⑤
黎煌はそっと手を伸ばし、軽く璃華の頭に触れる。
その瞬間、璃華の体がぴくりと強張った。
「……大丈夫だ。手は出さない。ゆっくり眠るといい」
言葉を継ぐのもままならないほど疲れ切った璃華に、これ以上無理をさせるわけにはいかない。
その声に、璃華は驚いたように目を開けた。
ふと視線が交わる。
ただ見つめ合っただけなのに、黎煌の胸の奥に何かが熱く灯る。
けれど――璃華は、ほっとしたように微笑んだ。
「……お、おやすみなさい、れ、黎煌様」
「……おやすみ」
黎煌は、まるで猫を撫でるときのように優しく、璃華の髪をそっと撫でた。
その手つきに安心したのか、璃華はすぐに目を閉じ、穏やかに肩が上下をはじめる。
長衣を羽織ってはいるが、その下は裸体。
白くなめらかな肌、しなやかで女性らしい肢体が、目に焼きついて離れない。
(……欲情するなという方が、無理な話だな)
それでも黎煌は、撫でていた手をそっと止め、そっと引っ込めた。
(璃華――戻ってきてくれて、本当に良かった)
手を伸ばせば、触れられる距離にいる。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
黎煌は静かに目を閉じた。
穏やかな幸福が、ゆっくりと心を満たしていくようだった。
黎煌はそっと目を開け、慎重に身を起こした。
隣では、璃華が無垢な寝顔のまま、安らかな寝息を立てている。
(……ああ、なんと尊い)
その姿に思わず胸が熱くなる。
起こさぬよう細心の注意を払いながら、黎煌はそっと璃華の前髪に指を伸ばした ――そのつもりだったが。
ふいに、璃華の長い睫毛がかすかに揺れ、ゆっくりと持ち上がった。
「すまない、起こしてしまったか?」
「い、いえ……。さ、先にお目覚めになられていたのに……も、申し訳ありません……」
まだ言葉がたどたどしい。疲れが残っているのだろうか。
黎煌は思わず心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「無理をするな。今日は一日、ここでゆっくり休め。後宮へ戻るのは、すべてが片付いてからでよい。璃華が戻ったことは、まだ一部の者にしか知らせないつもりだ」
「は……はい……」
璃華が頷くと、黎煌は一呼吸おいて言葉を続けた。
「昨夜、考えをまとめたのだが、璃華は貴妃の呪術によって天人攫いに遭っていたことにする。そして、神意により奇跡的に戻ってきたと触れ回ればよい。そうすれば、璃華は天に選ばれし者として、誰もが敬う存在になれる」
語る声には確信があった。
黎煌は、自らの策に手応えを感じているように、満足げに微笑んだ。
「し……しかし、貴妃様は否定なさるのでは……?」
璃華が不安げに声を震わせる。
「貴妃は、大罪を犯した。死罪は免れぬだろう。――死人に口なしだ。真実は、墓の中に持たせる」
きっぱりと放たれた言葉に、璃華は青ざめ、口を噤んだ。
黎煌にとって、璃華に危害を加えようとした時点で、貴妃はすでに断罪すべき存在である。
よって、罪を上塗りすることに後ろめたさなど微塵もない。
だが、璃華は違う。心優しい彼女の中には、まだどこかにためらいが残っているのだろう。
「一部の者には、こちらでうまく話を通しておく。璃華は黙っていればいい。今、貴妃や司馬に璃華が戻ったことを知られれば、命を狙われかねん。絶対に、ここから出るな」
静かに、けれど強い口調で告げる黎煌に、璃華はただ黙って頷いた。
「……それでは、行ってくる」
その背に、迷いはなかった。
黎煌の瞳は、すでに戦を覚悟した者の光を宿している。
密書を手に取り、寝室を後にした。
すべての黒幕を――根絶やしにするために。
寝室を出ると、すでに迎えに来ていた侍中へ歩み寄り、低く鋭い声で命じた。
「璃華は天人攫いに遭い、昨夜、神意によって戻ってきた――これは極秘事項だ」
雷のような剣幕に、侍中は顔を青ざめさせながらも、すぐに動き出した。
(これで、璃華の身の回りの世話も不自由なく整うはずだ)
内心で頷き、黎煌は次に禁軍大尉のもとへと向かう。
皇帝自らが禁軍営房を訪れたとあって、現場は一瞬で騒然となった。
黎煌は禁軍大尉の前に立つと、その背後の兵たちにも響くような威風をもって告げる。
「司馬嶺の身柄を確保せよ。逆賊の証左は、すでに整っている!」
黎煌は密書を高く掲げ、断固たる口調で命を下した。
