時花神(2)
*
「――この祠、空だぜ。ご隠居」
愁水が頭を掻きながら振り返ると、平生は好々爺然としたご隠居が、床几に座ったまま手を振って喚いた。
「そんなわけなかろう、もっとよく見んか!」
「ねえもんはねえよ。大体、空の祠なんざ珍しくもねえだろう」
「この、罰当たりが――」
愁水の返答はますますご隠居を怒らせたが、事実を言ったにすぎない。
――鰯の頭も信心から。
――朝観音夕薬師。
と、口碑が示すように、ここ江戸では〈流行神〉と呼ばれるモノが、特に盛んなのだ。
一時熱狂的に信仰され、その後急速に忘れ去られてしまう神仏のことを、花に例えて〈時花神〉とも書く。
一度流行れば、小さな祠が門前市をなすまでになるのだが――。
人々に必要とされて生まれた、あるいは見出された神であるから、忘れられれば消えるか、化物になるか――。いずれにせよ、多くは人に振り回されたのち、儚く散る運命と決まっている。
「それで、御神体は何だったんだ?」
そう尋ねれば、《《またしても》》〈天狗の爪〉という答えが返ってきた。
「今年の初めに建てたばかりの祠じゃが――」
と、その縁起を語り出した信心深いご隠居の片足には、獣の噛み痕のようなものがくっきりと残っている。
青黒いそれは異様な様相を呈して、呪いの印のようにも見える。
「暗がりで襲われた翌日、祠が壊れていたんだよな?」
ご隠居は頷き、儂を魔のモノから護って逝かれたのだ――などと、今度は都合の良い解釈を語り始めたのを、愁水は半ば聞き流していた。
これで、《《四件目》》だった。
空の祠と、獣の噛み痕、その後の破壊。全く離れた別の場所で、同じ事象が四件も発生している。
愁水の絵の依頼者ばかりが狙われているのか、それとも同様のことが他でも起きているのかは未確認だが――化物絡みであるならば、追ってみる価値はある。
そして、四件の共通点は、もう一つ。
「おい、ご隠居。座ってろよ――」
床几から腰を浮かせたご隠居を押し留めたのは、愁水の呼びかけではなく、犬の前足だった。
「おお、心配してくれるのかい」
控えめに膝に乗せられた足を撫で、ご隠居が相好を崩す。その犬の背にも噛み痕があり、主人を護ろうと奮戦した様子が伺える。
この犬もまた、愁水が絵に宿した流行神だった。
流行神の主流は稲荷だが、動物から怨霊と認識された故人まで、信仰の対象は多岐にわたる。
――また、犬か。
今回は化物だが、被害を被った当人たちは、いずれも犬を飼っていた。
愁水たちが江戸に居を定めて、二月ほど。
その間に引き受けた依頼は、図らずも、寄る辺ない化物に居場所を提供するだけでなく、人間と化物の橋渡しとなった件も少なくはない。
寄り添う人と化物の姿に、痛々しい傷痕はひどく無粋だ。
剣呑に眉をひそめていた愁水は、ふっと力を抜いて、ご隠居に声をかけた。
「その足じゃ、何かと不便だろ。困ったらまた呼んでくれ」
茶でも飲んでいけ、とご隠居が誘うのを辞して、愁水は次の場へと向かった。
途中でふと思いつき、嗣巳が贔屓にしているらしい店で、手土産を買っていく。
看板娘は控えめだが愛嬌があり、ふっくらとした頬は血色が良く――化物が喰いたがるのは、こういった娘ではないかと、つい邪推した。
片足を痛めているような動きが気になり、愁水は娘に声をかけた。
「なあ、この近くに〈天狗の爪〉を祀った祠はあるか?」
途端に、娘の顔が翳った。
「ありました。でも、誰かに壊されてしまって――。恋明神なんて呼ばれて、流行っていたんですけれど。誰がやったんだか……」
愁水は不思議がる娘に礼を言って、懐に手を差し入れた。
先ほど祠の近くで、ご隠居に気づかれないよう密かに拾ったものが、指先に触れる。
それは、菊綴じと呼ばれる、神主の装束についた飾り房の端だった。
――何やってんだよ、嗣巳。
愁水は、心の内で呟いた。
鋭利なもので切り落とされたようなそれは、嗣巳が身に付けているものに、よく似ていた。




