幕間 呪詛返し
鵺代神社の鳥居の先で、赤い筋の入った黒蝶が、竹藪の間をひらりひらりと舞っていた。
百々目鬼の一件以来、時折、式神の蝶が飛んで来る。
嗣巳が睨みを利かせれば、眼差し一つで蝶は紙に戻り、灰となって消えた。
送り主は、あの男装の陰陽師だ。害はなくとも、視界を彷徨かれるのは癪に障る。
愁水が「鳳蝶か?」などと言って愛でるため、裏で密かに始末するのも面倒だった。
陰陽師が相手では、常人である愁水は部が悪い。何か自衛手段を教えてやらなければ、嗣巳の気苦労は増える一方だろう。
ふむ、と考え込んだ嗣巳は、思いつきのまま、日本橋界隈の裏路地に棲む、万屋へと足を向けた。
「――愁水、話がある。ここに座れ」
「何だよ、改まって。……お前、書なんか読むのか?」
嗣巳が風呂敷を解いて、庵の畳の上に数冊の書物を取り出してみせると、愁水はその書名を見て眉根を寄せた。
「退魔の術じゃねえか」
「この先、術師相手に立ち回るなら必要だろう。殺せとまでは言わないが、無機物の式神くらいは、己で対処してもらわねば困る」
絵具作りに腐心していた愁水だが、その言葉を聞くと荒っぽく腰を下ろした。
「それで、何を教えてくれるんだ。先生?」
「何でも。陰陽術、修験道、密教に神道系列――何度も術を喰らったからな。術の精度と効果は、体感でわかる」
かつては鵺を調伏しようと、あらゆる術者が挑んできたものだ。
「体感って、お前に術をかけて練習しろってことか? 無抵抗の奴を痛め付ける趣味はねえんだが」
「私もない。心配しなくても、お前程度の術で傷など負うものか」
嗣巳は鼻で笑ったが、愁水は不服そうだ。まったく先が思いやられると、溜め息が漏れる。
「私相手に術が通用すれば、式神に遅れを取ることはない。……とはいえ、まずは座学だ。陰陽師の戦い方を知っておけ」
そう言いながら、最初に教えるのは陰陽道の〈思想〉からだ。
言葉には、霊力が宿る。
その言霊信仰に則り、陰陽師は声を発する儀礼――真言や祝詞の形式を借りた呪文を詠唱することで、霊的な力を呼び込む。
その霊的な圧力で相手の身動きや術を直に封じることもあるが、嗣巳の印象では、式神を操るか、あるいは呪いをかけることで間接的に、遠隔から攻撃することの方が多いようだ。
「後者の呪詛返しは、後で教えてやる。とにかく、言霊、結界、式神が基本の三つだ。最初は結界術だな。お前は体術が得手だから、初撃を結界で弾けば、近接戦に持ち込めるだろう。……不服か?」
「いや、武道と同じだろ。まずは徹底的に受け身――防御を覚える。攻撃を食らったら終わりだからな」
愁水ならば派手な大技を求めるかと思ったのだが、こういう所は意外と冷静だ。
結界を張る前に、呼吸法を体得しておく必要があるのだが――九字切りといった手印を結ぶ手の動きと、力の籠った発声を連動させるところに精度の違いが現れるものだ――愁水の剣術で培った経験を活かせば、思ったより上達は早いかもしれない。
《《素養》》があるのは、わかっているのだ。
呪詛返しは必須として、密教の仏神を呼び込むところまでいけば、あるいは〈派手な攻撃〉も――。
と、そこまで考えたのだが、結界術は持ち前の器用さで難なく習得したものの、攻撃となるとからきし駄目だった。式神の召喚など、到底望めないほどの。
「おい、やる気はあるのか――」
と、罵ろうとしたところで、庭に化物の気配を察知した。
結界を張っているわけではないが、大概の化物は、鵺の気配に怯えて近寄らないはずなのだが。
