一話
始まりはあの瞬間だった。
気づいた時、彼女は死んでいた。
深い水底へと帰っていく様に、体が沈んでいく事だけを感じている。
何をしていたのか、思い出せずにいた。
別に思い出す必要もない。
(何で死んだかなんて、思い出すだけで悲しいじゃん)
ただ、誰かを助けようとしていた事だけは静かになっていく闇の中でもはっきりと覚えていた。
眠り行く意識の中、彼女の元にゆらゆらと自由奔放な光が近づいて来るのを感じ取る。
近づいて来るのかと思った光は、しばらく、周りを回ったり、離れてこちらを観察したりしていた。
(なんだろう……用があるなら話しかけて来ればいいじゃない)
じらされた彼女はゆっくりと目を開く。
真っ白な光が目の前を照らしていた。
思わず、目を凝らしてしまう。
「あっ、やっと目を覚ましたのね。でも、機嫌が悪そう……どうして、そんな顰めっ面なの?」
小鈴の様に軽やかになる声は純粋な疑問で尋ねて来た。
「名前は覚えてる? 〈忘れてしまった〉でしょ?」
〈忘れてしまった〉部分が聞き取れず、彼女は首を傾げる。きっと、自分の名前だったに違いない。
代わりにボソッと今の気持ちを呟いた。
「眩しい……」
彼女の一言に光は慌てて弱くなる。
「あぁ! ごめんね。朝日って眩しい方が目覚めた時の気分がいいでしょ? あなたもそうかなって思っちゃって……」
申し訳ないと手を合わせながら真っ白な女性が姿を現す。
目は大きく開いて、水色の宝石の様に輝いている。
クスクスと小鈴の様な声はまるで子供の笑い声だ。でも、目の前にいる彼女はとても大人びている。
服は真っ白な絹の布が延々と体に巻き付けている。
目の前の女性を女神と言うのだろうと彼女はぼんやりと思った。
「……」
ぼーっとする自分に、目の前の彼女は気にせず話しかけて来る。
「あなたは死んでしまったの。でも、悲しまないで、みんなは自然の摂理や楽観に取られるべきじゃないって言うだろうけど、あなたは胸を張れる選択をして死んだと思うよ」
(褒められても、嬉しくない……)
話題にされると嫌でも自分の死について考えてしまうが……思い出すのが、嫌なのかもしれない。
記憶が断片的に見えるが、なんなのか分からなかった。
「それでね……私、あなたにお願いがあるの」
女神は少し申し訳なさそうに顔を覗き込んでくる。
「また、あなたが頑張る姿を私に見させて欲しい」
ただ、期待をのせて女神はそっと沈んでいく私のオデコにキスをした。
曖昧な記憶と過去を抱えて、目を覚ます。
真っ白な霧は冷たく、鬱屈とした空気がいつまでも流れている。
彼女は納得しづらい夢から覚めて、体を起こした。
ぐ〜っと小さなお腹から虚しい音が響く。
(何か、食べたい……)
そう思いながらゆっくりと四つの足を動かしていった。
遠くの方で悲鳴が聞こえる。
嘲る声に包まれて消えていく。
近くで嗚咽を呑む者がいた。
見上げてみると自分よりも何倍も大きな巨人が蹲っている。
汚れ切った服からはツンッと鼻を刺す様な酷い匂いと曲がりそうなお酒の香りがした。
(なに、このオッさんは? 酷い匂い……)
蹲っていた巨人はこちらをチラリと見下ろす。
心のうちを覗かれたのかもしれない。
巨人は低い声で呟く。
「おい、俺がそんなに惨めなのか?」
毛深い手は小刻みに震えて近づいて来た。
ニヤリと笑みを浮かべる口の中は、見ているだけでも悪臭を感じ汚れて、捻くれている。
食われてしまうと思った。
恐怖に跳ね上がり、慌てて、お店の中に飛び込む。
(きゃあ! なんなのあの人は、大きくて気持ち悪い、怖い)
怯える彼女は外を見ると影に隠れて黒くなった巨人を目撃する。
のっそのっそと哀愁を漂わせて霧の中に消えていった。
脅威が去ったのだと、感じた彼女は安堵のため息をこぼす。
(良かった、食われるかと驚いちゃった)
安心できた彼女は辺りを見渡す余裕を手に入れた。
外よりも暗い店内は埃が積もっており、しばらくの間、使われていない様子だ。
(ここは服屋さんかしら?)
寂しそうに立つ胴体だけの巨大なマネキンを見ながら思った。
チラリと隣を見ると大きな鏡が同じ様に大きな布に覆われている。
(生まれ変わった先は巨人の世界だったのかな?)
ぼんやりと不便な世界に来たと思いながら、布を引き剥がし、鏡を露わにする。次の瞬間、彼女は目を見開く。
大きな鏡の下の下、僅かな隙間に、炭と泥に塗れた醜く痩せこけた子猫が一匹立っていた。
(これが……私?)
