帰投(1)
四日ぶりにナターシャは中枢へと帰投し、磨かれた大理石の廊下を歩いていた。一人の足取りは弱々しく、後姿を見るだにも不機嫌であると察せられる気配が立ち昇っている。
なお、セレンとは玄関ホールで別れていた。ナターシャが何か言う前に「ディニアス様のもとに戻ります」と一言だけ残し、総監局とは違う方向へと消えていった。そっけない態度ももう慣れたものだが、しかし、少し寂しかった。
とぼとぼと歩きながらナコラでの出来事を振り返っていた。どこから誤った? 納得いかない結末になってしまったのはなぜだ? 考えるほどに肉体も精神も疲労が深まる。
あの後、セレンともども仲良くマグナポーラに連行され、そのまま詰所に軟禁される羽目になったのである。あたかも主犯のように詰所の小さな部屋に押し込められ、見張りまで立てられた。有翼人はどうなった、バダ・クライカはどうした、そう見張りに何度も尋ねたが完全に無視。怒鳴っても扉を叩いても無駄だった。
そのまま一晩過ごした後、今朝早くにマグナポーラ率いる屈強な精鋭たちに囲まれて外に連れ出され、中枢本島との連絡船に押し込またのである。実質強制送還だ、船が離岸するまで一切の隙が無かった。
そんな風だったから、薬物売買事件の顛末を知ることもできなかったのである。ただしあの有翼人の男からはもう何も出てこないだろうし、これまで検挙されたバダ・クライカ信徒の犯罪者同様にグレーゴン収容所送りにされて終わりだ、とは推測できる。納得がいかないだけで。
――結局、何も解決しなかった。
ナターシャは歩きながらに髪をかき乱した。確かにナコラ港やカマコリー港の悪の芽は摘み取れたかもしれない。しかし、肝心の根、彼らが稼いだ金が流れる先であるバダ・クライカ・イオニアンの中核は未だ闇のヴェールに包まれたままであるからして。
ずしりと重く沈むものをナターシャは複数抱えていた。気分と、上着のポケットに、だ。上着の左と右のそれぞれに、人魚の夢と首なし人形とが入っている。前者はマグナポーラに取り上げられる前に自分でつっこんだ物、後者は事件現場から押収されてきたとマグナポーラにつっこまれた物。
『てめえんとこの局長、ルクノールんこと好きなんだろ? 持って帰れよ、きっと泣いて喜ぶぜ』
などとマグナポーラはのたまっていた。程度の低い嫌がらせであるのは明らかだったし、道中で捨ててもよかったが、結局持ってきてしまった。ナターシャとて局長には少し思う所があるからして。
一方の「人魚の夢」、これは非常に重要だ。未だ知られぬバダ・クライカの繋がりの中に人魚族の影があることを示す唯一の証である。「夢」の原石が地上にばらまかれている危険性と異常性、かの教団を追い詰めることの必要性。語れるものは色々ある。絶対に手放せないと隠し持って帰って来た。
ただし、問題は。
「誰がわかってくれるかしらね?」
ナターシャが一人で騒ぎ立てたところで、政府では亜人の戯言とないがしろにされるのが関の山。いや、政府に限らずとも、人魚族および「夢」に関して正しい知識がある人間が一体どれだけいるだろう。抱える重い思いを理解してくれる人は、果たして。
渦の底に沈んだような気持ちのまま、ナターシャは見慣れた意匠の古い木戸を引いた。蝶番だけが異様にぴかぴかしていることに神妙な顔をしながら。
久しぶりに帰り着いた巣は、騒動の前となんら変わっていなかった。あふれんばかりに詰め込まれた書類棚も、古い文書や得体の知れない荷物が積まれた一角も、中央に寄せられた住人より多い机の集まりも、眺めていると安堵がわいてくる。
