名前
季節は冬。冷たい風に肌を切り裂かれながら、家へと帰る途中、見知らぬ青年に訊かれた。
「すいません。俺の名前、知りません?」
知るか!
今日は、家の近くのスーパーにメロンパンの屋台が来る日だった。学校の帰り道、いつもよりひとつ前の駅で降り、出来たてのメロンパンを買うのが高校生になってから日課になっている。詰襟の男子高校生が、メロンパン片手に帰る姿は少し不思議な気もするが、気にしない。メロンパンが美味いから。いつもよりひと駅分長い帰り道、早速手に入れたメロンパンを食べつつ歩く。この瞬間が幸せで、生きてて良かったとしみじみ思うのだ。
バス停のある大通りから一本奥に入った道。個性的な家が立ち並ぶ住宅街を歩いていた。その途中いくつもあるT字路のひとつを通り過ぎようとしたときだった。
「あの、すいません」
ふいに声をかけられた。見れば、背の高い青年が立っているではないか。彼は、困ったように笑い、こちらに近づいてきた。
「なんですか?」
「俺の名前、知りません?」
は? 一瞬、頭の中が真白になった。
「だから、俺の名前を、知りませんかって」
知るか! と思ったけれど、見るからに年上そうな彼に、そんなことは言えない。
「知りません。じゃあ」
これ以上かかわらない方がいいと判断し、歩き出す。
「えっ待ってよ。冷たいなぁ」
左腕をがっつり掴まれた。迷惑な兄さんだ。
「冷たい? 誰が、ですか」
「君のことだよ、メロンパン」
何故その固有名詞を選んだ。“少年”でいいだろ、そこは。
「冷たいって……俺、知りませんし」
「ではメロンパン。交番の行き方を教えてくれないか?」
「向こうの大通りに出て、右に曲がってしばらく行くとありますよ」
「じゃあ、学校は?」
「大通りまで行って左。そのまま真っすぐ行って、突当たりの道を左に行ってしばらく行けば、小学校があります」
「なぜメロンパンは交番や学校の行き方は教えてくれて、俺の名前は教えてくれないんだ?」
この兄さん、バカか? 改めて上から下まで眺めて見る。肌が白いのと、面がいいことを除けば、どこにでもいそうなノッポの兄さんだ。襲ってきたり、誘拐しようとしたり、悪い道へと誘ってきたりと、不審者らしいことは何もしていない、普通の兄さんだ。ただ、言動がおかしい。
「すいません。警察呼んでもかまいませんか」
「え、何で? 俺、怪しいものじゃないよ」
「安心してください。十分に怪しいですよ」
ポケットの中の携帯を握りしめ、取り出そうとすると、兄さんが慌てて止めてきた。
「ストップ、メロンパン。早まるのは良くないぞ」
その様子があまりにも必死なので、執行猶予を与えることにする。アウターのポケットに手を突っ込み、空を睨みながら、兄さんは何かを考え始めた。やることもなかったので、残ったメロンパンを食べることにする。最後の一口を食べ終わる頃になってようやく、兄さんは口を開いた。
「俺ね、自分の名前を忘れちゃった訳」
「はい。そこら辺は分かっているつもりです」
「あ、そう。まぁ、それで、思い出さなきゃなんないの。今日中に」
「今日中に?」
「そう。じゃないと、置いてかれちまうんだ」
やはり、彼の言葉はよく分からない。
立ち止ったままでも寒いので、とりあえず近くの公園を目指して歩くことにした。警察を呼ぶときも、分かりやすくて良いだろうと思ったのだ。それに、帰り道の途中でもある。
「記憶障害なら、病院行った方がいいんじゃないですか?」
「病院? やだよ。あそこ、暖房入ってて暑いじゃん」
「暑いの苦手なんですか?」
「苦手だね。人肌でも溶けちまう」
「にしては、温かそうな格好してますね」
淡い色のニット帽に、黒いアウター。深緑色のパンツを順に確認していく兄さん。それから、アウターを少しひっぱってこちらを向いた。
「服は身体の一部ですから」
「眼鏡は身体の一部だから。みたいに言わないで下さい。なんかムカつく」
青いフレームを指先で押し上げながら抗議する。が、効果はないようだ。
「いやぁ、なかなかに素早いツッコミ。メロンパンはツッコミ体質かぁ」
