幕間 御神菓子
「――上手く渡せたか?」
社務所の前を熊のようにうろついていた愁水が、嗣巳に気づいて振り返った。
平生の威勢に、少し欠けたような――愁水にしては、珍しく曖昧な声音だった。
彼の妹の姿でいるというのに、小言一つ言わないのも気味が悪い。
「なんだ、わざわざ待っていたのか? 犬神の絵なら、菓子屋の娘に問題なく渡してきた。そもそも、この姿ではわからんだろう」
「まあ、そうなんだけどよ……」
と、愁水が何か言いかけたが、呑み込むことにしたらしい。
警戒心の表れだろうかと、嗣巳は考えた。たがいに最低限の情報共有しかしないのが常であるから、何を隠そうと構わないのだが。
遠巻きにするようなその態度には、つい笑みが零れた。
――それでいい。
そうやってしっかりと、化物を警戒しておくべきなのだ。
化物とは、人が見出だし、原因不明、対処不能と判じた事象のこと――あるいは、災害と言い換えてもいい。
ただそこに〈在る〉モノと、一時心を通わせたとしても、所詮は人間側の思い込みに過ぎない。
そこのところを――〈化物の本質〉を分かっていない愁水は、力なきモノと見れば、見境なく手を差しのべてしまう。
一蓮托生であるいま、つまらないことで致命傷など負われてはたまったものではない。そう苦々しく思っていたところで、今回の犬神の件だ。
丁度いい、と嗣巳が目論んだ通り、人間の娘を犠牲にしかけたことは、愁水を激怒させた。
――さすがに、今度の一件で懲りたか。
何やら考え事をしている愁水の横を通り過ぎながら、嗣巳は良い兆候だと、心中で頷いていた。
「……何をしている?」
市中で耳にした〈噂〉の件で庵を覗くと、愁水が菓子の生地を捏ね回していた。
「見りゃわかんだろ、練り切りを作ってんだよ。白あんに求肥を加えて、練り上げたやつな」
「いや、練り切りなのはわかるが……まさか、私に食わせる気ではないだろうな」
「お前が食うに決まってんだろ」
遠慮しておく、と言いかけたが、ほんのりと薄紅色に染まった餡に、竹べらの角を差し込み、器用に花弁を描いていく様を見ているうちに、気が変わった。
化物は総じて、菓子に目がない。神への供物――神饌にも選ばれる菓子、いわゆる御神菓子は、妖にも力を与えてくれる。
人間がある形を模すとき、そこには相応の力が宿るものだ。
仕方がないと腰を据えれば、梅の形を模した菓子が目の前に突き出された。茶もないが、懐紙に乗せただけ、進歩と言えるかもしれない。
「それにしても、なぜ――」
わざわざ菓子作りなんか、と言いかけて、嗣巳は嫌な予感がした。
遠巻きに見るような愁水の目が、警戒心ではなく、気遣いの表れだとしたら。
その想像に吐き気がしたが、嗣巳の予感は当たってしまった。
「まあ元気出せよ、嗣巳。馴染みの店に行けなくなっちまったのは、俺にとっても痛手なんだぜ。あそこの菓子だけは、偏食のお前が文句も言わずに食ってたんだからな」
「お前、私に怒っていたんじゃなかったのか」
「そりゃ、あの時は怒ったぜ。だがあの娘は死ななかったし、お前は天秤にかけただけだろ」
「天秤? 何と何をだ」
「一人を犠牲にして、他を助けるかどうか。俺だって、全部救おうなんて考えるほど、傲慢でもお人好しでもねえ。だから、お前を裁く気はない」
愁水は余った菓子の材料を見ながら、さらりと言った。
「――お前が人を喰わずに済んでよかった。俺の感想は、それだけだ」
意表を突かれた嗣巳は、声をあげて笑っていた。
「本当に馬鹿だなあ、お前は」
「てめえ、喧嘩売ってんのか」
すぐさま腰を浮かせようとする愁水に、嗣巳は半ば感心する。相変わらず、思慮深いのか短気なのか、よくわからない人間だ。
気迫はなかなかのものだが、愁水は眩暈を感じたように、きつく目を閉じた。
疲労を顔に出さない男だが、さすがに体にきたかと、嗣巳は文机に置かれたものに目をやった。
犬神の牙に、柊が描かれた櫛。どちらも時花神が宿っていた器物であり、時花神が完全に消滅するまえにと、愁水が回収していたものだった。
犬神の魂は絵に宿らせたため、牙のほうはすでに〈空〉だ。
「犬神は簡単だったんだぜ。犬の牙はもともと、魂の形を表す勾玉の原型だしな。牙玉、だったか? 動物の霊力を身につけるために、作られたもんだろ」
古来より、人間は魂を別の〈器〉に分割し、保存できると考えてきた。そのため魂が消えたとしても、器物に残った残滓を掬い取り、絵に宿すことはさほど難しくはない。
化物は、誰かが覚えている限り、存在できる。愁水が思い出しながら描くことで、化物は絵という形を与えられ、紙に宿る。
ただし、描き手の体力をひどく消耗させる行為ではある。最初のうちは負荷が強く、愁水も頻繁に頭痛を起こしていた。
化物と長く共にいれば、いずれ必ず、人間の脆弱な体には深刻な影響がでる。
鵺である嗣巳など、人間の器に封じられていなければ、その穢れに耐え切れず、とっくに陰陽の比重を崩して倒れているだろう。
「こっちの櫛のほうが、まだ上手くいかねえんだ」
愁水がこめかみを揉みながら、呻くように言った。
櫛もまた、持ち主の髪や肌に触れるため、魂が宿りやすいモノなのだが――何かが足りないらしい。
この江戸に来て、愁水が絵師として初めて描いた狐の絵だが、未だに魂が定着させられずにいる。
愁水の作った菓子を口に運びかけて、嗣巳はふと思いついた。
菓子もまた、初めは魂の形を表すものだったはずだ。
「その時花神にも、菓子を作ってやったらどうだ」
平生ならば己の頭で考えさせるところだが、愁水の頭痛が悪化すれば、困るのは嗣巳のほうだ。
――忌々しい共生関係。
封印さえ解ければ、この兄妹が《《どうなろうと》》、すぐさま見捨ててやれるのだが。
「ああ、なるほどな。柊様と呼ばれた時花神なんだから、やっぱし柊だよな。葉は抹茶で、実は紫蘇で色づけするか――」
愁水が再び菓子を作り始めると、櫛から白銀の狐が現れた。
前足をそろりと愁水の膝に乗せて、手元を覗きこむ。その姿は、愁水の目には、まだ映っていない。
――相変わらずの、化物贔屓。
嗣巳は深々と溜め息をついて、愁水の菓子を口に入れた。
あの娘とは反対に、精巧な見た目の菓子は甘すぎて――やはり、不味かった。




