百々目鬼(6)
苔生した石段を上りきると、鬱蒼とした木々の陰に蔦の這う古寺が見えた。
辺り一帯は膝の高さまで伸びた雑草に覆われ、砕けた甍が辺りに散らばっている。
盗賊の根城になっている、という真澄の言葉通り、近寄る者もいない廃寺のようだ。
愁水が框戸に手をかけようとすると、嗣巳に片手で制された。
「愁水、調べもせずに入るな。何度言えば覚えるんだ、お前は」
「覚えた上でやってんだ。俺は、術のことはわからねえからな。入口でぐずぐずしている方が、間抜けだろうが」
そう切り返すと、嗣巳は少し考える素振りを見せたが、愁水が動く前に戸を開けて中に踏み込んだ。
「何だ? ずいぶん、あっさり――」
愁水も嗣巳の後について入ろうとすると、戸が独りでに閉じかけた。
「……っと、危ねえな。どうなってんだ?」
寸前で戸を押さえて、愁水は隙間に体を滑りこませた。愁水の背後で、勢いよく戸が閉まる。
それを見た嗣巳が戸に手を伸ばしたが、火花が散って、嗣巳を拒絶した。
「なるほど。人除けと、化物封じの術が二重にかかっているな。お前だけなら出られるぞ。帰るか?」
軽い火傷を負った手を見て、嗣巳が底意地悪く笑いかけてくる。
「馬鹿野郎。その体を傷つけるなって、お前こそ何度言わせりゃ気が済むんだ。大体、いつまでその姿でいやがるんだよ」
思えば、今日はずっと妹の姿でいる。嗣巳は面倒そうに、肩をすぼめた。
「女と鵺の姿にしか化けられない――と、思わせておきたいだけだ。手の内は、なるべく隠したほうがいいだろう?」
「ああ? 何の話だ」
「わからないのなら、いい。それより、こんな所で長話をするのは〈間抜け〉ではないのか?」
「……混ぜっ返すんじゃねえよ」
こうなれば、口を割らせるのは難しい。愁水は舌打ちして、先へと進んだ。
物音一つなく、人間の気配も感じられない。調度品のない荒れた本堂に、女が一人蹲っているだけだった。
「百々目鬼?」
愁水が声をかけると、驚いて顔を上げた女が、ふっと笑みを浮かべた。
「ああ……来てくれたの、愁水」
弱々しい声音に、生気のない瞳、石化した指先――愁水は、拳を握りしめた。
百々目鬼は、化物として消滅しかけている。
消える寸前の化物を何度も見てきたのだから、一目でわかった。
「俺に、あんたの絵を描かせてくれ。そうすれば、魂は消えずに済む」
あの時は失敗したが、化物の妖力を吸い、力を増した今の筆ならば、やれるかもしれない。
愁水が傍に膝をつくと、百々目鬼は体を起こして、両手で愁水の手を包みこんだ。
「おやめ、愁水。――あんたの筆は、綺麗なものを描くためにあるんだよ」
「……あんただって、最初は、大事なもんを守りたかっただけなんだろ?」
――同意のないモノは、描かない。
人の身に余る魔の筆を手にしたときに、愁水が己で決めたことだ。
その制約が、今は疎ましくてならなかった。
「そう。その時から、こんな終わりを覚悟してたんだ。あたしは、一人で虚しく消えていくんだって。愁水に看取ってもらえるなら、上等だよ」
――どいつもこいつも、強情だ。
人のことを言えない、と自覚のある愁水は、説得の無意味さも知っている。
生き方を曲げられないのが、強さではないことも。
「誰が、あんたをここに閉じ込めたんだ。〈商人〉か? 一体、どんなやつが――」
せめて、と尋ねたが、百々目鬼は愁水の言葉を遮った。
「さあね。あたしも、顔なんざ見ちゃいないから。それより、最後に頼みを聞いておくれな」
「……何だよ」
「大悪党の百々目鬼は、火盗改に捕らえられたと、証言してほしい」
「あんた、真澄の正体を知ってたのか?」
百々目鬼は小さく笑った。
「わかるさ。あの子はずっと、思い詰めた目で……。可哀想なことをした。きっと、真澄は苦しんでいるね。あたしの生はとうに終わっていたのだから、気にするんじゃないよ――と、真澄には伝えとくれ」
百々目鬼の片手が伸びて、愁水の頬に触れる。
「そんな顔をするんじゃないよ、愁水。あんたたちといた時間は……まるで、成長した息子たちと過ごしたみたいだった。あたしの魂は、充分、救われたんだよ……」
するりと腕が落ち、指先から石化が進む。瞬く間に全身に広がり、灰となって崩れた。
百々目鬼の頬を伝った、雫と共に。
浅葱色の着物だけが、愁水の腕に残った。
「――〈商人〉は、俺が斬ってやる」
愁水の唸りに、背後に立つ嗣巳が鼻で笑った。
「お前に人が殺せるかな。――まあ、いい。術も解けたようだ。私は先に帰るからな」
衣の裾を翻す音。嗣巳は、その場を立ち去った。
*
「やはり、ここにいたか。真澄」
高台の廃寺を見上げていた真澄の元に、久蔵が近づいてきた。
真澄は静かに微笑んだ。
「ええ。見届けるのが、私のお役目ですから」
「――お前が、〈商人〉なんだろう」
久蔵が確信を持って告げた言葉に、真澄は表情を変えなかった。
この鋭さゆえに、〈ご当主様〉は真澄をあの場に向かわせたのだ。
火盗改であった双子の兄を持ち、その死を偽装して兄と成り代わった真澄に、うってつけのお役目であった。
兄は武士に、妹である真澄は死んだ者として、野に捨てられた。
凍え死にかけた幼い真澄を救い、養子として迎えてくれたのが、陰陽師の頂点に立つ土御門家の、現当主だ。
「商人の捕縛のとき、俺を気絶させたのは化物ではなく、お前だったんだろう。吸葛の株をどこに隠した?」
真澄は久蔵から視線を外さず、周囲の草木に身を隠す者たちの気配を読み取っていた。
「――株は、こちらに」
真澄が袖に手を入れると、双頭の蛇が飛び出し、久蔵の首に巻きついた。
久蔵が蛇を引き剥がそうともがきだしたのを見て、隠れていた火盗改たちが飛び出してくる。
しかし抜刀する間もなく、四方から黒装束の者たちが現れ、呪符で悉く拘束した。
瞬きの間に終わったことであったから、気絶した火盗改たちには、何が起こったかわからなかっただろう。
「真澄様。――我らが、土御門の若様。ご指示を給わりたく」
黒装束の――真澄に仕える陰陽師たちが、地に膝をついて、頭を垂れる。
「この者どもを傀儡に。洗脳して、意思を奪え」
真澄は淡々と応じた。
これで、邪魔者は消えた。これからは、土御門家のために役立ってくれることだろう。
散開、と真澄が命じかけたところで、背後から足音が近づいてきた。
「貴方は……?」
振り返った先に、神主姿の男がいた。覚えのある顔ではない。人間離れした美しい見目は、一度見れば忘れるほうが難しいだろう。
「神主様ですか。騒がしくして、申し訳――」
真澄がにこりと笑って近づいた途端、全身が重圧で軋んだ。
「若様……!」
真澄は持ち堪えたが、配下は倒れたまま起き上がれずにいる。
――油断した。
「お前は……鵺?」
歯を食い縛って問いかけると、瞳孔が縦長になり――獣の目になった。




