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【第一部・完結】幽世庵モノガタリ ~化物絵師と鵺~【幕末妖かしバディ】  作者: Yumiko
第二幕・時花神

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時花神(7)



「やめて……」


 こはるが動けずにいる間に、脇差を抜いた愁水がかさねと犬神の間に割って入ったのを、嗣巳が阻んだ。


 刀身を素手で掴んでいるのに――血が流れているのに、嗣巳は顔色一つ変えない。


「――お願い、やめて!」


 こはるは一番身勝手な願いを、渾身の力で叫んでいた。


 かさねと犬神、どちらも失いたくない。だから、この願いだけを叶えて、この先は誰の願いも叶えないでほしい。


 ――〈あの時〉のように、傍で見守っていてほしい。


 水溜まりに映る白い犬が、こはるの涙を拭うように、頬を舐めるのを視たことがあった。


 感触はなかったけれど、感じることのできないはずの温もりが、心には今も確かに残っている。


 ――何も出来なかった。


 ――それなら、せめて見届けなければ……。


 項垂うなだれていたこはるが顔を上げると、生暖かい風が、ふっとこはるの頬をかすめた。


 禍々しい獣はどこにも見当たらず、倒れているかさねも穏やかな寝顔に変わっている。


 やめて、という願いが叶えられてしまったのだと、遅れて悟った。


「なあ、あんたが望むなら……」


 と、愁水が何か言いかけたが、目の前に差し出された嗣巳の手が、こはるの怒りに火をつけた。


「触らないでよっ! あんたなんか、顔も見たくない。あんたのせいで……っ」


 嗣巳の頬を平手で鋭く打ったが、この化物が表情を変えないことくらい、とうに予想できていた。


 痛痒つうようを感じた素振りもなく、嗣巳は愁水を一瞥してから、ふっと姿を消した。


 ――大嫌いだ。


 心の底からそう思うのに、言葉にすると、胸が痛かった。


 けれど放った言葉は、なかったことにはできない。


 倒れているかさねを掻き抱き、こはるはその痛みに耐えた。




「――あの祠、建て直さないんだって」


 すっかり調子を取り戻したかさねが、彼女にしては珍しく、こはるの顔色を伺いながら言った。


 そう、と短く答えて、取って付けたように微笑を浮かべる。


 あれから、嗣巳の姿は見ていない。


 こはるの思いは、頼りなく揺れ続けていた。


 嗣巳へのわだかまりから目を逸らすことはできないし、当然だと思う一方で、大切にしたかったものを自ら手放し、壊してしまったような後悔もある。


「ね、あたしもう、焦らないわ。あたしを大事にしてくれて――何より、あたしも大事にしたいと思う相手に巡り逢えるまで、女を磨くことにする」


 こはるの顔を覗き込んできたかさねが、ありがとうねと、口早に言った。


「あんたが本気で心配してくれたの、嬉しかった。なんだか、胸があったかくなっちゃってさ。しばらくは、寂しくならずに済みそうよ」


 じゃあねと、かさねが慌ただしく去っていく。かさねが落ち着きを覚えるまで、まだまだ時間がかかりそうだと、こはるは溜め息まじりに笑って見送った。


「――お届けものです」


 菓子屋の屋号を呼ばれて振り返ると、美しい娘が立っていた。勝ち気そうな大きな瞳に、吸い込まれそうになる。


 娘はにこりと笑って、桐箱を突き出してきた。


 表情の読めない、無機質な笑い方。誰かに似ているような、と考えてみて、こはるは目を見開いた。


「ええと……」


「愁水から、貴女に。いまここで、中身を確認していただけますか?」


 こはるはのろのろと頷き、蓋を開けた。


 ――肉筆画の掛け軸。


 絵など流行りの役者絵しかまともに見たことがなかったけれど、それでも墨の濃淡を活かした見事な筆致には目を奪われたし、そこに描かれた犬の柔らかな表情は、こはるの心の欠けた部分を埋めてくれるようだった。


「これ、あたしがいただいても――」


 良いのか、と問いかけて、こはるは己の目を疑った。


 ――絵のなかの犬が、動いた?


「犬神の魂は、あなたの願いによって清められたんですよ。だからこうして、絵に宿すことができた。傍に置くことをお望みなら、このまま、どうぞ。お代は結構だそうです」


「本当に、あたしの願いが、あの子を救えたんですか……? あたし自身のための、身勝手な願いだったのに?」


「逆に問いますが、身勝手でない願いなんて、ありますか?」


 娘の大きな瞳は、細めると全く違った印象を抱かせる。獣のように鋭く、けれど理性的でもあって――危険だとわかっているのに、惹かれずにはいられない。


 異なる理に生きるモノへの、畏怖と憧憬に近いのかもしれないけれど、もちろん、それだけではない。


「己の為であるからこそ、嘘偽りなく、強かったんでしょう。身勝手な願いが、誰かを救うこともあるのでは? ――と、これは、愁水からの言伝ことづてです」


 ふっと、鋭い目をした美しい娘が、瞬きほどのわずかな間、柔らかな笑みを浮かべた。


 ――心配しなくても、貴方はそんなふうに、笑えたのね。


 こはるの指がぴくりと動いたけれど、実際には、手を伸ばさなかった。


「そうであって欲しいですね。傷つけることのほうが多かったとしても、生きている限り、願い続けると思いますから。……あたし、色々と思い違いをしていました」


 愁水は、別れ際にこうも言った。


 神は、願いを叶えてくれるんじゃない。叶えるまでの努力を見守ってくれるんだ――と。


 そこでやっと、こはるは気がついた。


 ――あたしは、あたし自身が弱いから、他人の弱さや過ちを許せなかったのね。


「では、お身体に気をつけて」


 娘が軽く会釈をして、立ち去ろうとする。


「貴方も……お元気で」


 そう言ってから、こはるは去っていく背に、声を張り上げた。


「ごめんなさい……っ!」


 娘が足を止めて、わずかに振り返る。


 それが、こはるが最後に見た、鵺の姿だった。


 こはるは掛け軸に添えられた和歌を見て、桐箱ごと抱き締めた。


 よそにのみあはれとぞ見し梅の花 


 あかぬいろかは折りてなりけり


 ――今までは、遠くから眺めるばかりだった、素晴らしい梅の花。けれど、見飽きることのない色や香りは、折り取り、身近に置いて初めて、本当に分かるものなのでしょう。


 触れてみなければ、わからないことが沢山ある。そして一度、温もりに触れてしまったなら。知らなかった時には、戻れないのだろう。


 人も、化物も――。




 


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