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英雄像の噂(1)

 たとえ形だけでも事件が収束すれば、大概の人は安堵し喜ぶものだ。しかし、逆に激怒する者が居た。示威のために事件を起こした張本人たちである。


 中枢の島で二つの事件が起こり即日解決してから三日後、彼らは次の行動を起こした。


 開門直後の玄関ホール、早々に出勤してきた者たちは、みな一様に前方の壁を見上げ硬直した。


 描かれていたのは真紅の文字による布告文。


『我らバダ・クライカ・イオニアン、神の代弁者として偽りの民に忠告する。罪人ライゾット=ソラーには唯一の神エスドアより天誅が下された。事実を認めぬ汝らもまた、神を侮辱する罪人として裁かれよう。人間よ、邪神ルクノールに与する者よ、断罪の時を震えて待つがよい』


 いたずら、落書き、文面だけならそれで片づけてしまっても良いが、問題はその書かれた状況の異様さだ。天井から地際まで壁一面を埋め尽くすように巨大な文字で書かれている、すべての人間へと見せつけるように。


 しかも、だ。ホールは開門直前に警備の巡回が行われていた。その時は、何も無かったし誰も居なかった。間は、便所に行って用を足してくる程度の時間しかなかった、と。そのわずかな隙でこのような大掛かりな文章が書けるか、常識的には無理だ。


 いつの間に、誰が、どうやって。――神、エスドア。その幻影が、布告を見た者を襲っていた。


 宮殿に入場したその場で人間たちが吹きだまる。その萎縮した軍勢から、抜けて来た人影たちがあった。対エスドア特命部の顔ぶれだ。


 その中の一人、政府の上級官としては変な装いをした男が、一歩抜きんでて布告文を見上げる。場違いな笑みは、まるで名画を観賞するよう。


「ふーん……? 筆で書いたと言うよりは、版で押したようですねえ」

「版だと!? こんな巨大な版、あるわけ――」

「いえ、塗料自体を操作して文字に型どり、こう、ぺたんとやったんでしょう。わずかですが魔力の残り香もありますしねえ」


 なぜわかる、とは誰も聞かなかった。この男、異能対策省は総合監視局局長。異能のことなら誰よりも詳しいと、その方面に関してのみは非常に信頼されているのだ。


 では誰がやったのか、それを聞く者は居た。ふうむと唸って、局長は目を細める。


「まあ、器用な方ではあるでしょう。が、水を操るなんてのは大して会得が難しい力ではない、特定するのは難儀ですが……そうですねえ、例えば、人魚族であったら操水術は基本中の基本、十八番の技です。高等な仕事もできるでしょうねえ」


 知識を惜しみなく披露しながら、局長は無邪気に笑った。



Chapter 2:キリング・ドール



「やな奴、やな奴、何よあいつ!」


 ナターシャ=メランズは喚き散らしながら、肩で風を切って廊下を歩いていた。整った顔は憤慨で歪み、赤毛に彩られた熱い怒気が通りかかるすべての人間を遠ざけていた。じんじんと手のひらが痛んでいる、本人はまったく意に介していない。


 せっかくの美貌が形無しになるのも仕方ない、この朝はとんだ始まりだったのだ。


 いつものように出勤し、正門をくぐった。その瞬間、戦闘帽を被った警備隊に取り囲まれ、わけもわからぬまま脇にある詰所へ引きずられた。警備が開いた扉の中に突き飛ばし入れられた。


 なにがなんだか。唖然として室内を見渡すと、険しい顔で待ち構えていたのは、対エスドア特命部の層々たる顔ぶれだ。ナターシャのような一般政務官でも顔と名前が一致するような。気の強さが長所のナターシャでも、さすがに委縮してしまう。中において唯一笑顔をなのが総監局長、しかしそれは不吉めいたものだった。


 何用かとナターシャが尋ねるより先に、治安維持省長が厳粛な声で指示をした。


「それを操ってみろ」


 眉をひそめて見た机の上には、水のたたえられた硝子の器。深みのある大皿と言った雰囲気だ。


 しかし、まるで意味が分からない。なぜ、何のためにそんなことを求められているのか。そして、求められていることは出来ない。


 ナターシャは人魚だ。そして人魚族は水を自在に操る。それはどちらも真である。しかし、人間でも異能を持つ者が居るように、人魚でも水をうまく操れない者は居るのだ。その稀なるイレギュラーがナターシャなのである。