もちろん、ぽつねんと座って書類相手の仕事をしている、鬼のような容貌の男の姿も忘れてはいけない。赤肌ヴェルムもナターシャの帰参に気づき、やたら厳つい笑顔を浮かべて見せた。
「おうおう、聞いたぜ? 散々だったらしいな」
「ええ、散々よ。そっちも大概だったみたいだけど。それ、首」
「ああ、大概だ」
ヴェルムは眉間に深い谷を刻みながら、首筋にある貼り薬を軽く手のひらで叩いて見せた。緑の貼り薬の下に傷は隠れている、が。
「火傷?」
「よくわかったな。詳しく聞いたか?」
「いいえ。教えてちょうだい」
おそらくヴェルムもナターシャと同じ気持ちだったのだろう。起こったことを共有したくてたまらない。すぐに語ってくれた。
やはり、カマコリー港の闇ギルド取り締まりは彼とディニアスの案件だった。もともとは治安の組織犯罪専任部署が扱っていたが、対象がアビリスタ集団である可能性が浮上したため、急遽、総監局にパスが回って来た。
事前情報通りに二人はカマコリー港のとある廃屋を訪れた。そこまでは良かったものの、ヴェルムが前に出て廃屋内の隠し扉を開けた瞬間、視界を埋め尽くす爆炎と、がむしゃらにあたりを切り倒す斬撃とに襲われたのである。辛うじて敵の攻撃をやり過ごし、一面の火の海が収まった後で中に入るとそこはもぬけの殻。一切の痕跡が焼き尽くされ、完全に骨折り損となった。
「――まったく、俺でよかったよ。こんな薬でどうにかなる程度で済んだのは、たまたま頑丈な俺だったからだぞ? 俺らとお前らが逆だったら、間違いなく死んでたぜ」
からからと嘯くヴェルムの言葉を耳にしながら、ナターシャは部屋をぐるりと見渡して、思ったことを口にした。
「まさか、局長、死んだ――」
「馬鹿、生きてるさ。あれだって元ヴィジラだぞ、そう簡単に死ぬかよ。無傷でへらへらしてるぜ、残念だったな」
「いや、まあ、さすがに喜んだりはしないけど……」
語尾はしぼむようになったが、一応身を案じたのは本心である。いけ好かない相手であっても、身内の死を祝すほどに落ちぶれてはいない。
「あと、そうだ、笑えねえ話がもう一つ。ほらよ、今日の朝一でばらまかれているのが見つかった」
ヴェルムが机の端に伏せられていた、中央部に淡茶色の焦げが広がる紙片を取りナターシャへ差し出した。彼の手には小さいが、ナターシャが片手で持ち見るにはぴったりの大きさだ。
なぜ焦げているのかと思ったが、表面を見れば一目で合点がいく。ある文句がを火で焼きつけて印字したのだ。
『ライゾットは神に裁かれり』
もはや誰の仕業かと騒ぐ気にもならない。思い出すのは、四日前の玄関ホール落書き事件。冤罪を被せられた嫌な記憶がよみがえり、ナターシャはみるみる表情を歪めた。
「また!? だいたい、この前のあれは結局どうなったのよ」
「さあな。音沙汰無しだ」
「……特命部って、無能の集まりなの?」
「かもしれん。とにかく、どいつも気が立ってる、とばっちり喰らわんよう気を付けとけ」
「わかってるわよ。二度とごめんだわ」
紙片を返しながら吐き捨てる。とはいえ、どこから飛んでくるかわからない火を完全に避けることなどできようか。厄は間違いなく向かってくる、そんな予感にナターシャは舌を出してえずいた。
戯れはそこそこに、ナターシャは仕事にかかった。総合監視局で動いた事件は終了次第、報告書としてまとめあげ、まず局長宛に提出するきまりとなっている。これが遅れたところでどうなることは無いが、記憶が鮮明のうちに終わらせた方が楽だ。椅子に座ったことで襲い来る疲労感を気合いで跳ね除けつつ、細身の羽ペンを手に走らせる。
