猫又(1)
ふと横顔を見ると、見慣れたはずの妹の瞳孔が、獣のように細められていた。
*
暮れ六つ(*)。
地本問屋の京助に新作の戯作の稿を届けた帰り道、滝は《《また》》あの音を聞いた。
鋭い爪で、何かを引っ掻くような音。その音が、滝を執拗に追いかけてくる。外でも、家の中でも。
滝は蛇の目傘を手放して、雨のなかを走り出した。
ガリガリと、耳を塞ぎたくなるような音が背後についてくる。
裏長屋まで必死に走って、家に飛び込んだ。
――助かった。
戸を閉めて、背を預ける。息が整わないうちに、背に衝撃が走った。今度は、戸を引っ掻いている。
〈爪の主〉は、家の中には入ってこられないらしい。周辺をうろついては、戸を引っ掻いていく。
「雨月? ……お前は、雨月なの?」
滝は耐えきれずに、行方知れずになっていた愛猫の名を呼んだ。
期待と不安の入り混じった滝の声に、音がぴたりとやむ。
沈黙が流れたかと思うと、今度は苛立ったように、戸を強く引っ掻きだした。
行灯の朱色の灯りが、妖しく揺れる。
粗末な戸は、いまにも倒れそうだ。
滝は部屋の隅に身を寄せて、己の肩を掻き抱いた。
――雨月。あんた、あたしを連れて行こうとしているの?
愛猫と言いながら、幼い頃から飼っていた三毛猫の雨月は、世話をしていた滝よりも、妹の澪のほうに懐いていた。
澪から片時も離れようとしないせいで、置屋(*)では〈憑き物筋〉と噂が立つほどだった。
その懐きぶりは愛らしく、同時に、少しばかり憎らしくもあった。
「……取って喰おうというなら、あたしだけになさい。お澪には、絶対に手を出すんじゃないよ」
滝は銀杏返しに結った髪から簪を抜き取って、胸の前で構えた。
「あんたと一緒には逝ってやれない。でも、いつかきっと、そっちに逝くから――」
滝が言い終えるまえに、ふっと気配が消えた。
入れ替わるように、特徴的な足駄の音が近づいてくる。
戸口がわずかに開き、艶やかな丹色の袖が揺れる。
「――どうしたの、お滝ちゃん」
戸を肘で開けた澪が、悲壮な面持ちで簪を握っている滝を見て、不思議そうに言った。
蛇の目傘を差しながら、甘酒の入った器を危なっかしい様子で抱えている。少しもこぼさないように、そうっと歩いてきたのだろう。そのとぼけた様子に、滝は肩の力を抜いた。
わかってはいたが、〈あれ〉の狙いは滝だけなのだ。
滝は複雑な心持ちで、黙って簪を挿し直した。
「はい。甘酒でも飲んで、休んでちょうだい。新作の稿、捗っていないんでしょう?」
澪が近づいてきて、滝の手に器を持たせる。
「お滝ちゃん、こんなに濡れて……傘を差さなかったの?」
手を握られて、滝の体に震えが走った。滝はあの奇怪な音以上に、妹を恐れていた。
病弱で寝込んでばかりいた澪が、咳き込まなくなった頃から感じている、強烈な違和感。
――この子は、本当にあたしの妹なの?
馬鹿げている、と滝は首を振った。姉妹二人、やっと手に入れた平穏だった。
父は殿様に仕える藩士であったけれど、没落して一家離散。滝と澪の姉妹は芸者の置屋に預けられ、幼い頃は辛く厳しい稽古に追われる日々だった。
幸い、滝が三味線、澪が琴の才を活かして、いまはここ――日本橋本石町の裏長屋で、音曲の師匠として姉妹二人で暮らせている。
暮らし向きは、悪くはない。滝は「滝亭右橘」という男名で、戯作を書いてもいる。
大伝馬町にある地本問屋――小さな版元の雑事を手伝ったのがきっかけで、片手間に書き始めたものだが、その怪異譚が巷で評判となってからは、戯作の潤筆料(*)も暮らしの足しになっている。
いま澪が着ている小袖も、滝があつらえたものだった。
丹色地に橘の実と葉とを組み合わせた、流行りの華やかな文様。
橘は家紋であり、一家が揃って暮らしていたとき、家の庭には橘の木が植えられていた。
滝と澪にとっては、思い返さずにはいられない、短い〈幸せのしるし〉でもある。
「……雷が鳴りそうだったから、走ったの」
滝がそう誤魔化して、澪から体を離そうとしたとき、甘く清涼な香りがふわりと漂った。
いつからか、澪の体から、橘の香りがするようになった。
「お澪、あんたのその香り……」
澪の白い首筋に顔を寄せると、澪は照れたように身を引いた。
「なあに、くすぐったいったら」
さらに顔を近づけようとしたとき――甘い香りのその奥に、どろりとした別の臭気を嗅ぎ取って、滝は急な吐き気に襲われた。
「お滝ちゃんっ?」
滝はとっさに片手で口を押えて、うずくまった。
腐った肉の臭い。
滝は口を押えたまま、澪を見上げた。
――お澪、あんた、もしかして……。
「お滝ちゃん、どこか悪いの?」
心配そうに滝を見つめる目には、一片の曇りもない。
この温もりを手放すなんて、できやしない――。
「……なんでもないよ」
滝はこれまで何度も言いかけた言葉を、吐き気とともに呑みこんだ。
銀鼠色の空の下、滝は昼間から眠っていた澪をそのままに、大伝馬町の地本問屋――屋号は清野屋、堂号は空蝉堂――の主人、清野京助のもとを訪れた。
戯作の稿が未だ進まないことを詫びに来たのだが、
「どうした、お滝ちゃん。なにかあったのか?」
よほど顔色が悪く見えたのか、人の好い京助が慌てて飛び出してきた。
二十半ばと聞くが、京助もまた旗本の出で、商売を軌道に乗せるまでは苦労したらしい。
他人の苦労話にも敏感な京助は、地本問屋の細々とした仕事を滝にまわしてくれるようになった。
京助は、澪が春に患ったことも知っている。
「ずいぶん、気落ちしているように見えるが。まさか……?」
「違います、ちょいと歩きたかっただけですよ。久しぶりに雨が止んだでしょう」
滝は無理に笑って、喉まで出かけた言葉を呑みこんだ。
普段は店の小僧が進捗を伺いに来るのだが、京助になら、助けを求められるのではないか――と思うと、じっとしていられなかったのだ。
怪談好きの京助は、その手の話に詳しい。
そして、何より――。
滝はもう一度、口を開きかけた。
清野屋お抱えの、〈化物封じの絵師〉と噂される男に、会わせてもらえないか。
ほんの少し、話を聞いてもらうだけでも構わないから――。
そう言いたかったのだが、しかしいつものように、助けを求める言葉は音にならなかった。澪の医者を呼ぶためならいくらでも出せる大声が、己のこととなると、声の出し方すらわからなくなる。
「けどなあ……おっと、言ってるそばから雨だ。傘、貸してやるから持っていきな」
京助が慌ただしく、店の中に引き返そうとする。
「いいですよ、こんな小雨くらいなら――」
と、断ろうとすると、頭がくらりと揺れた。
昨夜もろくに眠れなかったのだ。足がもつれて、背中から倒れそうになる。
「お滝ちゃん!」
京助の焦った声がする。
滝は痛みを予期して身構えたが、寸前で、逞しい腕に抱き止められていた。
――――
*暮れ六つ:午後六時頃。
*置屋:芸者を育成し、お茶屋や料亭へ派遣する。遊郭とは異なる。
*潤筆料:原稿料。