 そうとも知らない連中は、動かないナターシャに対して苛立っていた。


「おい、早くしろ。おまえ人魚なんだろう?」

「まさか出来ないとは言わないよな」


 ぐさりと言葉が刺さった。しかし、出来ないのは悲しい事実、開き直るしかない。


「出来ないわよっ、悪い!?」

「嘘をつけ」

「嘘ですって!? なんでそんな嘘つかなきゃいけないのよ。意味わかんない!」

「……おい、どうなってるディニアス。話が違うじゃないか」

「ふうむ、おかしいですねえ。人魚は海流を操作して、海中でも快適な暮らしをしているのだと聞いたのですがねえ」


 わざとらしく足音を立てながら、局長ことディニアスは右往左往した。


 やがて、手を打ちナターシャを指す。


「あー、わかりましたよ。つまり、あなたがたまたま無能である。そうですね!」


 ナターシャは息を詰まらせた。言っていることは間違っていない。しかし、言い方が問題だ。とにかく神経を逆なでされる、この男に限ってはあえてそういう言葉を選んでいるとしか思えない。


「ううん、もしかしたらと思ってたんですけど……人魚としてかなりダメな感じなんですねえ、ナターシャさん。その辺のアビリスタ連中の方が上手くやれますよ。あなたって、ほんとに人魚――」


 パァンと軽快な音が響き渡った。刹那、部屋が静まりかえる。 


 つい、かっとなって。ナターシャは局長を平手打ちに処していた。一切の抜かりない、渾身の一撃だった。


 ディニアスはよろめいて頬を押さえながら、信じられないと目を丸くしていた。彼にしてはずいぶん珍しい、虚をつかれた表情を見せていた。しかし、ナターシャは無視して、踵を返し部屋を出た。止める者も居なかった。


 歩きながら考える。あれは、しかし、一体なんのつもりだったのだろう。水を操れなどと……理由が無ければ言うまいに。


 そしてナターシャは玄関を通り抜けて、でかでかと壁に書かれた赤文字と対面した。さすがに察した。自分は、犯人扱いされたのだ、と。


 はらわたが煮えくりかえって、至る今。



 怒髪天をつく勢いは、周りを威嚇するには納まらなかった。執務室にたどりつき、その扉に八つ当たりする。乱暴に押し開けられたドアは大回転し、背中合わせの壁に激突した。もとより老朽化していた蝶番が、致命傷に悲鳴を上げる。


 ナターシャは獰猛な鮫のような眼光をして部屋に踏み入れ、しかしそこで凍り付いた。中に居た男「たち」が、呆然としてこちらを見ていたから。


 一方は赤肌ヴェルム、居ることは予測していたから問題ない。そして、もう一人、白髪頭の初老の男は。政府の誇る平和維持部隊の、中央軍指揮長。


「……ワイテ大将、お、おはようございます」

「あ、ああ……おはよう。なんだ、その……朝から、元気なのだねえ」

「え、ええ、まあ……アハハハ」


 ナターシャは顔を赤くしながら、引きつった笑みを浮かべた。ちょうどそれに併せて、蝶番が壊れて支えを失ったドアが、盛大な音を立てて床に倒れた。


 気まずい空気が流れている。そもそもナターシャとワイテ大将の間に面識はあまりない。だから向こうの中では、「総監の美しい花」といった印象で通っていた――そう嘯いているのをナターシャ自身が聞いた――が、これで完全に壊れたかたちだ。


