第1話 異世界帰還と恐竜時代
業火が空を焦がし、大地が悲鳴を上げる異世界の果て。
三十年にも及ぶ過酷な修行と闘争の末、ついにその時は訪れた。
「これで、終わりっすね」
桜豪千・蓮は、崩れ落ちていく巨大な魔王の巨躯を見上げながら、短く息を吐いた。彼の周囲には、空間そのものを歪めるほどの濃密な魔力が陽炎のように揺らめいている。
物理干渉とエネルギー操作の極致。万物を意のままに操る大魔法使いとなった蓮の前に、もはや敵は存在しなかった。
「よくやった、勇者パーティーの皆。あとは……頼んだっすよ」
共に戦った仲間たちに別れを告げ、蓮は神との約束通りに現れた次元の扉を開いた。目指すは、三十年間夢にまで見た故郷、現代日本。
激しい光が彼を包み込み、そして、大魔法使いは異世界から姿を消した。
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「いやあ、日本の空気は最高っすね」
澄み切った青空の下、蓮は大きく伸びをした。
三十歳の細身ながらも無駄のない引き締まった体躯を、動きやすいジャージに包んでいる。少し長めの黒髪を後ろで無造作に結んだその顔立ちは涼しげだが、目元には大魔王を討伐した者特有の、底知れない静かな強さが宿っていた。
帰還した蓮が選んだのは、争いのない故郷の田舎でのんびりと暮らすスローライフだった。
彼にとって、家を建てることなど造作もない。粘土と木材を集め、巨大化魔法である万物拡充をかければ、あっという間に頑丈で快適な一軒家が完成する。
今は、家の裏手に広がる畑の前に立っていた。
「うん、今日も完璧に稼働してるっすね」
畑の地面には、淡い光を放つ幾何学的な模様が描かれている。蓮が独自に編み出した「自動追尾・吸引収穫魔法陣」だ。
これは、成熟した実り、つまり次世代の種を持つ野菜や果物を傷つけずに識別し、魔法陣の中心に近い順から優しく吸い寄せるという超高性能な便利魔法である。
ぽんっ、という軽快な音とともに、真っ赤に熟したトマトが宙を浮いて蓮の手元へ収まった。
「これなら腰も痛くならないし、最高のらくちん農業ライフっす」
蓮は採れたてのトマトをかじりながら、平和な日常を噛み締めていた。異世界での血で血を洗う戦いの日々はもう終わったのだ。
これからは、誰の命も奪わず、誰の命も脅かされない、静かな生活が続くはずだった。
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その平穏は、一瞬で天からの理不尽によって打ち砕かれた。
「そなたァァァァッ! この世界に何という強大な力を持ち込んでいるのですかっ!」
突如として上空の空間が歪み、神々しい光とともに一人の女性が降臨した。背中に純白の翼を生やし、神聖なオーラを放つその姿は、紛れもなくこの世界を管理する宇宙の女神だった。
しかし、その美しい顔は怒りで夜叉のように歪んでいる。
「えっと……女神様、っすか? トマト、食べます?」
「ふざけるんじゃありません! そなたのような規格外の魔力を持つ存在が現代社会にいれば、世界のバランスが崩壊します! 今すぐ元の異世界へ帰りなさい!」
「いや、俺は元々こっちの世界の人間ですし。それに、もう帰る方法なんて……」
「むむっ。私にも異世界へ送り返す力はありません! そうですねぇ。少し手荒ですが、時空を強制的にこじ開けて、過去へ吹き飛ばしてしまいましょう!」
女神が両手を掲げると、蓮の足元の空間がドロドロと溶けるように崩れ始めた。ブラックホールのような漆黒の穴が開き、凄まじい引力が蓮の体を捉える。
「ちょ、待っ……!」
「貴様の行き先は、恐竜時代後期! 間もなく巨大隕石が衝突し、地球規模の大量絶滅が起きる絶望の時代です! 隕石に潰されて死んでおしまいなさい!」
冷酷な捨て台詞とともに、女神は時空の穴を蹴り広げた。
抗う間もなく、蓮の体は真っ暗な時空の彼方へと真っ逆さまに突き落とされた。
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蓮が過去へと弾き飛ばされた瞬間、現代日本に残された畑で想定外の事態が起きた。
「な、何ですかこれは!?」
女神が慌てて後ずさる。
時空の穴が閉じない。それどころか、蓮が畑に敷いていた「自動追尾・吸引収穫魔法陣」が、女神のこじ開けた時空の裂け目に噛み込み、半分だけ過去の時代へと引きずり込まれてしまったのだ。
異世界の大魔法使いが構築した極めて精緻な術式と、女神による強引な時空干渉。その二つが最悪の形で融合し、致命的な欠陥を引き起こし始めた。
収穫魔法陣は、本来「成熟した実り」を回収するためのものだ。
しかし、時空の狭間で暴走した魔法は「生命を宿す力」を成熟した果実と誤認し始めた。そして、魔力伝導率の高い「女性」だけを、現代日本から恐竜時代へと強制的に吸引するブラックホールと化してしまったのだ。
「ひっ……!」
女神の顔が青ざめる。
魔法は、中心点、すなわち蓮がいた場所に近い順に、対象を優しく、だが絶対的な力で吸い寄せ始める仕様だ。
その現場にいる「女性」は、他でもない女神自身だった。
暴走した魔法陣の光が女神の体を捉え、その神体を時空の穴へと引きずり込もうとする。
「わ、私まで完熟した果実として収穫されるというのですか!? ふざけないでちょうだい! こんなでたらめな星、もう知ったことではありません!」
このままでは、自分自身も恐竜時代へ召喚され、巨大隕石の巻き添えになってしまう。自らの失態を収拾することは不可能だと悟った女神は、あっさりと地球の管理を放棄した。
彼女はありったけの神力を振り絞って魔法の引力を振り切り、時空の彼方、別の惑星へと全力で逃亡していった。
あとに残されたのは、現代日本から一分に一人のペースで、絶え間なく女性を吸い込み続ける暴走した魔法陣だけだった。
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「……おえっ。ちょっと酔ったっすね」
白亜紀に投げ出された蓮はゆっくりと身を起こした。
見上げれば、空を突くような高さ五十メートルを超える巨大な針葉樹がそびえ立ち、地面には見渡す限りのシダ植物が膝の高さまで群生している。
空気は生温かく、湿気を帯びていた。遠くからは、現代の動物園では決して聞くことのない、地響きのような巨大な咆哮が響いてくる。
「本当に恐竜時代まで飛ばされたんすね。女神様も容赦ないっす」
蓮は頭を掻きながら、周囲を見渡した。絶望的な状況だが、三十年間の異世界サバイバルを経験した彼にとっては、パニックを起こすほどのことではない。
だが、事態は彼の想像を超えた方向へ転がり始めた。
地面から4メートルほどの高さの位置で、一緒に引きずり込まれてきた「収穫魔法陣」が垂れ下がり激しく発光したのだ。
「お? 魔法陣も一緒だったんすね。でも、何を収穫……」
言いかけた蓮の頭上に、突如として人影が現れた。
「きゃあああああっ!?」
空中の魔法陣がある空間からポンッと放り出されるように現れたのは、現代の衣服に身を包んだ若い女性だった。




