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【第一部・完結】幽世庵モノガタリ ~化物絵師と鵺~【幕末妖かしバディ】  作者: Yumiko
第六幕・追憶の雨香―猫又

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猫又(1)




 ふと横顔を見ると、見慣れたはずの妹の瞳孔どうこうが、獣のように細められていた。




 暮れ六つ(*)。


 地本問屋の京助に新作の戯作げさく稿こうを届けた帰り道、たきは《《また》》あの音を聞いた。


 鋭い爪で、何かを引っ掻くような音。その音が、滝を執拗しつように追いかけてくる。外でも、家の中でも。


 滝はじゃの目傘を手放して、雨のなかを走り出した。


 ガリガリと、耳をふさぎたくなるような音が背後についてくる。


 裏長屋まで必死に走って、家に飛び込んだ。


 ――助かった。


 戸を閉めて、背を預ける。息が整わないうちに、背に衝撃が走った。今度は、戸を引っ掻いている。


 〈爪の主〉は、家の中には入ってこられないらしい。周辺をうろついては、戸を引っ掻いていく。


雨月うげつ? ……お前は、雨月なの?」


 滝は耐えきれずに、行方知れずになっていた愛猫あいびょうの名を呼んだ。


 期待と不安の入り混じった滝の声に、音がぴたりとやむ。


 沈黙が流れたかと思うと、今度は苛立ったように、戸を強く引っ掻きだした。


 行灯の朱色の灯りが、あやしく揺れる。


 粗末な戸は、いまにも倒れそうだ。


 滝は部屋の隅に身を寄せて、己の肩を掻き抱いた。


 ――雨月。あんた、あたしを連れて行こうとしているの?


 愛猫と言いながら、幼い頃から飼っていた三毛猫の雨月は、世話をしていた滝よりも、妹のみおのほうに懐いていた。


 澪から片時も離れようとしないせいで、置屋おきや(*)では〈憑き物筋〉と噂が立つほどだった。


 その懐きぶりは愛らしく、同時に、少しばかり憎らしくもあった。


「……取って喰おうというなら、あたしだけになさい。お澪には、絶対に手を出すんじゃないよ」


 滝は銀杏いちょう返しに結った髪からかんざしを抜き取って、胸の前で構えた。


「あんたと一緒には逝ってやれない。でも、いつかきっと、そっちに逝くから――」


 滝が言い終えるまえに、ふっと気配が消えた。


 入れ替わるように、特徴的な足駄あしだの音が近づいてくる。


 戸口がわずかに開き、あでやかな色の袖が揺れる。


「――どうしたの、お滝ちゃん」


 戸を肘で開けた澪が、悲壮な面持ちで簪を握っている滝を見て、不思議そうに言った。


 蛇の目傘を差しながら、甘酒の入った器を危なっかしい様子で抱えている。少しもこぼさないように、そうっと歩いてきたのだろう。そのとぼけた様子に、滝は肩の力を抜いた。


 わかってはいたが、〈あれ〉の狙いは滝だけなのだ。


 滝は複雑な心持ちで、黙って簪を挿し直した。


「はい。甘酒でも飲んで、休んでちょうだい。新作の稿こうはかどっていないんでしょう?」


 澪が近づいてきて、滝の手に器を持たせる。


「お滝ちゃん、こんなに濡れて……傘を差さなかったの?」


 手を握られて、滝の体に震えが走った。滝はあの奇怪な音以上に、妹を恐れていた。


 病弱で寝込んでばかりいた澪が、咳き込まなくなった頃から感じている、強烈な違和感。


 ――この子は、本当にあたしの妹なの?