嗣巳が柴戸を開け放つと、黒い狩衣姿の禿が、体を引き摺るようにして近づいてきた。
愁水の姿を認めて手を伸ばすが、そこで力尽きて、倒れた。
――魂が、抜けかけている。
言葉を発する気力もないらしく、ぐったりとして動かない。
愁水が大股で近づき、小さな体を抱き起こした。
もっと警戒心を持てと言いたかったが、どうせ聞き分けないだろうと、愁水の好きにさせることにする。
「ほら、しっかりしろ。……お前、家守か?」
愁水がそう呟いて、禿を腕に抱いて戻ってきた。
嗣巳も、顔を覗き込んでみる。確かに、目蓋のない、黒々とした大きな目が特徴的だった。極めつけは、長い舌だ。時折舌を伸ばして、乾燥しないように眼球を舐めている。
ふと、嗣巳は家守の魂が安定していることに気がついた。
「――〈身固め〉か。お前、知っていたのか?」
嗣巳が尋ねると、愁水は怪訝そうな顔をした。
「いや。絞め技か?」
「違う。身固めというのは、陰陽師の術だ。……お前はいま、絞め技をかけたのか?」
「そんなわけないだろ。何となく、だ」
嗣巳は思わず笑っていた。
「本能か。本当に獣みたいなやつだな、お前は」
「……喧嘩なら買うぞ」
「褒めているんだ、喜んでおけ」
愁水は尚も続けようとしたが、腕の中で困惑している家守に気づき、言葉を呑み込んだ。
愁水の腕から下りた家守は、二人の前に改まって正座し、深く礼をした。
「私は、この地に住まう家の家守です。此度は危ういところをお救いいただき、誠に有り難うございました」
家守曰く、文字通り家の者を守るため、軒下に放り込まれた呪物を呑み込んだが消化しきれず、幽世庵に助けを求めに来たのだ――というが。
愁水の顔を見ると、こちらも困惑した視線が返ってきた。
近隣住民が神社に化物除けの札を求めて来ることはあったが、化物が救いを求めに来たのは初めてだ。
ちなみに、適当な文言を書いただけの札だが、嗣巳の匂いや気配は感じ取れるようで、一応、化物除けの効力はあるらしい。
「ここは、いつから駆け込み寺になったんだ?」
「愁水様は《《お噂》》通りの、化物贔屓でございますね」
と、家守は目を潤ませて応えた。人間の皮肉が、化物には救いの意味で浸透しつつあるらしい。
家守は後日礼をすると言い置いて、帰って行った。
「軒下に呪物か。どっちが化物か、って話だな」
と、愁水も慣れたものだが、術者は今頃、重症だろう。
身固めというのは端的に言えば、対象を強く抱き締めてやることで、体から離れようとする魂を肉体に留める術――だが、より詳しく言うなら、命を狙われた者を守る〈呪詛返し〉だ。
送り主に跳ね返る呪詛の威力は、呪詛を破った時点で倍返しとなる。
しかも、愁水がやったのは、対象の正体を言い当て、その魂を掌握した上での身固めだ。
教えてもいない基礎から応用までを、最も簡単な方法でやってのけている。
家守に纏わりついていた穢れの残滓も、すっかり祓われていた。
それを、可能にしたのは――。
嗣巳はしばし考えてから、己の血を混ぜた呪符をいくらか愁水に持たせた。
「何だ、これ?」
「人間には、向き不向きというものがあるんだろう。どうしても攻撃する必要があるときは、これを使え。……結界術だけは、会得しておけよ」
愁水は札を受け取りながら、にやりと笑った。
「罵る気満々みてえだったのに、えらい変わりようだな」
「ああ。お前はそのままでいい」
「……それも、褒めてんのか」
「褒めているとも」
「おい――」
文句を背中で受け流しながら、嗣巳は幼い頃の愁水の眼差しを思い出して、密かに笑いを噛み殺した。




