英雄像の噂(2)
ナコラ港はエバーダン諸島の最大の港町である。中枢からは隣の島で、距離的には快速船で半日かからないほどに近く、定期船も運航している。
その町の広場に大理石の人物像が燦然と立っている。諸島の民話に語られる英雄をかたどったものだ。
遠い昔、深海より這い出て来た邪悪な海竜が諸島を襲った。数多の町が海に沈み、波は森をも流し、人は恐怖におびえた。窮まったその時、一人の勇士が果敢に邪竜に挑み、見事打ち破り平和をもたらした。
彼の偉業をたたえるべく建立されたのが、今も広場に残る英雄像である。剣を掲げ太陽に向かう威厳のある顔つきの男は、ある種の守護神と言っても過言ではない。
しかし。その石像にはこの頃、英雄らしからぬ噂がつきまとっている。
夜になると石像が動き出す。そして人の寝静まる町を徘徊し、暴威を奮ってまわるという内容だ。剣を振り乱して物を壊し、建物の扉や窓を蹴破り、姿を見た人間を襲い殺す。
なぜ動くのか? それは、かつて英雄に滅された邪竜の呪いだ。人間を憎み、島を滅ぼそうとする邪念が像に宿ったのだ――と、ナコラ港ではまことしやかに囁かれ、住民は恐怖の日々を送っている。
「……ばっかみたい。子どもが考えたんじゃないの?」
「そう思うでしょう? だから私も聞くだけ聞いて無視していたんですけど……少々、事情が変わってしまいまして」
「事情?」
「ええ。一昨日の夜でしたっけ、ナコラで死人が出たらしいんです。それで軍部の方が噂と結び付けて騒ぎ出してくれちゃいまして。我々総監局として動かざるを得ない状況なのです」
「なるほどね」
確かに石像が本当に動いたとなれば常識には計り知れない力が働いている、総監局担当の事件だ。人民の命の危機だから緊急性も高くなる。
そう言えば、中央軍指揮のワイテ大将が先ほど局に来ていた。この件が理由だとしたら、事がかなり大きくなっているのだろう。ただの噂だ、と切り捨てては居られなさそうだ。ナターシャも真面目な顔になった。
それに、とディニアスが付け加えるように言う。
「あっちじゃあライゾットさんの件まで、英雄像の仕業じゃないかと言われている始末ですよ」
「海を挟んでいるのに? 石じゃあ沈むでしょ」
「その通り、少々無理のある憶測です。くだらない話、普段なら放っておくんですが、とにかくタイミングが悪いんですよねえ。……ほら、今朝のあれ。このまま噂が広まると、またバダ・クライカ連中が自己顕示欲を丸だしにして、同じ事を繰り返すでしょう」
あの大々的に出された宣告文は、ライゾット事件の結論に異を唱えるものであった。あれはエスドアの裁きによるもの、バダ・クライカ・イオニアンにとってはその結論意外あり得ないのだ。だから、英雄像の件が主論になれば、同様の動きを起こすとは想像に難くない。
ナターシャは眉間にしわを寄せた。大理石の建物特有のひんやりとした空気が、意図的に首筋を撫でた気がした。ああ確かに、今朝のようなとばっちりを再びくらうのは勘弁願いたい。心外なことに、亜人だからというだけで同類に見られるのだから。
「……面倒なやつらね、胃に穴が開きそう」
「同感です。なので、実態をあなたのその目で見極めていただきたい。夜闇に紛れ人を殺める人の形……ナコラ港のキリング・ドールの真実を」
「見極めるって……」
「あなたの役割は観測者、調べるだけで十分ですよ。石像を引っ張って帰って来いとは言いません。ね、楽でしょう?」
「うーん」
総監局は調査をし報告をするのみで、実際に対処するのは治安維持隊なりヴィジラなりが行う。それこそ本来の形式だ、何も不思議ではない。
だがそれ以外で気になる点がある。ナターシャは渋い顔でディニアスを見た。
「目的はわかったけどさ」
「はい」
「あんたの言い方だと、あたし一人でやれって感じなんだけど。もちろんヴェルムと一緒に――」
「ああ、駄目ですよ。赤肌殿は別件で私が使いたいので、今回はあきらめてください」