その言葉に、禁軍兵たちの士気が一気に高まる。
禁軍大尉は即座に命を受け、的確な指示で兵を動かす。
やがて、禁軍は司馬嶺の屋敷に突入し、逆賊を拘捕した。
続いて後宮にも兵が送り込まれ、貴妃もまた捕らえられた。
突然の禁軍の侵攻に、後宮内は大混乱となり、貴妃の宮に仕えていた女官たちも拘束される。
女たちの悲鳴が飛び交い、後宮全体が震撼した。
そして最後に、禁軍が向かったのは――北苑の幽宮。
そこには、かつて太子でありながら敗北した、黎煌の兄・黎泰がいた。
禁軍の先頭に立ったのは、黎煌その人。鎧をまとい、皇帝自らが剣を携えて乗り込んだのである。
突如現れた禁軍とその威圧に、黎泰はもはや成す術もなく、大人しく捕縛されたのだった。
この拘捕劇の中で、もっとも激しく抵抗したのは、屋敷にいた司馬嶺だった。
「不当だ! これは謀略だ! 無実だぞ!」
声を荒げ、わめき立て、なかなか牢に入ろうとはしなかった。
しかし、密書の存在、そして司馬嶺の屋敷から新たに押収された数々の証拠により、彼は次第に言葉を失っていった。
最後には、項垂れるしかなかった。
長年にわたり練り上げてきた陰謀は、わずか一日で瓦解したのである。
まさかその決定打をもたらしたのが――小さな黒猫だったとは、誰ひとり想像すらできまい。
こうして、反乱の芽は見事に刈り取られたのだった。
(……遅くなってしまったな)
白銀に輝く月が、静かに宮廷を照らしていた。
反乱は未然に防がれ、多くの命が救われた。
司馬と黎泰の計画は、想像以上に大規模なものだったことが次々に判明し、処理は混乱を極めた。
他国から銃や砲弾を密買し、密かに兵を集めていたという。
さらに、貴妃の宮殿からは、禁忌とされる巫蠱の栽培の痕跡が見つかった。
呪術と武力――内と外から皇位を奪うつもりだったのだ。
(……また、璃華に命を救われたな)
七年前も、霊獣の暴走に巻き込まれ、死の淵から璃華に救われた。
そして今もまた、彼女が危機を未然に防いでくれたのだ。
(もう、眠っているだろうか)
黎煌が寝室へと向かうと、宦官が静かに扉を開けた。
中に入ると、月明かりに照らされる璃華が立っていた。
あまりの美しさに息を飲む。
新たに支給されたのだろう。彼女が身に纏っていたのは、薄絹の大袖衫。
桃花のように淡く、月の光を透かして柔らかく輝いている。
ゆるやかに重ねられた長裙には、水辺を舞う翡翠の刺繍がほどこされ、披帛はまるで春風に遊ぶ霞のようだ。
その姿は花樹の下に立つ仙女のように、黎煌の目には映った。
「お、おかえりなさいませ……れ、黎煌さま……」
璃華ははにかむように微笑み、小さな声で言った。
「ただいま。すべて、終わったよ」
黎煌は静かに歩み寄る。
その胸に満ちるのは、目の前に璃華がいるという、何ものにも代えがたい喜び。
――本当に、戻ってきてくれたのだろうか。
一瞬だけ不安になって、そっと指先で璃華の頬に触れる。
温もりが伝わる。そのぬくもりに安堵する間もなく、璃華がびくりと肩を上げ、身をこわばらせた。
黎煌は、はっとして手を引っ込める。
(俺にとって、璃華は眩しすぎる)
この手が触れていいのかとためらうほど、愛しくて――大切な存在。
(……だが、今日だけは)
すべてが終わった安堵と、解き放たれた高揚感が、黎煌の背をそっと押した。
「……少しだけ、触れてもいいか?」
黎煌の問いかけに、璃華は驚いたように目を丸くした。
けれどすぐに視線を伏せ、小さく頷く。
「……は、はい」
その声には、拒絶も恐れも感じられなかった。
(今日だけは――天よ、お許しください)
黎煌にとって、璃華は天から舞い降りたかのような存在だった。
この地上の者が軽々しく触れてよい相手ではない。
けれど今だけは……ほんのひとときだけ、許されたいと思った。
そっと、璃華を包み込むように抱きしめる。
繊細な硝子細工に触れるように、ゆっくりと、慎重に、その身を寄せた。
璃華の柔らかい体の質感が伝わってくる。花の蜜のように甘い香りも。
最初は緊張でこわばっていた璃華の体が、やがて、黎煌の気持ちの応えるかのように、そっと背中に手を添えた。
それだけで、胸が熱く満たされていく。
こんな幸福が、この世にあるのだろうか。
黎煌は、今という瞬間を永遠に閉じ込めたくなる。
月明かりのもと、ふたりは静かに寄り添い合った。
黎煌は、それからしばらくのあいだ、璃華を抱きしめ続けていた。