仕事に勤しむ彼女の姿とは対照的に、ヴェルムは椅子から立ち上がる。そのまましばし目の前の同僚の様子を見て、机の引き出しを開いた。取り出した物はナターシャの机へ。
軽い響きと共にナターシャの視界に現れたのは、平たい丸缶に詰められた糖衣ナッツ。ご丁寧に蓋も開けられて、いつでも食べてくれと声高に主張している。
「ありがとー!」
久々に自然に笑顔がはじけた気がする。横に立つ大男を見上げると、彼もまたにやりと口角を上げていた。左手には、先ほどまで彼が相手していた文書の束が携えられている。左角に過去の日付が記載されているから、古い捜査記録を引っ張りだして来たようだ。
「こいつをギルド管理の方に渡したらそのまま帰るわ」
「あら、早い」
「家で『竜の涙』が待ってんだよ。飲まんとやってられんぜ、ほんとによ」
おどけるように言ってから、ヴェルムはにこやかに手を振って背を向けた。
――気楽そうで羨ましい。
ナターシャはそう思いつつも、口出しすることもなく、浮ついたオーラ纏う後姿を見送るつもりだった。今の彼にナターシャの重い案件を相談するのは悪いと思って。
しかし。ヴェルムが立ち去るより先に、総監局の扉が外から開かれた。
ひょっこりと顔を出したのは、治安中央軍総指揮長・ワイテ=シルキネイトだった。恰幅はよく、数多の勲章輝く軍服を着こなしてはいるものの、白髪混じりでたれ目の顔つきで、肩書きとは裏腹に気弱に見える。意外と中身も同じなのかもしれない、ナターシャと目があうと、ぎくりと一瞬肩を震わせたから。
それからワイテはうっすらと笑んで、ヴェルムに視線を合わせる。なんだか落ち着かない様子だ。
「なあヴェルム君、今夜暇だろ? ちょっと付き合ってくれんか」
「え、ええ……いい、ですが」
「じゃあ、いつもの店でな」
にやりと笑むと、ワイテはもう一度ナターシャにちらと一瞥くれて、そそくさと退出していった。
まるで危険物を見るような、ひどい扱いじゃないか。と、いつものように文句を言う気が出なかった。というのも、赤肌の大男の背から並ならぬ悲壮感が溢れていたから。先ほどまでの明るい太陽のような気配は消え去り、今は咲く花も枯らしそうな程に暗い気に満ちている。深く長い溜息は、いっそ泣き声と言っても過言でない。
「大変ねえ、人気者は」
「……嫌味だなあ。何ならおまえも連れていってやるが? 奢ってはくれるぜ、お偉いさんだからな」
「やだ。お偉いさんの愚痴聞きなんて、勘弁願いたいわ。一人で仕事してるほうがましよ」
とりつく島も与えないようにひらひらと手を振って、ナターシャはペンを走らせる手に集中した。もう一度男の深い溜息が響いた後、扉が開いて、閉まる音を聞いた。
一人になった静かな空間で、ただ淡々と文字を書き連ねる。時々甘いナッツをつまみながら、単調に、黙々と。そんな時は睡魔が人を襲う絶好の機会でもある。
知らぬ間にナターシャは船をこいでいた。がくりと首が揺れ、重い瞼を必死で上げるも、間髪入れずにまた落ちる。そんなことを繰り返してしばらく、ぷつと視界は黒に閉ざされ、意識が霧の彼方へと去っていった。
――ああ、あたし寝てる。
ナターシャがそう自覚したとき、視界はいまだ暗闇の中だった。
まずは音が聞こえた。ぼりぼり、がりごり、というくぐもった響き。それが頭上から降ってくる。
一体なんだろう。顔を上に向けながら、ゆっくりと目を開けた。窓越しに入ってくる黄昏色の光が目にささった。が、それ以上に突き刺さるように派手な原色使いの布地が目に飛び込んできた。
その近すぎる距離感に驚いて、ナターシャは椅子ごと飛びのいた。知らない間に隣に人が立っている、恐怖感が尋常ではない。眠気は一瞬できれいさっぱり消え去った。