軽い調子で言われて、ナターシャの頭はくらくらした。総監局の官は世界各地を飛び回るため、現在中枢にて着任しているのは局長も含めて三人だけ。すなわち、暗に単独業務だと言われているようなもの。
ナターシャの顔が引きつった。ディニアスの前に回り込んで正対する。直後に横をすり抜けられてしまったが。
「信じらんない、そんな死ぬかもしれないの、あたし一人で調べるの? あたし、襲われたらなんにもできないわよ!?」
「私を引っぱたいといて……今頃か弱いふりはなしでしょう」
「そうじゃなくって! もし噂が本当だったら、アビリスタとかでてくるじゃない、絶対!」
本当に石像がひとりでに動き回っているとしても、誰かが裏で糸を引いているとしても、触りどころを間違えれば、あっけなく死ぬ。先日だって、大事にならないはずが大乱闘になったのだ。
悪を暴くため奮闘し殉職。栄誉だなんだと讃えられそうだが、ナターシャはこういう言葉が嫌いだった。死んだら自分はそれまで、後でどんなに良く語られようと意味が無い。
今にも癇癪玉を爆発させそうなナターシャに対して、ディニアスは不敵に笑んだ。
「この私が危ない橋を渡らせると思います? 安心してください、『特使官』一人付けますから」
「『特使官』? なにそれ、聞いたことないんだけど」
「これから発足させる新設の組織です。役割で言うなら、あなた方にヴィジラと同じ権限を与えたもの、が簡潔ですかねえ」
「その言い方……もしかしてあんたがつくったの?」
「ええ。臨機応変に動かせて戦力としても充足した部隊、エスドアの存在を考えても、そういうものが手駒として欲しいので。総監局と別部門としておけば、万一の時に全滅も防げるでしょう」
機嫌のよい笑い声を聞いて、ナターシャは神妙な気分になった。話だけでは彼の私兵にしか聞こえない。ただでさえヴィジラの指揮権を握っているのに、これ以上の武力が必要なのかははなはだ疑問だ。しかも、危なっかしい雰囲気のこの男に。
だが、そこはさておこう。本当に強権を得るためだけの組織なら、他の長官たちが待ったをかけるはず。面倒で大それた議論など上の者たちにさせればよい、ナターシャたち下の官は、目の前の実務をなせばよいのだ。
「つまりさ、その新人指導をあたしにしろってことね?」
「物分かりがよくて助かりますよ。もちろん戦闘面以外の事についてで構いません。その点ではあなたには何も期待してませんしね」
「こればっかりは反論できないわ。だけど……どっちにしてもヴェルムに任せた方がいい気がする。あたしまだ半年よ、外での捜査経験が多いわけじゃないし、大して教えられないわ」
「あー……赤肌殿とは、あれは間違いなく反りが合わないですから。それに……女の子なんですよねえ」
うわごとのように呟かれた単語に、ナターシャは耳を疑った。
「おんなのこ?」
「ええ。とっても従順で生真面目で優秀な子ですよ、私が保証します」
「そう……女の子、ねえ……」
普通の言語なのに不思議な響きだ。厳粛な空気を持つ政府中枢、とりわけ過酷な職場である総監局員の会話では異質に聞こえる。
ナターシャとて女ではあるが、とても「女の子」と呼んでもらえるようなものではないと自負している。性格面もあるが、第一に年齢。見た目は若くとも、実際は五十を越えている。老化の遅い人魚族の利点だ。ただし、日常生活上では面倒になりそうなので、二十五歳として通して中枢雇用時の書類も――閑話休題。
「じゃあ、そういうことでよろしくお願いします。後ほど設立が確定したら、本人を局にやりますので。明日の朝から現地に入って下さい」
「……待って。まだ組織できてないの? なにそれ」
「今からちょうど会議なんですよ。そこで承認もらいますから。ああ、心配しないでください、絶対に認めさせられますので」
得意気に笑って見せてから、ディニアスは無駄にひらつく服を翻して、来た道を戻るように歩いて行った。
頭が痛くなってきた。確定事項のように言っていたが、机上の空論ではないか。通らなかったら考え損、振り回されるこちらの身にもなってほしい。ナターシャは深々とため息をついた。まったく、面倒な局長だ。