 馬鹿げている、と滝は首を振った。姉妹二人、やっと手に入れた平穏だった。


 父は殿様に仕える藩士であったけれど、没落して一家離散。滝と澪の姉妹は芸者の置屋おきやに預けられ、幼い頃は辛く厳しい稽古に追われる日々だった。


 幸い、滝が三味線、澪が琴の才を活かして、いまはここ――日本橋本石(ほんごく)町の裏長屋で、音曲おんぎょくの師匠として姉妹二人で暮らせている。


 暮らし向きは、悪くはない。滝は「滝亭右橘りゅうていうきつ」という男名で、戯作を書いてもいる。


 大伝馬おおでんま町にある地本問屋――小さな版元の雑事を手伝ったのがきっかけで、片手間に書き始めたものだが、その怪異譚がちまたで評判となってからは、戯作の潤筆料じゅんぴつりょう(*)も暮らしの足しになっている。


 いま澪が着ている小袖も、滝があつらえたものだった。


 丹色地にたちばなの実と葉とを組み合わせた、流行りの華やかな文様。


 橘は家紋であり、一家が揃って暮らしていたとき、家の庭には橘の木が植えられていた。


 滝と澪にとっては、思い返さずにはいられない、短い〈幸せのしるし〉でもある。


「……雷が鳴りそうだったから、走ったの」


 滝がそう誤魔化ごまかして、澪から体を離そうとしたとき、甘く清涼な香りがふわりと漂った。


 いつからか、澪の体から、橘の香りがするようになった。


「お澪、あんたのその香り……」


 澪の白い首筋に顔を寄せると、澪は照れたように身を引いた。


「なあに、くすぐったいったら」


 さらに顔を近づけようとしたとき――甘い香りのその奥に、どろりとした別の臭気を嗅ぎ取って、滝は急な吐き気に襲われた。


「お滝ちゃんっ?」


 滝はとっさに片手で口を押えて、うずくまった。


 腐った肉の臭い。


 滝は口を押えたまま、澪を見上げた。


 ――お澪、あんた、もしかして……。


「お滝ちゃん、どこか悪いの?」


 心配そうに滝を見つめる目には、一片の曇りもない。


 この温もりを手放すなんて、できやしない――。


「……なんでもないよ」


 滝はこれまで何度も言いかけた言葉を、吐き気とともに呑みこんだ。




 銀鼠ぎんねず色の空の下、滝は昼間から眠っていた澪をそのままに、大伝馬町の地本問屋――屋号は清野屋、堂号は空蝉うつせみ堂――の主人、清野京助のもとを訪れた。


 戯作の稿が未だ進まないことを詫びに来たのだが、


「どうした、お滝ちゃん。なにかあったのか?」


 よほど顔色が悪く見えたのか、人の好い京助が慌てて飛び出してきた。


 二十半ばと聞くが、京助もまた旗本はたもとの出で、商売を軌道に乗せるまでは苦労したらしい。


 他人の苦労話にも敏感な京助は、地本問屋の細々とした仕事を滝にまわしてくれるようになった。


 京助は、澪が春にわずらったことも知っている。


「ずいぶん、気落ちしているように見えるが。まさか……?」


「違います、ちょいと歩きたかっただけですよ。久しぶりに雨が止んだでしょう」


 滝は無理に笑って、喉まで出かけた言葉を呑みこんだ。


 普段は店の小僧が進捗しんちょくを伺いに来るのだが、京助になら、助けを求められるのではないか――と思うと、じっとしていられなかったのだ。


 怪談好きの京助は、その手の話に詳しい。


 そして、何より――。


 滝はもう一度、口を開きかけた。


 清野屋お抱えの、〈化物封じの絵師〉と噂される男に、会わせてもらえないか。


 ほんの少し、話を聞いてもらうだけでも構わないから――。


 そう言いたかったのだが、しかしいつものように、助けを求める言葉は音にならなかった。澪の医者を呼ぶためならいくらでも出せる大声が、己のこととなると、声の出し方すらわからなくなる。


「けどなあ……おっと、言ってるそばから雨だ。傘、貸してやるから持っていきな」


 京助が慌ただしく、店の中に引き返そうとする。


「いいですよ、こんな小雨くらいなら――」


 と、断ろうとすると、頭がくらりと揺れた。


 昨夜もろくに眠れなかったのだ。足がもつれて、背中から倒れそうになる。


「お滝ちゃん!」


 京助の焦った声がする。


 滝は痛みを予期して身構えたが、寸前で、たくましい腕に抱き止められていた。



――――

*暮れ六つ:午後六時頃。

*置屋:芸者を育成し、お茶屋や料亭へ派遣する。遊郭とは異なる。

*潤筆料:原稿料。

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