思考が追いついてこれば、驚く必要などないと理解する。そう、こんな色使いの装いをしている人物など、政府においては一人しかいない。総監局長・ディニアスだ。色違いの両目でナターシャを見下ろしながら、難しい顔をして黙々と缶入りナッツを貪っている。
口に入っていたものを飲み下すと、彼は一転、にたりと笑んだ。
「ナターシャさん、お疲れさまでした。セレンが戻って来たので、あなたも居るだろうと来てみたのですが、まさかお休み中とは露知らず」
んふふと鼻にかけた笑い声がナターシャの癪に触って仕方がない。眉間に皺が寄る。対照的にディニアスは楽しそうに目を三日月に描いて、ナターシャの腰元を指さした。
「それ。一体ポケットに何を入れているのです? 妙にふくらんでいますけど」
まったくめざといものだ。ポケットに入れている物は二つある、指で示しているのはちょうど中間で、どちらを言ったのかはわからない。だから右と左のどちらを出すかはナターシャの気分に任されていた。
ナターシャは迷わず右側に手を入れ、中身をディニアスに投げ渡した。宙に高く揚がった黒い影を、局長は胸の前でわし掴んだ。
それは黒い衣を着た木の人形、ただし首は付いていない不気味な姿。ディニアスは片眉をぐいと持ち上げた。
「これは」
「マグナポーラから、あんたが喜ぶだろうからって、ルクノール人形の贈り物。ああ、この際あたしも連名でいいわ」
「なーるほど。日頃の仕返しという趣向ですか、ふーん?」
意図は伝わったらしいが、予想に反して怒らない。相変わらずのにやつき顔で彼の神たる人の形を弄んでいた。
「……怒らないんだ」
「だって、こんなもの、ただの木端とぼろきれじゃないですか」
ふん、とディニアスは鼻を鳴らした。
「私の神はそんなものではない。万物を知る脳を持ち、無から有を生み出す腕を持ち。伏せられた黒い目で全てを見通し、あらゆる者の上に立ち世界を導く。そういう美しく気高く強く才知溢れるお方です。ああ、我が神よ、ルクノールよ、あなたは今どこに居るのですか。それがわかれば、今すぐにでもお迎えに参りますのに」
半ばからは聖歌を捧ぐがごとく、ディニアスは高らかと謳いあげた。聞き手が引いているのには構わない、いやむしろ、周りは一切見えていないのかもしれない。ただひたすら、恍惚としている。
だが、不意にいつもの人を苛立たせるにやけ顔に戻ると、早口でまくしたてる。
「だいたいあなた方、程度が低いんですよ。どうしたらこれでルクノールだと言い切れるんですかねえ、顔もついていないというのに。祭服が黒? そんなものは使徒連中も同じ。ここにあるべき頭はアルかもしれないし、エルかもしれない、いえ、もしかしたらエスドアかも。あの女だって、一応使徒に数えられてますからねえ」
「知らないわよ。あんたって、ほんっとうに、面倒ね」
「ふふん、誉め言葉と取りますよ」
胸を張った上り調子の言いざまに、ナターシャは閉口して両手を開くのみしか返せなかった。
ディニアスは木端人形を資料棚横のごみ箱に向かって投げ捨てると、行く末を見届けることも無く、ナターシャに向かったまま語り掛けて来た。
「ところで、報告は? 最初からあなたに任じた事件だけで構いません。時間も無いですし、バダ・クライカの関係はもう、うんざりするぐらい色々と聞いてますから。さあ、どうぞ」
うさんくさい笑顔がにゅっと眼前に伸びて来た、だからナターシャは床を蹴って椅子ごと身を引いた。そして真っ直ぐ姿勢を直す局長に対し、座ったまま、望まれるがまま手短に英雄像事件の顛末を語り聞かせる。




