時花神(7)
「やめて……」
こはるが動けずにいる間に、脇差を抜いた愁水がかさねと犬神の間に割って入ったのを、嗣巳が阻んだ。
刀身を素手で掴んでいるのに――血が流れているのに、嗣巳は顔色一つ変えない。
「――お願い、やめて!」
こはるは一番身勝手な願いを、渾身の力で叫んでいた。
かさねと犬神、どちらも失いたくない。だから、この願いだけを叶えて、この先は誰の願いも叶えないでほしい。
――〈あの時〉のように、傍で見守っていてほしい。
水溜まりに映る白い犬が、こはるの涙を拭うように、頬を舐めるのを視たことがあった。
感触はなかったけれど、感じることのできないはずの温もりが、心には今も確かに残っている。
――何も出来なかった。
――それなら、せめて見届けなければ……。
項垂れていたこはるが顔を上げると、生暖かい風が、ふっとこはるの頬を掠めた。
禍々しい獣はどこにも見当たらず、倒れているかさねも穏やかな寝顔に変わっている。
やめて、という願いが叶えられてしまったのだと、遅れて悟った。
「なあ、あんたが望むなら……」
と、愁水が何か言いかけたが、目の前に差し出された嗣巳の手が、こはるの怒りに火をつけた。
「触らないでよっ! あんたなんか、顔も見たくない。あんたのせいで……っ」
嗣巳の頬を平手で鋭く打ったが、この化物が表情を変えないことくらい、とうに予想できていた。
痛痒を感じた素振りもなく、嗣巳は愁水を一瞥してから、ふっと姿を消した。
――大嫌いだ。
心の底からそう思うのに、言葉にすると、胸が痛かった。
けれど放った言葉は、なかったことにはできない。
倒れているかさねを掻き抱き、こはるはその痛みに耐えた。
「――あの祠、建て直さないんだって」
すっかり調子を取り戻したかさねが、彼女にしては珍しく、こはるの顔色を伺いながら言った。
そう、と短く答えて、取って付けたように微笑を浮かべる。
あれから、嗣巳の姿は見ていない。
こはるの思いは、頼りなく揺れ続けていた。
嗣巳への蟠りから目を逸らすことはできないし、当然だと思う一方で、大切にしたかったものを自ら手放し、壊してしまったような後悔もある。
「ね、あたしもう、焦らないわ。あたしを大事にしてくれて――何より、あたしも大事にしたいと思う相手に巡り逢えるまで、女を磨くことにする」
こはるの顔を覗き込んできたかさねが、ありがとうねと、口早に言った。
「あんたが本気で心配してくれたの、嬉しかった。なんだか、胸があったかくなっちゃってさ。しばらくは、寂しくならずに済みそうよ」
じゃあねと、かさねが慌ただしく去っていく。かさねが落ち着きを覚えるまで、まだまだ時間がかかりそうだと、こはるは溜め息まじりに笑って見送った。
「――お届けものです」
菓子屋の屋号を呼ばれて振り返ると、美しい娘が立っていた。勝ち気そうな大きな瞳に、吸い込まれそうになる。
娘はにこりと笑って、桐箱を突き出してきた。
表情の読めない、無機質な笑い方。誰かに似ているような、と考えてみて、こはるは目を見開いた。
「ええと……」
「愁水から、貴女に。いまここで、中身を確認していただけますか?」
こはるはのろのろと頷き、蓋を開けた。
――肉筆画の掛け軸。
絵など流行りの役者絵しかまともに見たことがなかったけれど、それでも墨の濃淡を活かした見事な筆致には目を奪われたし、そこに描かれた犬の柔らかな表情は、こはるの心の欠けた部分を埋めてくれるようだった。
「これ、あたしがいただいても――」
良いのか、と問いかけて、こはるは己の目を疑った。
――絵のなかの犬が、動いた?
「犬神の魂は、あなたの願いによって清められたんですよ。だからこうして、絵に宿すことができた。傍に置くことをお望みなら、このまま、どうぞ。お代は結構だそうです」
「本当に、あたしの願いが、あの子を救えたんですか……? あたし自身のための、身勝手な願いだったのに?」
「逆に問いますが、身勝手でない願いなんて、ありますか?」
娘の大きな瞳は、細めると全く違った印象を抱かせる。獣のように鋭く、けれど理性的でもあって――危険だとわかっているのに、惹かれずにはいられない。
異なる理に生きるモノへの、畏怖と憧憬に近いのかもしれないけれど、もちろん、それだけではない。
「己の為であるからこそ、嘘偽りなく、強かったんでしょう。身勝手な願いが、誰かを救うこともあるのでは? ――と、これは、愁水からの言伝てです」
ふっと、鋭い目をした美しい娘が、瞬きほどのわずかな間、柔らかな笑みを浮かべた。
――心配しなくても、貴方はそんなふうに、笑えたのね。
こはるの指がぴくりと動いたけれど、実際には、手を伸ばさなかった。
「そうであって欲しいですね。傷つけることのほうが多かったとしても、生きている限り、願い続けると思いますから。……あたし、色々と思い違いをしていました」
愁水は、別れ際にこうも言った。
神は、願いを叶えてくれるんじゃない。叶えるまでの努力を見守ってくれるんだ――と。
そこでやっと、こはるは気がついた。
――あたしは、あたし自身が弱いから、他人の弱さや過ちを許せなかったのね。
「では、お身体に気をつけて」
娘が軽く会釈をして、立ち去ろうとする。
「貴方も……お元気で」
そう言ってから、こはるは去っていく背に、声を張り上げた。
「ごめんなさい……っ!」
娘が足を止めて、わずかに振り返る。
それが、こはるが最後に見た、鵺の姿だった。
こはるは掛け軸に添えられた和歌を見て、桐箱ごと抱き締めた。
よそにのみあはれとぞ見し梅の花
あかぬいろかは折りてなりけり
――今までは、遠くから眺めるばかりだった、素晴らしい梅の花。けれど、見飽きることのない色や香りは、折り取り、身近に置いて初めて、本当に分かるものなのでしょう。
触れてみなければ、わからないことが沢山ある。そして一度、温もりに触れてしまったなら。知らなかった時には、戻れないのだろう。
人も、化物も――。




