ミシャグジ様(1)
荒魂と和魂、二つ揃って、一柱の神と成る。
*
「――愁水様」
と、庵の外から名を呼ぶモノがあった。
ちょうど昼飯時で、愁水は箸を止めて立ち上がった。
幼さの残る声音であったから、てっきり、京助の営む地本問屋の小僧かと思ったのだ。
柴戸を開けて顔を出せば、そこにいたのは二匹の、白い――。
「……猫か?」
愁水の呟きに、二匹が揃ってかっと牙を剥いた。
「虎でございますっ」
「――狛虎だな」
と、嗣巳が愁水の隣に立つと、狛虎たちは怯えて丸い耳をぺたりと伏せたが、逃げずに踏み止まった。
「狛犬じゃなく、虎なのか」
確かに縞模様が入っているが、大きさは子犬程度だ。
小刻みに震えていた狛虎たちだが、愁水が用件を促すと、堰を切ったように交互に話しだした。
「我らの土地神様を、助けていただきたいのです」
「人間どもに、地下牢に幽閉されているのです」
場所はどこだと問えば、江戸近郊の山岳地帯にある集落だという。
地図を広げて確認すると、歩き通しでも最低二日はかかる距離だった。化物にとっても、近くはなかったはずだ。
「それで、何で俺なんだ。俺に所縁のある村ってわけじゃねえよな?」
「愁水様は化物贔屓であらせられると、専らの噂でして」
「我らの間では、有名な噂でございます」
と、狛虎たちが頷き合う。
「それ、江戸の外まで広がってんのかよ」
どこまで広がるのかと、さすがに薄ら寒いものが走る。
「また、それかよ。絵師としての噂なら歓迎だけどよ――」
「良いではないか、愁水。ここのところ、絵の制作にかかりきりだっただろう。外に出て、刺激を受けた方がいいのではないか? ――お前たち、道案内を頼んだぞ」
横からすらすらと口弁を垂れる嗣巳に、愁水は食ってかかった。
「お前、何か企んでやがるな? 勝手に決めやがって――」
「考えてみろ、愁水。私の欠けた部位、最後の一つは何だ?」
至極真面目な顔で問われ、勢いを削がれた愁水は素直に答えた。
「虎の後ろ足、だな」
「そうだ。そして、ここにいるのは狛《《虎》》だ。何か関係があるかもしれん」
「こじつけにも、程があるんじゃねえか」
そう言いつつ、先日もいつの間にか蛇の尾を回収していたため、ばっさりと切り捨てるのも躊躇われる。
愁水のその隙をついて、嗣巳はさっさと二人分の旅支度を始めてしまった。
「――この辺りは、蕎麦の栽培が盛んだそうだ」
という嗣巳の言葉通り、春の淡い陽光のなかで、早咲きの白い花を咲かせた蕎麦の畑が、愁水の眼前に広がっていた。
近くには蕎麦屋を商う家が五、六戸並んでおり、嗣巳の足が迷うことなくそちらへ向かう。
その嗣巳は、神主の袴ではなく、楽だからという理由で僧侶の法衣姿だ。
道案内の狛虎たちはそれぞれ幼い少年少女に化けており、わっと歓声をあげて、嗣巳の背を追いかけた。
早朝に出立して、すでに昼九つ(*)。鵺の気配にも慣れたようで、狛虎たちも嗣巳にならって、食道楽を謳歌している。
愁水は護身用の脇差と旅行李が増えた程度で、紺の着流しに黒の羽織という、平生の装いだ。
嗣巳たちが蕎麦団子を堪能している間に、愁水は旅行李から矢立(*)を取り出して、わずかに見える秩父山の北嶺を描き留めた。
林に囲まれた道を歩き続けてきたが、ここに来て一気に視界が開けたのだ。
吹き渡る風が、心地好い。遠くに連綿と続く山容を認めると、気分もさっぱりとする。
嗣巳の目的が道中の屋台や飯屋であることは明らかだが、たまの遠出も悪くないなと、密かに考える。
そこへ、最近よく目にする黒蝶がひらりと視界を横切った。誘われるように手を伸ばせば、愁水の指先に止まる。
「なんだ、お前もついてきたのか? ――って、同じ個体なわけねえか」
ふっと笑いかけると、黒蝶は懐かない猫のように身を翻して、遠くへと羽ばたいていった。
「――へえ、あんたら、あの集落に行くのかい。あんまりいい噂を聞かないけどねえ」
蕎麦屋の主人に問われて行き先を告げたところ、難色を示された。
「噂って?」
