百々目鬼(2)
*
目黒不動へと続く門前町の賑わいを背後に聞きながら、愁水は隣を歩く嗣巳に胡乱な視線を向けていた。
普段は同じくらいの目線だが、妹の姿でいる今は、愁水の肩よりも低い位置に頭がある。
長身の男が並んで歩くより目立たないだろう、という嗣巳の主張に押し負けたのだが、愁水は信じていなかった。
「嗣巳。お前、味を占めただろ」
「……何のことやら」
嗣巳は白々しく応じたが、娘の姿で買い物をすれば何かとおまけがついてくる――と、この鵺は余計なことを覚えてしまったらしい。
「そんなことより、愁水。帰りに参道の茶飯屋に寄ってくれ」
「あー、筍飯か?」
「ご名答」
名物料理まで把握してやがるのかと、愁水は顔をしかめた。
妙だと思ったのだ。嗣巳がわざわざ同行しなくとも、愁水が〈物〉を回収すれば済む話だったのだ。
愁水は、参道を振り返った。約六町(*)ほどの道の両側に、粟餅や飴を主に売る店が並んでいる。
久々に《《まとも》》な菓子も食いたいのだろうが、今日は物見遊山(*)に来たわけではない。
「参道じゃ遠回りだ。その辺の店でいいだろ」
「それなら、その辺の通行人を喰ってもいいか?」
声を潜めた嗣巳が、洒落にならないことを言う。
「……寄りゃあいいんだろ」
「大体、お前ときたら毎日毎日、鍋ばかり……」
「いいだろ、鍋。材料を適当にぶちこんでも、味噌と醤油、酒を混ぜておけば、どうにかなるんだからな」
腹が満たされれば味はどうでもいい、と考える愁水にとっては二重の意味で、化物が味にこだわる理由がわからない。
「浮き世(*)も長く生きると、大概のことは飽きるからな。これが数少ない娯楽なんだから、少しくらい付き合え」
愁水の考えを読んだように、嗣巳がそう言って妖しく笑ってみせた。
「だから、妹の顔で腹黒そうに笑うなってんだよ」
と、ぼやいているうちに、寺院や田畑を通りすぎ、件の屋敷――大名の下屋敷にたどり着いた。
近頃、この近辺で人や猫の血を吸う〈野衾〉という化物が跋扈していたが、下屋敷に常駐していた家臣に斬られ、主である隠居した藩主の部屋へと逃げ込んだ。
家臣団が野衾を追って部屋に踏み込んだところ、藩主その人が、刀傷を受けて絶命していたという。
化物の正体は、藩主であった、というわけだ。
この件は徹底して隠蔽されたが、土蔵に毎夜、怪火や化物らしきモノが群がるのだと、愁水のもとへ極秘に依頼が舞い込んできた。
化物が人間に化けていた話なら珍しくもないが、この一件は逆だった。絶命後の姿が、人間だったのだから。
「……鵺の酒」
と、嗣巳が呟いた。
「匂いがするか?」
「ああ。土蔵の方だ」
依頼人――野衾を斬ったという男に案内され、愁水と嗣巳は土蔵のなかを検分した。
米や高額な家財道具の蔵とは分けられており、記録文書や書物を保管した唐櫃(*)に、書棚と文庫(*)が並んでいる。
書物を手に取った愁水は、目を細めた。
神仙思想――〈不老不死〉を願う古代中国の思想に傾倒していた形跡が、ありありと見て取れる。
――人間の体は脆弱だからね。
そう気丈に笑ってみせた女を思い出すと、記憶のなかのその女は、いつだって泣く寸前のように、頼りなげに立ち尽くしている。
江戸入りする一月前、愁水は盗賊宿に身を置いていた。
各地に四散した鵺の身体の一部が、愁水の記憶を奪い、妹の身体に鵺の魂を封じたという〈陰陽師〉の手によって、悪用されている――と、嗣巳が告げたそばから、江戸へと向かう道中で、その悪用例に出くわしたのだった。
盗賊の女頭目と、それを追う火盗改との奇妙な共同生活は、ちょうど冬の長雨の間続いた。
――はみ出し者たちの、雨宿り。
そう表現したのは、火盗改の密偵だったはずだ。男装していた、真澄という名の――。
「ああ、この酒樽だな」
唐櫃の影に隠れるようにして、酒樽が並んでいる。その一つを指して、愁水は言った。
嗣巳に尋ねるまでもなく、嗅ぎ慣れた酒の匂いだ。
「こいつは密造酒だ。酒の材に変わったモンを混ぜている。これさえ捨てちまえば、化物も……」
話の途中で、嗣巳が動いた。愁水の背を庇うように、案内人の前に立ち塞がっている。
案の定、嗣巳の肩越しに、案内人の手が刀の柄に触れているのが見えた。
案内人の緊張と執拗な視線は感じていたため、愁水は得心して笑った。
元藩主が化物であったなどと、万が一にも吹聴されてはならない。ここで愁水たちを始末しておけば、その憂いも晴れるというわけだ。
相手の構え、眼差し――太刀取りで刀を奪えると踏んだが、嗣巳が鵺の姿に転じる方が早かった。
鋭利な爪で壁に押さえつけられた案内人が、目を見開いて絶叫している。
狸の胴、虎の右前足。先日まで欠けていた犬の左前足は、犬神を祀っていた祠の下に埋まっていたのを掘り返し、取り戻した。
鋭利な牙を剥き出しにしている顔は、文献によれば猿とされているが、凶相が過ぎて、実際の猿とは似ても似つかない。
足りないのは虎の後ろ足一本と、蛇の尾だ。鵺の酒の材となったスイカズラは、蛇の尾が変化したものだと言われている。
千切れた尾も痛々しいが、後ろ足の切断面からは血が流れ続けている。尋ねたこともないが、無痛というわけにはいかないだろう。
「悪いな。これで〈化物絵師〉の謂われがわかっただろ。心配しなくても、口外はしねえよ。あんたもそうだろ?」
案内人は壊れたからくり人形のように、ガクガクと首を縦に振って気絶した。
「私が居て良かっただろう」
娘の姿に戻った嗣巳が、剣呑な笑みを浮かべている。
「礼なら、この男の腕一本――」
「お前のほうが、よっぽど悪食じゃねえか」
嗣巳を半ば引き摺るようにして下屋敷を出ると、黒の紋付き羽織に長脇差――武士と町人の境のような、着流し姿の若い同心(*)が目に飛び込んできた。
その同心は愁水をじっと見つめたあとで、背を向けて歩きだした。
愁水も一定の距離を空けて歩き、同心が立ち寄った料理茶屋の暖簾をくぐった。
店の案内で、奥座敷に通される。
「本当に同心だったんだな。――真澄」
そこで待っていた若い同心――真澄が、愁水の率直な挨拶に苦笑を浮かべて頷いた。
――――
*六町:約六百四十八メートル(一町は約百八メートル)。
*物見遊山:名所旧跡へ行楽に出かけること。
*浮き世:「どうせ儚いなら、今この瞬間を楽しもう」という、享楽的で現世肯定的な言葉。「憂き世(辛く悲しい世)」という仏教用語から派生し、江戸時代以降に広まった。
*唐櫃:脚や蓋の付いた、中国伝来の大型の箱。書物や甲冑、衣類などを入れた。
*文庫:書物専用の小さな収納棚や箱のこと。
*同心:江戸幕府の下級役人。火付盗賊改方の配下で、警備や庶務を担当。