 ナターシャが小さくなりながら自席へ向かう中、ワイテ=シルキネイトはこほんと咳払いした。少々わざとらしい音だった。


「ああ……じゃあ、わしはこれで。朝一から邪魔したな」

「いえ、お構いなく」


 ワイテは無残な姿となった扉と、顔を背けているナターシャとを交互に見てから、足早に総監局を去った。



 ナターシャに、対面のヴェルムから冷め切った視線が突き刺さる。無言の呆れがいたたまれない。ああ、うう、とうなってから、ナターシャは会話のきっかけを作った。


「そうよ、あんたって、ワイテ大将と仲いいらしいって聞いてたけど、ほんとだったのね」

「まあ、な。……で。あれは、なんだ」

「ドア」

「んなこたあ子供でも知ってら! そうじゃねえだろ」


 やつ当たりして公共の設備を壊すなど、公人として少々いただけない振る舞いだ。ナターシャだって頭ではわかっている。しかし感情のやりどころが必要だった。朝の件を思い出すだけで、ふつふつと怒りが再燃する。


 ナターシャは不機嫌な顔でヴェルムに向いた。彼はもう椅子に深く背を預け、愚痴を受け入れる体勢をつくっていた。


「ねえ見た。朝の、あれ」

「ホールのか? そりゃあ当然目に入るわな。見せつけるように書かかれてあったからなあ」

「あいつ、あれ、あたしがやったって……! 人魚だからそうだって……!」

「その『あいつ』って、局長か?」


 ナターシャは即、首を縦に振った。長い赤髪が背中で大きく跳ね踊った。


 凄絶な表情のナターシャとは裏腹に、ヴェルムは神妙な顔をして目を細めた。少し考えるようにして、それから腕を組みながらも穏やかな声でさとす。


「おまえそれは、局長に救われたんじゃねえのか」

「え?」

「だってよ、異能の仕業であることは明らかなんだ。遅かれ早かれおまえに目が向いていたさ。そうなったら、この前の有翼人みたいに無い罪着せられててもおかしかねえだろ。よく考えろ、そうじゃないか?」


 ナターシャは口をへの字に曲げ頬杖をついた。


 考えてみれば、ヴェルムの言うことは筋が通っている。政府内部で起こった異能による事件。真っ先に疑われるのは自分たち総監に身を置く異能たちだ。ライゾット事件の時もそうだった。そして時には真実にたどり着けなくても、強引に捜査を終わらせることもあるのも体験済みだ。


 局長は性格こそ問題だが、頭の回転は政府中枢でも随一である。その脳にはナターシャに濡れ衣を着せられる未来が見えていた、だから先手を取って潔白を証明した。おそらくだが、ナターシャに水を操る力が無いこともわかっていたのではないだろうか。


 しかし、あの局長がそんな風に部下を思いやる真似をするだろうか。口を開けば人をこき下ろす、あの男が。


 ナターシャは考えるのを止めた。他人の思考などわかりやしないのだ、無駄である。それに、仮説が正しかったとしても、ディニアスの発言を許す気はない。本当に人魚なのか。その言葉は心の古傷にあまりにも深く突き刺さるから。


「なんだっていいわよ。だいたい、いらない恥かかされたのも事実だもの! あたしだって、ちゃんと人魚なのよ!」

「まあ、おまえがそう言うならなんでもいいぜ。でもよ、扉は直しとけ。おまえがぶっ壊したのも事実だ」


 ぐうの音も出ない正論だ。ナターシャは後悔まじりのうめき声を出し、やたら開放的な入口に目配せする。外から丸見え、改装した自分でもあまり好きな建築様式ではない。


 ドア本体は壊れていないから、蝶番を新品に交換して取り付ければよいだけだ。とはいえナターシャの細腕では骨が折れる作業ではある。


 しかし、やったことの責任はとらなければ。ナターシャは重い腰を上げ、新しい蝶番をもらうため、施設管理部へと向かった。設備に関する事柄はあの部署が一元管理している。消耗品については予備をもっているはず。




 政府中枢内はおおよそ三つの区画に分かれている。古い王宮に改築と修繕を重ね使用している中央館と、増築された東西の館だ。ナターシャの属す異能対策省総合監視局は西館の最奥、目指す施設管理部は中央にある。


 中央館の構造は曲者だ。もともと機能的でない構造だった古き時代の宮殿に、さらに行きあたりばったりの改装を重ねてきたため、非常に導線が悪い。廊下が曲がりくねっていたり、無駄な分かれ道があったり。同じ建物の中だというのに行き来するのに疲れる。ちょっとした迷宮探索気分だ。


