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陛下、それは猫ではなく後宮妃です!~姿を変えて、冷徹皇帝の溺愛本音を聞いてしまいました~  作者: 及川 桜@『後宮の料理妃2』発売
第四章 交わした約束

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 初めて見る本物の霊獣に、息を飲む。黎煌も驚いていたが、璃華を守るようにその肩を抱いていた。

 狻猊の目は怒りに染まっていた。

 赤く光る瞳で、祭壇を見下ろす。


 飛び散った鮮血、焼け焦げた供物、爆ぜる香。

 穢れた香煙が天へと昇っていく様を、狻猊はじっと見つめていた。

 神の居場所を侵した罪を、狻猊は見逃さなかった。

 低く喉を鳴らし、牙をわずかに覗かせる。


 そして、狻猊の瞳に捉えられたのは――黎煌だった。


「え……?」


 璃華は思わず声を漏らす。

 狻猊の怒りは、明らかに黎煌に向けられていた。

 まるで、儀式を破壊した元凶は黎煌だ――そう告げるような、獣の形相。


「……まずいな」


 黎煌が小さく呟いたかと思うと、その刹那、璃華から離れるように横へと駆け出した。

 それを追って、狻猊も獅子のごとく俊敏に地を蹴り、一直線に黎煌へと跳びかかる。

 黎煌はすぐに狻猊に追いつかれ、鋭い牙が喉元に迫る。その寸前、彼は手にした長剣を横にかざし、狻猊の顎に食い込ませた。


「……くっ!」


 咆哮とともに押しつけられる凄まじい力に、長剣ごと吹き飛ばされそうになる。

 黎煌は脂汗を滲ませながら、必死に踏みとどまった。


(このままじゃ、黎煌が……殺されてしまう!)


 璃華は震える足に叱咤を飛ばし、よろめきながら立ち上がる。

 祭壇へ駆け寄り、床に零れた香炉の灰をひと掴みした。


「熱っ……!」


 灰はまだ火に焙られており、手のひらが焼けるように熱かった。

 けれど、今は痛みにかまっている余裕などなかった。

 璃華は思いきり、その灰を狻猊の顔めがけて投げつけた。


「キィィエェェッ!」


 裂けるような甲高い悲鳴が蒼穹台に響く。

 神聖なる香の灰は、璃華の想像以上に効果があったらしい。狻猊は目を閉じ、苦悶の声を上げながら右へ左へとよろめき始めた。


「黎煌! 神域に逃げるの! こっちよ!」


 璃華が振り返りながら声を張る。

 それを聞いた黎煌もすぐに体勢を立て直し、璃華のあとを追って蒼穹台を飛び出した。


 外には、多くの人々が不安げな面持ちで、蒼穹台を見上げていた。

 だが璃華は彼らに目もくれず、一直線に森の奥へと駆け込んだ。

 その直後、背後から再び悲鳴が上がる。

 狻猊が、蒼穹台から現れたのだ。

 走りながら振り返ると、なおも目を開けられずにいる狻猊が、右往左往しながら人々を無差別に襲っていた。


 黎煌の足が止まる。人々を助けに戻るべきか、迷っているようだった。

 それを察した璃華は、彼の手をぐっと強く引いた。


「だめ! いまは逃げて! 狻猊が狙っているのは、あなたなんだから!」


 巫女の血を引くせいだろうか。

 璃華には、狻猊の怒りとその矛先が、明確に黎煌に向けられていることが直感的にわかった。


 璃華の言葉に、黎煌は一瞬ためらったが、やがてその手を握り返し、黙って彼女の後を追い始めた。

 ふたりは手を取り合い、湿った風を切り裂くように森の奥へと駆けていった。

 枝葉が肌を掠め、踏みしめるたびに濡れた苔の匂いが空気に弾ける。

 背後からは、低く重い咆哮が響いた。

 振り返らずともわかる。

 ――狻猊だ。

 怒りに燃える紅い瞳が、ふたりの背に焼きついている気がした。


「こっちよ!」


 璃華の声に導かれ、黎煌もまた無言で森を駆ける。

 やがて、朽ちかけた石門が姿を現した。

 蔦に覆われたその門の先。木々の間に、何かが風に揺れていた。

 ――布、だ。

 それは、半ば崩れかけた門に吊るされた古びた繡帳しゅうちょうだった。

 時に擦れ、色褪せた布地には、幾多の霊獣たちが淡い絵糸で刺繍されている。

 天を駆ける青龍、火を抱く朱雀――その中に、一際柔らかな筆致で描かれた一匹の猫がいた。

 長い尾をたなびかせたその猫は、他の霊獣のような威圧感ではなく、どこか人の心に寄り添うような穏やかさを漂わせていた。


「ここを抜けるの!」


 璃華が布をかき分け、黎煌の手を引く。

 繡帳の裏は、まるで霧に包まれた別世界だった。

 踏み入れた瞬間、空気が変わる。風が止み、音が吸い込まれるように消えた。


 そこは、神域だった。

 澄みきった空に、遥か高く伸びる神樹。

 大地には光る霧が漂い、草花は静かに露を宿して揺れている。

 世界そのものが、息を潜めてふたりを迎えているかのようだった。

 背後で、狻猊が繡帳の前で足を止める。

 ふたりを追っているはずなのに、狻猊は中に入れず、くうんくうんと悲しげに鼻を鳴らしていた。


「これは一体……。なぜ、あの化け物は中へ入ってこられない?」


 黎煌が、まだ信じられないといった様子で璃華に尋ねた。


「化け物じゃなくて、霊獣の狻猊よ。本来は、私たちを守ってくれる神の使いなの。狻猊も普段であれば中に入れるのだけど、今は怒りで凶暴化しているから入れないのだわ。でも、きっとじきに正気を取り戻すはず」


「……なるほど。ありがとう、助かった」


 黎煌が優しく微笑む。

 その笑顔に、胸の奥がむずがゆくなって、胸の奥がふわっとあたたかくなった。

 顔が熱くなるのを悟られまいと、璃華は思わず目を逸らし、早口で言った。


「でも、まだ油断はできないの。ここは本来、踏み入ってはならない禁域。霊気が濃すぎるから、清らかな者しか入ってはいけないとされているの。悪に染まった者は結界に弾かれるというわ」


「そうか……清らかな者、か。まさに、璃華のための場所だな」


 黎煌はふっと目を細め、璃華の頬にかかった髪を指先でそっと耳にかけた。

 その仕草に、甘い空気がふたりの間に流れる。

 胸が高鳴り、心臓が早鐘を打ち始める。

 けれど、ふと黎煌の額に浮かぶ大粒の汗が、璃華の目に留まった。


「……黎煌? どうしたの?」


 よく見ると、彼の顔は蒼白で、呼吸も乱れていた。


「はは……どうやら俺は、招かれざる客らしい」


 黎煌は胸元を押さえ、絞り出すような声でそう呟いた。その刹那、ふらりと体を傾け、そのまま崩れ落ちた。

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