「あ、そうそう! ナターシャさん、もう一つ!」
不意に背中に投げかけられ振り向く。十数歩の距離の先で、ディニアスがこちらを向いていた。
「何よ」
「ナターシャさん、『人魚の夢』って知ってます?」
刹那、ナターシャの心臓が大きく跳ねた。無心になる。手に持った修繕部品を取り落としそうになって、すんでのところで耐えた。
知っている。人魚なら誰でも知っている「物」だ。だがあれは……人間は知らなくていい。知らない方が幸せな物品だ。ナターシャとて、できれば考えたくない。
ただし、事件ならば話は違う。人魚の端くれとして、捨て置くわけにはいかない。どういう流れでこの男の口から出てきたのかわからないが、とにかく情報を探りたかった。
どくりどくりと鳴り響く心臓の音を無表情な顔で覆い隠しながら、慎重に言葉を選んで。しかし、発せられたナターシャの声はうわずっていた。
「なっ何? その……ナントカがどうかしたの? 別の案件のなにか?」
「うちじゃないんですけどね。治安の方に行くと、このところよく聞こえてくるんですよ。だから、一体どういうものなのか気になっただけです。ま、私の単なる好奇心です。……どうです? 知りません?」
ディニアスの双眸がきらめきと共にナターシャを貫いてくる。
ナターシャは非常な苛立ちを覚えた。「人魚の夢」、それは人間には危険が大きなある物を指し示す、それと同時に、ナターシャの心の古傷をえぐる言葉でもあった。それを、この男は、単なる好奇心によって踏み込んで来ようとする。
普段の言動、そして朝の出来事。それらも重なり、ナターシャの中で何かが切れた。――知りもしないで、軽々と触れてくれるな!
「教えない!」
つっけんどんに言い放ってから、ナターシャは彼とは逆方向に駆けだした。「残念です」という声が聞こえた気がしたが、もうどうでもよかった。
足は早くなる。しかし周りが見えなくなって、思考は暗い海へと沈む。宮殿に響く音が消え、海が鳴る音が聴覚を支配する。息が苦しい、動悸がする。記憶の泡が浮き上がる。
人魚の夢。人魚の――冷たい嘲笑が、ナターシャに囁きかけてきた。うねる水流の音と共に、高い声が重なり合う。
『ねえ、どうしてあなたは地上の夢なんか見るの? おっかしい!』
『ねえ、水が操れないの? どうして? かわいそう』
『ねえ、なんで人間の言葉なんて覚えたいの? 変な子ねえ』
『ねえ! あなたって本当に人魚――』
「うるさいッ!」
まとわりつく同胞の声にナターシャは一喝した。くすくす笑いを残して、彼女たちの声は消えていく。そして――
「おい、ナターシャ!」
「あ……」
瞬きを繰り返した先に、ヴェルムの焦った顔が映った。いつの間にか執務室に戻ってきていたのだ。
「大丈夫か。何かあったか」
「別に。ちょっと嫌なことを思い出しただけ」
疲弊した声で言ってナターシャは自分の席へ座る。ちょっとどころか、かなり嫌な記憶だ。美しい水色の瞳が影をおびる。
また局長にやられたのかと、ヴェルムには察しがついた。やれやれとばかりに息をはき、助言を一つ。
「あんまり局長の言うこと真に受けるんじゃねえぞ」
「そんなのわかってるわよ。もういいから、気にしないで」
これ以上触られたくはないから。言外に匂わせた空気をヴェルムはきっちり読み取った。小さく頷いてから、ナターシャを無視して大きな体に似つかわしくない書類仕事へと戻った。
ナターシャは頬杖をつき、「人魚の夢」に思いを馳せようとして――やめた。総監の仕事でないのなら、関わる筋合いもない。
その物体と、海中の人魚の実態については、胸の中にしまっておいて、必要な時にとりだせばいい。それだけだ。
真に考えるべきは自分のこと。与えられた、英雄像の噂に対する任務だ。
ふと噂の一端を思い出す。像に呪いをかけた邪竜、民話では海から来たと言うが――それは本当に竜だったのだろうか。海を操り、島を襲ったのは。今も人を混乱させているのは。
「まさかね……」
海中に住まわう民たちの、地上に対する嘲笑が聞こえた気がした。