「まあ、色々あるけど。訪ねていった人間が帰ってこないってのが、一番不気味さね」
狛虎たちに聞いてみても、答えは返ってこなかった。
日が暮れるまでに宿場町に泊まり、また日が昇る前に出立し――三日目の夕暮れに、件の集落の入り口にたどり着いた。
蘆荻(*)と雑草の原の先、黒々とした木立に囲まれた細い山道を突き進んだところで、山の中腹斜面上に集落が見えた。
家々は左右の端に不自然に固まって並んでおり、中央の境に社の建っているのが、何とも曰くありげに見える。
愁水がその縁起を問おうとしたところで、狛虎たちが地に倒れ、ぐったりと動かなくなった。
「ごめんなさい。我々は、ここまでです……」
「どうか主様を、この地より解放して差し上げて……」
愁水はとっさに手を伸ばしたが、狛虎たちは煙となって、社の方へと流れていった。
「待て、結界が張ってある――」
と、嗣巳が木々に結びつけられた注連縄を見上げて言ったが、すでに愁水が足を踏み入れた後だった。
「愁水、お前は……」
と、嗣巳が呆れたような視線を向けてくる。
「いや、何ともねえじゃねえか。これ、何なんだ?」
「道切り、というやつだな。魔や疫病神は、村の境から入り込んでくるからな」
「だったら、警戒するのは俺じゃなく、お前だろ。入れそうか?」
嗣巳が何か言いかけたようだったが、説明が面倒になったらしく、慎重に歩を進めた。
――何も起こらない。
「何だよ、大丈夫じゃねえか」
「古すぎて効力を失っているのか、それとも――」
「ごちゃごちゃ言ってねえで、早く行こうぜ。村人が気づくまでに、調べられるところは見ておかねえと」
「お前は、もう少し立ち止まって考えるということを身につけろ」
嗣巳の文句を背で受け流して、愁水は早速、村の中央にある社へと向かった。
社の入り口には狛虎の石像が鎮座しており、呼び掛けても反応がない。
「どうやら、魂だけ飛ばしていたようだな。村の外に出られなかったのか……力尽きて、眠っている」
と、石像を探っていた嗣巳が結論づけた。
「あれだけ飯を食っといて?」
「人間と化物では、魂と器の理屈が異なる。しかし、これでは地下牢がどこか、わからんな。……思ったより面倒そうだ。帰るか?」
愁水は冗談かと思ったが、嗣巳は心底面倒そうだ。
「お前……嘘だろ」
「そんな目で見るな。私が人でなしみたいだろうが」
実際そうだろ、という愁水の返しを無視して、嗣巳が天を仰いだ。
「……奇妙な匂いやら気配やらが入り乱れているせいで、私にも土地神の居場所がわからん」
「匂いと気配、か」
道中で狛虎たちが語った話によれば、この集落では創始に関わる二つの家が対立し合っており、土地神が心を痛めて《《色々と》》してやったそうだが――。
「その、色々ってやつの中身を聞いときゃ良かったな」
愁水がそうぼやいたところで、左右から複数の駆け足が迫り、夕闇から湧き出たように、愁水たちを取り囲んだ。
「あんたら、ここで何しとる」
と、右側にいた熊のような図体の男が、唸るように言った。
「俺は旅の絵師だ。道に迷っていたところで、こっちの坊さんと行き合ってな。一晩、どっかに寝かせてもらえねえかな?」
と、愁水は軽い調子で応じた。
「ああ、旅の方でしたか。これは、刀祢家の者がとんだご無礼を。法師様は我々、養学家が歓待いたしましょう」
と、左側にいた細身の男が、皮肉っぽい眼差しを右に向けながら、嗣巳に声をかけた。
てめえ、と気色ばんだ熊男の前に立ち、愁水は快活に笑いかけた。
「そんなら、俺の面倒はあんたらが見てくれるのか?」
「……まあ、お前さんは俺たちの方が、気が合うかもな」
羽織の上からでも、愁水の筋肉質な体躯が見て取れたのだろう。態度を軟化させた熊男が、顎をしゃくって合図する。
嗣巳と視線を交わしてから、愁水は刀祢家の者たちについて行った。
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*昼九つ:昼十二時。
*矢立:筆と墨壺を組み合わせた携帯用の筆記具。
*蘆荻:植物のアシとオギ。