「勝手に納得しないで下さい。それと、メロンパンじゃなくて、秋歩です」
「アキホ?」
「俺の名前です」
「うわっ、何このメロンパン。俺の名前教えてくれないくせに、自分は名前で呼べっていうよ」
「教えないって……。今日初めて遭った人の名前なんか、知るはずないじゃないですか」
「いーや、絶対知っている。俺、有名人だからね」
と、そんなことを言ってる間に、公園に着いた。ふたつ並んだブランコに座る。
「有名人って、テレビ出てます?」
「出てるよ、毎年」
それにしては見ない顔だ。なんとかこっちが思い出そうと頑張っているのに、兄さんはブランコではしゃいでいる。ひゃっほーう、とばすぜぇ、などなど、まるで小学生だ。大きくため息をつくと、兄さんが話し始めた。
「いろんな名前で呼ばれてるけど……。大概、こう呼ばれてるっていう、固有名詞があったはずなんだ」
ざりざりと、靴底をすり減らして止まると、真剣な表情で遠くを見た。
「早くしないと、皆が来ちまう」
「皆?」
「あぁ。……くそっ、何だったかなぁ」
「皆って、どこから来るんですか」
そう質問すると、兄さんは右手の人差し指を上へ向けた。
「上? ……飛行機……とか?」
「いや、空からだ。俺も、そこから来た」
「お兄さんと話してると、頭が痛くなります。それ、日本語ですか」
「自慢じゃないが、俺は日本語以外話せねぇ」
自慢じゃねぇな。
「What your name?」
「I don’t know.」
「You can speak English.」
「I am genius」
HAHAHAと笑う兄さん。この兄さんなら一発殴っても許される気がしてきた。
「顔が恐いぞ、メロンパン」
真顔でそんなことを言ってくるものだから、ちょっとした怒りなんてすぐに霧散してしまった。あきれて溜息をつけば「悩み事か」などと訊いてきた。
「すいません。しばらく黙ってて下さい」
そう断りを入れて、ブランコをこぎ始めた。ブランコなんて久しぶりで、はじめは上手くいかなかった。けれど、だんだんとコツを思い出してくる。ある程度高さが出てきたところで、兄さんの方を見ると、やっぱり真剣な顔で遠くを見ていた。何か声をかけようと、口を開いた時、顔に滴があたった。えっと思い空を見上げる。視界いっぱいに広がった厚い雲から、ポツリポツリと滴が降ってきていた。
「うわっ」
急いでブランコから降りると、ゾウの形をしたファンシーな滑り台の下へと避難する。兄さんも一緒に来たため、少し狭い。
「どうしたんだ、急に」
「どうしたって、濡れないように避難してるんですよ」
「濡れるって?」
「雨、降ってるじゃないですか。ほらっ――て……雨じゃない、霙だ」
どおりで寒いわけだ。でも、どおせならなぁ。と、マフラーに顎をうずめた。すると、兄さんが強く肩を揺すってきた。
「今、なんて言った」
「へ? 霙、ですか?」
「ミゾレ……。そうだ、そんな感じの」
「ミゾレに近い名前ですか?」
「違う……。あの、出世魚的感覚で」
真剣で、切羽詰まったような表情と声音なのに、内容に緊張感がない。それでも、なんとなく言いたいことは分かった。
「もしかして、“雪”ですか?」
その瞬間、兄さんはこぼれんばかりに目を見開いた。
「そうだ……それだ。雪だ」
兄さんは、満面の笑みで笑った。
「ありがとな。これで、皆と行けるわ」
「だから、意味が……」
言葉を続けるよりも先に、兄さんが滑り台の下から外へ出た。兄さんに集中していて気が付かなかったけれど、いつの間にか、霙は雪へと姿を変えていた。慌てて外に出て辺りを見回す。この辺りの地域は冬でも暖かく、雪なんかめったに降らない。だから、高校生になった今でも、ついつい興奮してしまう。
「すげぇ……」
茫然と立ち尽くす背に、兄さんが声をかけてきた。
「本当にありがとな、秋歩」
振り向くと、兄さんがポケットに手を突っ込んで笑っていた。
「じゃあな」
そう言って、跳び上がった。とたんに、強い風が吹き荒れ、少し目を瞑った。再び開けた時にはもう、兄さんの姿は見えなくて……。
ただ白い雪が幻想のように視界を埋め尽くしていた。




