②
もし黎煌が愚鈍な弟であれば、兄たちの標的になることもなかっただろう。
だが彼は聡明で、武にも優れていた。あまりにも才覚が際立ちすぎていたのだ。
その才はやがて、命を脅かす刃となって降りかかる。
幾度も暗殺未遂に遭い、信じていた側近に裏切られ、黎煌の心は次第に凍りついていった。
望まぬ戦へと幾度も送り出され、誰もが「黎煌は討ち死にするだろう」と見限った戦場で、彼は生き残り、勝利を手にした。
そんな彼の噂は、捕虜にした敵将の妻子を公開処刑したという話や、侍女のちょっとした過ちに激怒し、無慈悲に打ち首にしたとか、あることないこと勝手に捏造され、広められていった。
そうして、冷酷無比の若き皇子という噂が出来上がったのだ。
事実、黎煌は鬼神のごとく強かった。
馬上から敵陣を切り裂くその姿は、敵将にとって悪夢の化身だったことだろう。
やがて彼は、感情を一切見せなくなった。
冷ややかな仮面をまとい、何を前にしても表情を崩さぬ――そんな黎煌が出来上がったのだ。
璃華が心を病み、言葉を詰まらせるようになったように。
黎煌もまた、過酷な環境の中で、変わってしまったのである。
(……血に濡れた俺を、璃華は恐れているのだろうか)
あの人は、清らかで、美しい。まるで聖女のような存在だ。
多くの命を犠牲にして玉座に座った男など、心を寄せぬのも当然なのかもしれない。
黎煌を見つめる、あの怯えた瞳。
それが、彼の心に深く突き刺さったまま、消えることはなかった。
(俺のような穢れた男が、あの聖女を娶ろうなど、天が許さぬのかもしれん)
そんな思いが胸の底に澱のように沈み、璃華に触れることも、傍にいることもできなかった。
好きだと伝えることさえできぬまま、璃華は――消えた。
共に生きるために、地獄のような日々を耐えてきたのに。
ようやく掴みかけた最も大切なものを、今、掌からこぼれ落としてしまった。
絶望が足元から忍び寄る。それに飲み込まれぬよう、気力だけで身を支えながら、黎煌は黙々と政務に向き合っていた。
(ここで倒れるわけにはいかない。俺には、この国と民を守る責務がある)
志高く帝位を望んだわけではない。
生きるために、皇帝になるしかなかった。それだけのことだ。
だが、皇帝となった以上、もはや己の欲だけを追うことは許されない。
この国の民を守り、暮らしを豊かにする。それが、黎煌に課された責務である。
(俺以上に、この国を背負える者はいない。だから――皇帝の座は、誰にも渡さない)
璃華も、小璃もいない現実。
心が折れそうになるたび、黎煌は己を奮い立たせた。絶望に沈む暇があれば、一筆でも多く政を進める。
そうして極限の中にありながらも、外から見れば、黎煌はいつも通り冷静沈着な、威厳ある皇帝であり続けていた。
政務を終えた黎煌は、寝室へ向かった。
(結局、小璃は今日一日戻らなかった。こんなことは初めてだ。何かあったのだろうか)
寝室の前で待機していた宦官が扉を開ける。
黎煌は軽く手を振ってすぐに扉を閉じさせ、ひとり静かな空間に身を置いた。
その瞬間、大きなため息が零れる。
部屋の中は燭台の火が揺れ、柔らかな明かりが静かに床を照らしていた。
ふと文机に目を向けると――
そこに、ちょこんと座る黒猫の姿があった。
「……小璃っ!」
黎煌は思わず声を上げ、駆け寄る。
「どこに行っていたんだ!」
胸に込み上げる安堵と怒りが入り混じる。
小璃は静かに大きな瞳で黎煌を見上げ、そして口にくわえていた何かを、文机の上にそっと置いた。
「ん? それは……巻物か?」
黎煌が問いかけると、小璃は尻尾を一振りして身を引く。
その仕草に促されるように、黎煌は巻物を手に取り、慎重に広げた。
「……これは!」
黎煌の目が見開かれた。思わず漏れた声に、驚きと戦慄が滲む。
無理もなかった。巻物に記されていたのは、黎煌が喉から手が出るほど欲していた、まさに、決定的な証拠だったのだ。
司馬嶺と、兄・黎泰の密書。
黎泰はかつて太子争いに敗れ、いまは北苑の幽宮に幽閉されている。
皇族であり、血を分けた兄でもあるために命までは奪わなかったが……まさか司馬と結託していたとは。
北の狐が司馬嶺であることは、すでに薄々察していた。
だが、青鷺が黎泰であったとは、これまで掴めなかった。
「なぜ、小璃がこれを……?」
黎煌は、信じられないものを見るように猫を見つめた。
とても賢い猫だとは思っていたが、まるで霊猫のようである。
小璃は、じっと黎煌の視線を受け止めるように見上げると、ふいに顔を背け、何かを決意したかのように寝台へと跳び上がった。
「……小璃?」
黎煌が優しく声をかけると、小璃は寝台の上で小さく背を丸めた。
絹の御帳がふわりと揺れ、その内側、透かし彫りの施された乳白の帳越しに、黒猫の姿が徐々に変化していく。
闇の中から浮かび上がるように現れたのは、真っ白な肌と、艶やかに流れる長い黒髪。
まるで天女が舞い降りたかのような、美しくも妖艶な女性の姿だった。
胸元は黒髪に隠れているものの、豊かな曲線ははっきりと浮かび上がり、目を逸らすことができない。
彼女は黎煌に背を向け、恥じらうように身をすくめながら、傍らの掛け布をたぐり寄せて裸身を覆った。
「……璃華……?」
思わず漏れた黎煌の声は、わずかに震えていた。
目の前で起きている現実を、すぐには受け止めきれなかった。
猫が人へと変化したことすら信じがたいのに――
その人間が、失われたはずの璃華だなんて。
さらに、惚けてしまうほどのあまりにも美しい裸体がそこにある。




