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理想の陰(1)

 岩壁に身を寄せ影を秘めるように足を進める。曲がり角の手前まで来ると、奥から滲む気配が確実にかぎ取れた。


 地を壁を照らす寒々とした白い光は、間違いなく光源石によるものだろう。風も確かに頬を撫でる。さしずめ島の崖に岩窟があり、引き込まれた海が地下の空洞で入り江のようなものを形成しているのだろう。波音の響き方からすると、大勢の人が集える広さも十分にありそうだ。


 そして耳を澄ませば人の声も聞こえる。男だ、何やら楽しげであるが。


「しかし味気ないな、泣きもしなけりゃ騒ぎもしないんじゃ」

「騒いだら騒いだでうるさいって言うくせに」


 はははと笑い合うのは二人きりにしか聞こえない。敵が少数というのは好都合だ。ナコラで酒場に突入した時のように多勢に無勢で詰む、それだけは避けられる。


 ナターシャの神経に並ならぬ緊張が走る。心臓が鳴り、息も荒くなり。岩肌を掴む手に力がこもる。風化し脆くなっている表面が、ぱらぱらとこぼれ落ちた。


 力む肩がヴェルムの手に捕まれた。振り返れば、彼は苦虫を噛み潰したような顔で、首を横に振っている。慌てるな、そう諭そうとしているのか。


 ――わかっている。ナターシャは心の中で言いながら、首を縦に振った。そして再度、前に向き直る。


 深呼吸をして心を落ち着ける。胸に手を当てれば、政府の誇りたる証が指先に触れた。世界を統べる者として、正義を守る者として、いざ毅然と立ち向かうべし。


 そして、ナターシャは踏み出した。煌々と灯る光の前へ。足取りは強く、胸を張り、罪人への宣告を行いながら進む。


「動くな! 異能対策省、総合監視局だ! お前たちの悪行はわかっている、バダ・クライカ・イオニアン、抵抗はやめ……て……」


 開けた視界に焦点が定まるやいなや、ナターシャは声を失った。目を最大限まで見開き、愕然としたまま、足も石になったように動かせない。高ぶっていた血が、一気に失せていく。


 ――あたしは、馬鹿だ。何を見ても動じるな、今しがた忠告された言葉すら忘れて、ナターシャはぎりと歯を噛んだ。


『ああ、ナターシャさん、あなたは少々、決めつけが過ぎて残念です。もっと柔軟に広く考えるべきですよ?』


 いつか聞いた局長の嘲笑すら脳裏によぎる。それ程に己の愚かさを責めた。


 バダ・クライカが「人魚の夢」を大量に売りさばいて資金源としている。そして連中は亜人世界を理想とする教団だ。そんな事実から、人魚族が自ら積極的に加担しているのだと思い込んでいた。もう一つ、別の方向に予想は出来たはずなのに。


 目の前にある光景は。波が寄せる地底の入り江、広まった空間に人が身を寄せている証がある。木箱、薬品棚、樽、食糧、武具、衣服――乱雑に置かれた物品だが、長く籠城可能な程に潤沢であった。小舟が上げてあるあたり、海側からも出入りできるのだとわかる。


 そこはある意味想定通りだ。問題は、人影。


 声の主たる男二人は、心底驚いた顔でナターシャたちを向いて立ち尽くしていた。上裸と言って問題ない軽装、強襲があるとは微塵も思っていなかったのだろう。しかし、無駄のない肉付きの肢体が強者であることを物語っている。


 そして、その足元に、柔らかな金色の髪をした娘が居た。鎖骨近くにあるえらが、彼女が人魚であることを示す。ナターシャが追っていた存在だ。


 しかし、横たわる若い人魚の娘は、生きているのか死んでいるかもわからない虚ろな目をナターシャに向けていた。開いたまま閉まらない口からは、白く濁った涎が垂れ流されていた。後ろ手にはめられた黒石の手枷は、異能犯罪者をとらえる際に使う魔封じの力があるものだ。抵抗できぬよう拘束され、一糸まとわぬ姿で転がされる、そんな彼女の肌身には無数の傷や鬱血の痕が新古多様に浮いていた。


 人魚は一人ではなかった。同じように傷のある裸を晒し、手枷に加え首に鎖を巻きつけられ、波打ち際から遠き岩壁に打たれたフックに繋がれている、そんな状態でさらに二人。彼女たちもまた、壊れた人形のようにうなだれている。


 ここで何がなされていたか。バダ・クライカの男たちが、理想の旗の裏でいかな業をしていたのか。ぼろきれのようにされた娘たちの姿を見て、察せぬはずもない。


 闇の底で目にしたその真実は、ナターシャの理性を確実に砕いた。あふれ出るのは純然なる怒り。


「あああああああァァァァッ!」


 激情を発露し、憤怒に動かされるまま、敵の真正面へと一挙に駆け出す。


 凄絶な形相に、相手はわずかな怯みを見せた。しかし、向かってくるのは細身で丸腰の女が一人。すぐに切り替え、戦闘態勢へと移る。片割れは一旦後ろに下がり、もう片割れは前に立ちはだかる。その足下の岩地が自己増殖するように盛り上がり、男の体を鎧のごとく覆った。


 岩の籠手を纏った拳が、ナターシャの到来を待っている。真っ直ぐ飛び込めば最期、頭を打たれ、痛いでは済むまい。誰が見ても一目瞭然だ。


 だがナターシャは止まらない。気づいていない、いや、我を忘れ狭窄した視野と崩壊した思考とでは、当り前のことにすら気づけない。


 ヴェルムは一歩引いた立ち位置より状況を見定めていた。彼とて目にした非道に思うものはある。だがそれ以上に、無闇に激することの危うさを解していた。――馬鹿が! 心中でついた悪態は、ナターシャに向けてのもの。