「宝石のつまった宝箱が待っているってならいいんだけどね。こんなものだもん」


 手に持った鈍色の蝶番をいじりながら、ナターシャは気だるく歩いていた。前方で廊下が急に細くなる、両隣の部屋が何も考えずに広く直した結果の産物だ。すれ違えないほどの狭窄地帯だが、西館への近道だからナターシャは好んで利用する。


 ただこの狭い廊下の難点は、存在感が薄いところだ。合流先の廊下からは見落とされ、よく「急に壁から飛び出して来た」と誤解されることがある。完全な死角、追突注意だ。


 だからナターシャも出口近くで一旦立ち止まり、知らずに壁際を歩いている者が居ないか探る。足音も聞こえないし、人の気配も感じない。静かだ。


 それでも一応、ゆっくり顔をのぞかせ左右を見渡して――と、ナターシャはぎょっとした。右手に向いたすぐ眼前に、人の顔があったのだ。驚愕のあまり、のけ反りながら反射的に悲鳴をあげた。


「ひゃっ!? あ、きょ、局、長……」

「ええ。先ほどは、どうも」


 弾む胸を押さえながら、よりにもよってこの男に間抜けたところを見せてしまったと嘆息する。


 同時に悪態も内心で。ど派手な外見をしているくせに気配を絶って歩き回るな、感じ悪い、と。


「なにか、私の顔に? それとも見とれてしまったとか? 困りますねえ」

「万が一にも無いから安心してちょうだい」


 うさんくさいにやけ面は積極的に見たいものではない、一体誰が見惚れると言うのか。ナターシャは鼻で一笑した。なお、ナターシャが平手打ちした痕は一切残っていなかった。少しだけ安心した。


 そうだ、朝の件だ。ナターシャは腹立たしげに腕を組んで、いかにもな追及の姿勢をとった。


「ねえ、朝のはなに? ああやって、あたしを晒し者にしたかったわけ?」

「別に。そんな幼稚なことしませんよ」

「じゃあなんで」

「疑いの種は一つずつ潰していくより仕方がないので。真っ当な捜査の一環です。何の、とは……言わなくてもわかるでしょう?」

「要するにさ、あたしを疑ってたってことじゃない。やっぱりね。……あーあ、あたしって信頼してもらえないんだ」


 嫌味ったらしく言って見せた。ところが局長はめげずに肩を揺らしている。


「アハハ、やだなあ、ナターシャさん。違いますよ? 別にあなたのことを信じていないってわけじゃないんです」

「今さらそんな風に言われても――」

「だから違いますって。私、あなただけでなく、誰のことも同様に信じていませんから。……我が神ただ一人除いてはねえ」


 そう言い切ったディニアスは満面の笑みだった。


 一瞬でも心遣いある言葉を期待したのが間違っていた、この男に喋らせるだけ損だ。ナターシャは呆れはて、ディニアスを無視して早足で歩きだした。 


「ああっ、待ってくださいナターシャさん! 一つ頼まれて欲しい案件があるのです」

「やだ」

「そう言わず。賑やかな街で、とっても楽しい外勤ですよ? 五日間くらい使って、のんびり調べてもらって構いませんから。暇の使い方も決めませんし」

「い、や、だ! あんたのその言い方、絶対ろくでもない話だもの」

「犯罪でも持ちかけているような言い方やめてください。総監局の正当な執務の範囲です。だから、拒否権もないんですけどね」


 そんなことわかっていた。ナターシャとて常識的な責任感は持っている、嫌だと言って本当に仕事をしないつもりはない。ただ素直には従いたくない、そんな気分なだけで。


 ディニアスもナターシャの性格は重々承知している。だからこそ脇目もふらずに歩き続ける彼女を遅れずに追い、何事も無いように語り続けるのだ。


「今回はこの前の内通者がどうこうというのに比べたら、とっても簡単なお話ですよ。ナコラ港で流れるとある噂、それが本当かどうかを確かめて欲しいだけですから」

「噂?」

「ええ。ナコラ港広場の英雄像、ご存じですか? あれが夜な夜な動き出しては人を襲って回る。そんな些細な噂話です」


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