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【第一部・完結】幽世庵モノガタリ ~化物絵師と鵺~【幕末妖かしバディ】  作者: Yumiko
第六幕・追憶の雨香―猫又

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猫又(2)



「愁水! ちょうどいいところに来た。この娘さん、本石ほんごく町まで送ってやってくれよ」


 京助がほっとしたように、滝の背後に声をかける。


「人使いが荒いんじゃねえか」


 深みのある声が、低く笑って言った。


 ――愁水?


 滝の心の臓が、どくりと跳ねた。


 三月みつき前にふらりと江戸に現れ、どの流派にも属さず、化物絵ばかり描く変わり者。たまに美人画を描いたかと思えば、描かれた女は化物のように、ぞっとするほど美しい――と、いう。


 人々は愁水を、〈化物絵師〉、あるいは〈化物封じの絵師〉と呼ぶ。


 先日話題になった美人画――鏡を覗き込む女の絵も、見た者は揃って化物絵だと言った。初めて絵を見たその晩に、女が夢に現れたのだ、とも。


 絵を見た者によれば、繊細さが目を惹く一方で、鏡に映る女の切れ長の目は、ある種の〈凄み〉も漂わせていたそうだ。


 滝も一目見てみたかったが、絵は瞬く間に売れた上に、なぜかきっかり百しか刷られなかったため、噂で聞くよりほかになかった。


 いま、誰もが愁水の新作を熱望している。出せば売れるだろうに、愁水は小さな版元である清野屋からしか出さず、しかも猫のような気まぐれさで、未だ数点しか描いていない。


 清野屋の軒先に吊るされている錦絵のなかにも、愁水の作はなかった。


 何か事情があるのだろうが、とんとわからない。仕事の多くは個人の依頼による肉筆画で、怪異絡みであれば貴賤きせん問わず、言い値で引き受けるという――これも、噂だ。


 滝は振り返って、自分を支えている男を見上げた。


 とっさに俗っぽい言葉しか思いつかず、滝は顔が火照りそうになった。




「――蠱毒こどく?」


 愁水が聞き返すと、いつものように嗣巳の解説が入る。その凄惨せいさんな内容に、愁水の目にも険が宿った。


おぼろってのは、お前が言っていた〈因縁の〉陰陽師だよな?」


「……えげつない術師だからな、あれは。蠱毒くらいでは驚かん」


 嗣巳が、吐き捨てるように応じる。その横顔を見ながら、愁水はその名をどこか他の場所で耳にしたような気がしたのだが、思い出せなかった。


 ――朧。


 春の夜に、月がぼんやりとかすむ様を指す。


 ふと、桜の木の下で言葉を交わした狩衣かりぎぬ姿の男が浮かんだが、まさかな、と頭から追い出した。


 あの男が実在したかもわからず、話したこともあまり覚えていない。ただ、雪華の娘の元に京の公家――実の父親が訪ねてきたというので、実在したのだろう、という程度だ。


「こんなことなら、ひいらぎを遠くにやるんじゃなかったな」


 愁水は未だに寝入っている狐を振り返り、歯噛みした。この狐――柊は特に、愁水が面倒を見て愛着もわいている。


 その柊が下法の〈材〉にされかけたと聞けば、はらわたが煮え返る思いだった。


「愁水、そんなに力を入れると筆が折れるぞ。頭を冷やしに、外に出かけて来い。ついでに稲荷寿司でも買って来るんだな」


「お前が食いたいだけだろうが」


 愁水は顔をしかめたが、怒ったところでどうにもならないのはわかっている。


「まあ、行ってくるか。面白ぇ噂が聞けるかもしれねえしな」


 鵺の体が揃ったいま、次に相手がどういう手を打ってくるのか、少しでも情報が必要だ。


 繁華な通りを歩くのもいいかと、愁水は筆を置いて立ち上がった。




「――ごめんなさい、寝不足で」