「援護しろ!」


 踏み出しざまに叫んだ一声は、さらに後ろで待機するセレンに向けて。そのまま自分はナターシャの後を追い、広間の中央へと突き進む。


 後方よりの返事は無い。無視されたか、否、示唆されるまでもなく、セレンは窮を脱するために行動を開始していたのである。広角に展開された白光の魔弾が、ヴェルムの背を、そしてナターシャの肩をも飛び越し、巌の鎧を着こんだ男に襲い掛かる。


 速射であった代わりに一撃は軽い、それでも眩い閃光の五月雨は、攻を防へと転じさせるだけの力を持っていた。男は両腕を顔前に立て頭をかばいつつ、二歩、三歩たたらを踏むように後ろへ下がった。


 体勢が崩れたところへナターシャが到達した。無我夢中で相手の腕に、さらに払いのけて首に掴みかかる。勢いあまり、もろともに地面へと転がり込んだ。その場に落ちていた空の薬瓶が、男の背の下敷きになって割れる乾いた音が響いた。


 苛立たし気に表情を歪める男の首根っこを揺さぶりながら、ナターシャは激情をぶつけた。


「なによ! あんたたち、一体なんなのよ! 何が亜人の世界よ、こんなことしといて、ふざけんじゃないわよ! なんで! なにが真の神よ!」


 悲痛じみた罵詈雑言は止まらない。しかし、最中で追いついたヴェルムの手によって、無理やり体が引きはがされた。その場で彼は真後ろへ転身し、ナターシャは抱きこまれる形になる。


 敵に向けられたヴェルムの背に、岩石の鎚のごとき蹴りが的中する。くぐもったうめき声は漏れるが、屈強な足に支えられる体は揺らがない。


 次いで後方の男から、鋭い鈎針が放射状についた鉄球が投擲される。回転がかけられ、二発。


 超反射のアビラを発動させれば、避けるなり撃ち落とすなりするのは容易い。だが、ヴェルムは肉をえぐる投射を甘んじて受け止めた。回避に意識を回せば、今なお喚き暴れるナターシャを捕まえておく手が緩む。彼女の命を危機にさらすか、己が多少傷つくか、天秤にかけるなら後者がいい。


 背を盾にしながらヴェルムは引き下がる。目指しているのは、入り口近くに山積みにされる木箱の陰、大人が隠れるにも十分だ。ナターシャは駄々をこねる子どものように足をばたつかせるが、力で無理矢理引きずって。


 退却する二人とすれ違って、セレンが突貫していく。身軽に駆けながら、白き魔法小弾を目くらましのように乱射し敵を牽制、追撃を断つ。


 とりあえずの的がセレンに移った。その隙に、ヴェルムは目算をつけた通りの物陰に飛び込んだ。腕の力は緩めない、ナターシャはなおも胸板に拳を打ち付け、錯乱にも近い抗議の声を上げている。


「離して! 許せない、あいつら、あいつら! あの子たちのこと……!」

「それでおまえが殺されたら、あの三人が救われんのか!? あァ!? 違うだろうが、目覚ませ、この馬鹿が!」


 鬼の咆哮のごときけたたましい一喝は、ナターシャの肩のみならず、洞窟をも震わせる。


「何のために俺が居る、何のためにあの嬢ちゃんが居る。おまえが無駄に突っ込んで命捨てる、そんな必要どこにもねぇだろうが!」


 ナターシャは唇を噛んだ。己が無力さを正面切って指摘される、今の心では耐えがたい。この狂いそうな程に燃え上がった怒りを発奮することができない、悔しくて、辛かった。


 再び口を開きかけたところで、ヴェルムに勢いよく突き放された。地面に倒れ込む頭上に何か覆いかぶさり、ナターシャの視界が奪われた。


 上体を起こしながら慌てて取り払う。それは、制服の上着。紺青の背に真新しい血染みが浮かんでいる。


 ふっと顔を上げると、片膝をついたヴェルムと同じ高さで目が合った。鳶色の眼が真摯に、かつ威厳をもってこちらを捉えている。得も言われぬ重圧に、ナターシャは息を飲んだ。


 そしてヴェルムは静かに口を開いた。


「おまえの憤怒は俺が貰い受ける。ヘルデオムの亜人を結ぶ赤き肌の民、偉大なる長に賜った『誉の人(グリド)』の名のもとに」


 ヘルデオムとは東方大陸の中北部に位置する山岳地帯だ。赤肌だけでなく有翼人、地溝(ちこう)の民、鱗人(うろこびと)など、数多の亜人種が暮らす特異な地でもある。


 その区域において、赤肌は最も尊ばれる種族だ。強靭なる肉体と、誇り高き精神性で、部族同士の争いを鎮め、ヘルデオム一帯の安寧に努めて来たからである。


 グリド、彼に与えられた称号が示すのは、単なる種族内での栄誉ではない。全ての亜人種のために尽力する誉れ高き人とあれ、そんな期待を背負った名なのだ。


 ナターシャの頭に一度手を置いて、ヴェルムは巌のように立ち上がった。晒された赤色の上半身には、数多の曲線が絡んだ紋様が、黒い墨で彫られていた。部族の伝統たる刺青、背を埋めつくすそれは、平素の後姿より威圧感をみなぎらせている。


「不義がすぎるってんだ、あのくそ人間どもがッ!」


 憤慨と共に吐き捨てる。ヴェルムの目はぎらつく炎を灯し剥かれ、こめかみには青筋が浮いていた。口端から漏れる息も荒い。


 ナターシャとは違い、死線をいくつも越えた男は会得していた。身を焦がす怒りを理性で抱きこんで、己が力に昇華させる術を。

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