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朧月

 遠く、遠くに霞んだ月が見える。自然と、右手が伸びる。次いで、左手が続いた。両手を伸ばして、つま先で立ち、背を伸ばす。身体中を伸ばしてもまだ、月には届かない。

「あぁ」

 白い息と共に、声が漏れる。悲しみを多分に含んだ声だ。続く言葉は、空気を震わすことはない。心の内で、小さくつぶやかれるのみだった。

 あぁ、それでもまだ、届かないのか。

 ゆるゆると身体を縮める。手のひらを目の前にもってくると、赤くなっていた。痛くて、冷たい。

 君と繋いでいた時は、温かかったのに。


 冬が、春と混じり始めていた。日は暖かく、木々も支度をしているのに、風だけが冷たい。鋭い風に眉をしかめつつ、僕は澄んだ夜空を見上げた。半月になりかけの月が、星と共に輝いている。

「きれい」

 マフラーの後ろから、呟いた。少し、マフラーが湿る。

「本当?」

 月よりも手前に、少女が1人いた。電信柱の上に。小学校6年生くらいだろうか。

「ね、綺麗って本当?」

 少女は質問を繰り返した。距離があるはずなのに、その声はよく聞こえた。

「君は、誰。どうしてそんなところにいるのかな」

「私? 私は月」

 またか。僕は苦笑した。また、人で無いものをみたらしい。

「月か。うん、きれいだよ」

「わぁ、嬉しい」

 月は笑い、ふわりと音もなく、僕の前に舞い降りた。闇色の髪に、金に輝く2つの瞳。確かに、月だ。

「貴方は、誰」

「……秋歩」

「秋歩。良い名前」

 丸く柔らかな頬に、大人びた笑みが浮かぶ。心臓が、大きく音を立てた。彼女に、聴こえてしまっただろうか。

 小さな掌が、こちらを向く。

「一緒に帰ろう、秋歩」

 君の家は、この先じゃないだろう。

 喉から出そうになった言葉を、飲み込む。掴んだ掌は、予想と違って温かだった。

 それから毎日、彼女と一緒に帰った。彼女は、毎日同じ所で僕を待ち、玄関の前まで歩いた。

 月が満ちると共に、彼女は美しい女性へと成長していった。満月の夜。僕の隣には、20代の美しい彼女がいた。

「月が、綺麗ですね」

 いつものように、手を繋いで歩く。彼女は、少し悲しそうにした。

「知ってる。初めて会った時も、秋歩はそう言ってくれたから」

「君は知らないのかな。この言葉の、もう1つの意味」

「知ってる。私もだから。でも、私と貴方は時が違う」

「うん、分かってる。駄目だなって、何度も思った。それでも」

「バカ」

「うん。そうだね」

 笑った。白い息が、もやもやと上を目指す。彼女も、つられて笑った。

 君とこうして、手を繋いで歩くことが幸せなのに。どうしてだろう、ちょっぴり、悲しいんだ。

 満月を過ぎ、月は欠け始めた。それと共に、彼女も年老いていった。

「月がなくなったら、君はどうなるの」

「新月になって、生まれ変わる」

「そうしたら、また僕に会いにきてくれる?」

 彼女は、小さく首を振って否定した。

「次の月は、もう私じゃない。私の記憶を持った誰か」

「……そっか」

 俯き、答える。胸の奥が苦しくて、泣きそうだ。繋いだ手を強く握ると、君も同じように握り返してきた。

 新月前夜、夜空に細い月が浮かぶ。君はシワだらけで、腰が曲がっていた。それでも、美しい。

「ねぇ、秋歩」

「何?」

「どうして私たちが会えたか、知ってる?」

「いいや」

 シワだらけの頬に、またシワが増える。

「私が、見つけたから。秋歩が毎日、月を見上げて『きれい』って言ってくれるから。嬉しくて、嬉しくて、つい声をかけてしまったの」

「うん」

「その時からもう、私は貴方に恋をしていた」

「……ねぇ。僕たちはどうして、新月の日に会えなかったのかなぁ」

 そうすれば、もっと長い間一緒にいれたのに。

 ぶらぶらと、2人の間に繋いだ手が揺れる。歩く歩幅は一緒、でも過ぎゆく時は違った。

 するり、絡まった指がほどける。

「さよなら、秋歩。今夜が終わるまで、決して忘れないから。……愛してる」

「僕も、愛してるよ。今夜が終わろうとも、僕は君を忘れない」

「ありがとう、秋歩。良い夢を」

「うん。……さよなら」


 本当に君は、いなくなってしまった。あれから、月を見上げる度に、君の事を思い出すんだ。あの時のように手を繋ぎたいのに、君には決して届かない。

「あぁ」

 あぁ、どうして。まだ朧月には早いのに、君の姿が霞んで見える。

 やがて、この悲しみも苦しみも、薄らいでゆく。君との日々は遠のいて、過去となる。それでも、君を忘れない。美しい月を、僕は忘れないよ。

「月が綺麗だ。死んでしまいたいくらいに」

 朧月に囁いた。たぶん、君には届かないけど。

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