてには片言の他言語をも飛び出させ、どうにかコミュニケーションをとろうと努力していた。


 一方、ナターシャも無事に鍵を見つけた。薬品棚に並んだ瓶の手前、すぐに取れるような位置に雑な置き方がされていた。「人魚の夢」を得るために、頻繁に枷を解く必要があったのだろう。おそらく薬で無理矢理眠らせて、鎖でつないだまま海水に漬けていたのではないか。そして目を覚ますころには再び陸に揚げ、反抗も逃亡も出来ないように処置する。反吐が出るような悪党の所業だ、想像してナターシャは憤慨した。


 鍵を掴むと足早に人魚のもとへ向かった。まずはセレンに預けて、壁に持たせられている、金色癖毛の娘。特に難しいことも無く、手枷は外れた。それでも彼女が反応を見せる様子はない。


 不安は残るものの、苦難にあるのは彼女一人ではない。身を返してヴェルムが相手をしている二人のもとへ向かった。


「おいナターシャ。だめだ、まるで言葉が通じん。どうなってるんだ?」

「それが普通よ。あたしが普通じゃなかっただけ」


 ナターシャは必死で地上の言葉を学んだのだ。海中に住む頃より、落ちた伝書や沈没船の積み荷をかき集め、文字のかたちを覚えた。時には夜に同族の目を忍んで浅瀬に上がり、船や酒場などから漏れ聞こえる声を聞き、自分の舌にフレーズを沁み込ませ。乳飲み子がやるように単語から頭に叩き込んだ。血のにじむような努力は、全て憧れの地上で生きるためのものだった。人間より持てる時間が多かったのは幸運と言える。


 当時のことをふっと思い出し、わずかに苦い笑いを浮かべる。よく考えればずいぶん無茶したものだと。


 ながらにナターシャは二人の枷を解き、そのまま対面に座った。立ち上がって去っていくヴェルムの代わりに割り込むようにして。


 地上に出てから何年経ったか。郷を離れて以来、同族と相見えるのは初めてだ。


 ナターシャは記憶を底から掘りかえすようにして人魚の言葉を思い出し、わずかに震える唇で声を紡いだ。


 舌はきちんと覚えていた。うねる潮のように、波の歌声のように、自然な響きが口から溢れる。


「地上の政府の者です。あなたたちに危害を加えるつもりはありません、あなたたちを捕えた罪人を裁きに来ました。あなたたちとは、対話を望みます」

「おまえ……どうしてわたしたちの言葉を話せる?」

「それは、あたしも人魚族だから。アムファシリェナの郷に生まれたヌアトゥラルスィヤ、地上に出た、あなたたちの同胞です」


 その言葉に、二人の人魚はこれ以上ないく程に目を見開き、隣同士顔を見合わせたのだった。

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