 地本問屋の前で、よろめいた女を腕に抱き止めると、振り返った女がふわりと微笑んだ。


 見返り美人、と心中で呟く。折れてしまいそうなほど細い腕だと思っていると、女の顔に戸惑いと赤みが差したため、体を離した。


 たおやかな仕草といい、今までに見たことのない類いだった。


「……美人画の手本にさせてもらいてえな」


 思ったことをそのまま口にしただけなのだが、京助に思い切り足を踏まれた。


「てめえ、何を――」


「馬鹿、うちの看板を気安く口説くんじゃねえ」


「看板?」


 ふと、愁水は嗣巳の買ってきた戯作を思い出した。戯作を読むのは初めてだったが、引き込まれて、夜更けまで夢中になって読んだのは記憶に新しい。


 確か、作者の名は《《滝》》亭右橘といったはずだ。


 名前から男だと思っていたが、繊細な筆致を思えば、納得がいく。


「すまないね、お滝ちゃん。こいつ、気風きっぷはいいし、噛みついたりもしねえから。安心して、用心棒として使ってくんな」


 そう言って、京助が奥から番傘を持ってきたかと思うと、愁水に押しつけてきた。


 俺は犬かよ、とぼやきながら、滝を見る。


「行こうぜ。歩けねえようなら、駕籠かごを呼ぶか?」


 いえ、と短く答えた滝が、京助と愁水を見比べて、鈴のような声で笑った。




 滝は駕籠を断り、愁水と一つの傘に入って、雨にけむる問屋街を歩きだした。


 大伝馬町と言えば、繊維問屋に呉服屋だ。


 長屋式に同じ造りの店が両脇に並び、屋号の入った藍染あいぜん暖簾のれんが連なる様は、江戸屈指の商業の町として日本橋にも引けを取らない。


 滝と愁水の前には、粋な着こなしの辰巳たつみ芸者が二人、藤色の蛇の目傘をくるりと回して、華やかな笑い声をあげている。


「あの、何か、清野屋さんに御用がおありだったんじゃ……」


 滝はつい、遠慮がちに話しかけていた。愁水は黙っていると、引き締まった頬といい、どこか近寄りがたいような、粗暴そぼうな雰囲気が漂うのだ。


 ただし滝と目が合うと、愁水の眼差しはいくぶん柔らかくなった。人当たりは、悪くないようだ。


 愁水は絵師にとって後援者探しの場となる、文人や旗本はたもとの催す即興の席画せきが会にも姿を見せないという。絵師同士の繋がりもないそうだから、偏屈へんくつな人嫌いかと思っていたが――ずいぶん、印象と違う。


「いや、近くまで来たついでに、挨拶しておこうと思っただけだ」


「お家と反対の方角ということは……」


「俺は根岸ねぎしだ。反対ってことはねえから、気にすんな」


 ――根岸。


 武士や町民の別荘地――とりわけ文人墨客ぶんじんぼっかくが好んで住むという、閑雅幽栖かんがゆうせいの地。


 うぐいすの名所でもあり、別名〈初音はつねの里〉。東の鶯はだみ声だと言うが、それをいとった親王が京都から数百羽の雛を取り寄せて放ったことから、この地では鶯もみやびな声で鳴くという。


 少し、意外だった。人目を惹く風格にいくらか慣れて、滝は隣にいる男を、横目で控えめに観察した。


 総髪に濃紺の着流しという出で立ちは、一見粗野な印象を抱かせる。しかし、物腰にはどこか品があり、肩を並べて歩いていると、かすかに伽羅きゃらの香のような、甘く深みのある薫りがする。


 意外ではないかもしれないと、滝は考え直した。かの地で美しい化物の絵を描くこの男の姿は、それこそ絵のように、恐ろしく魅力的だろう。


 滝が想察そうさつしているあいだに、愁水のほうでも、滝の正体に見当をつけていたらしい。


「そういやあんた、お滝さんって言うんだな。滝……で、清野屋の看板ってえことは、戯作者の滝亭右橘りゅうていうきつか?」


 滝は逡巡の末、小さく頷いた。


 何を言われてもひるむものかと、覚悟したのだが――。



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