この世の悲しみを凝縮した様な水色の瞳はプルプルとこちらを見つめている。
子猫は、自分が子猫になったことをようやく気づいた。
パリン!
驚いていた子猫だが、突然、店前のガラスが割れる音に跳ね上がる。
見ると若い二人の盗人が血の付いたパイプで、窓を叩き割っていた。
「はは、まさか、未開拓の店があるなんてよ! 早いところ中に入ってあるモン持ってくぞ」
「姉貴、まずいって、この辺りは警察が見ている……見つかったら」
「なぁに、どうせ、ウチらなんか点数にもならないってほっとくだろ? それにウィザーロードの契約がある? アレを無視するなんて死よりも恐ろしいんだ。関係ねぇ」
慌てて物陰に隠れた子猫は盗人の様子を静かに見守る。
彼らは割った窓を跨るとズカズカと中に踏み入っていた。
「潰れてだいぶ経ちますね」
「クッソ! ろくなもんねぇな」
マネキンを蹴飛ばして怒りを見せる。
子猫の自分から見れば、二人の巨人が暴れている様で恐ろしかった。
子猫は机の下でジッと息を殺す。
(見つかりません様に、見つかりません様に!)
必死に祈っていた。
祈りが通じたのか、彼らは肩を窄めて、出ていく話をし始める。
「しゃあない。さっきのホームレス、掻っ捌いて今回は凌ごう。アレなら十分だろ。あとは、この鏡だな、魔女どもはこう言うのを好むし……」
マネキンの隣にあった鏡を見ていた片方が言葉を失う。
「どうしたんです、姉貴?」
不思議がる相方に盗人はニヤリと笑みを浮かべる。
「もっといい物を見つけたぜ」
くるりと向きを変えると物陰に隠れていた子猫を見下ろした。
「こんな所にまだ小さい猫がいるじゃねえか」
「あぁ、本当だ。猫は確か……」
「ウィザーロードの天敵だ。持ち帰ればたんまり報酬になるかもしれねぇ」
自身が猫だと驚く暇もなく、更なる危機が子猫に降りかかる。
子猫は慌ててその場を離れる。
「あ! 逃すか!」
スルッと扉を通り抜け、外へと駆け出した。
店を抜け出ると霧が立ち込める道を走り抜けていく。
血の匂いが灰色の世界に漂っていた。
(どうしよう、どうしよう! どこか安全な場所に)
一寸先すら白い霧で見えない世界で、パニックになる子猫は近くの路地に逃げ込む。しかし、その先に道はなかった。
(行き止まり! どこか抜け道とかないの?)
目の前には高い石レンガの柄があるだけだ。周囲には隙間も物陰も存在しない。
追い詰められた子猫は後ろを振り返る。
盗人の足音が近づいて来ていた。
(あの人たちの下を潜り抜けられるかな……)
自信のない案に首を振る。
捕まったらどうなるのか、怖くて考えられない。
少しでも離れる為に子猫は壁に身を寄せることにした。
迫ってくる音に子猫はブルブルと身を縮め込っている。
きっとこれは夢なのだ。
死んだ自分がまた、死ぬ夢を見ているに違いない。
この霧の様に先の見えない命に絶望する。だが、妙な違和感に気づく。
壁に身を寄せているはずなのに全く背中に当たった気がしない。
不思議に思って振り返ると、尻尾が壁に埋まっていたのだ。
(あれ? 違う……)
くねらす細い尻尾は霧に触れている様に何も当たっていない。
(もしかして!)
子猫は一部の希望に全てを賭けることにした。
彼女は少し距離を取り、覚悟を決める。
(あんな奴らなんかに捕まりたくない!)
もしかすれば、壁に当たって死んでしまうかもしれない。それでも、未知の恐怖なんかよりずっといいと思えた。
その思いで子猫は駆け出し、勢いよく壁にぶつかりに行ったのだ。
盗人たちが路地にたどり着いた時、そこには人の影どころか、猫の影すら残っていなかった。
「チッ、逃したか……」
短い舌打ちを残して彼らは去っていく。
石レンガの向こう側では一匹の子猫が溺れていた。
(ふぎゃぁぁ! みず、つめちゃあ!)
バシャバシャと桶の水を溢しながら子猫はようやく抜け出す事ができない。
石レンガの壁に飛び込んだ子猫は霧を潜り抜けた様に壁をすり抜けたのだ。
その前も彼女は店の扉を開ける事なく潜り抜けていた。
盗人からなんとか逃げ切れた子猫だったが、彼女の不運はもう少し続いてしまう。
潜り抜けた先にちょうど、水を張った桶が置かれていたのだ。
一体誰が置いておいたのか、怒りを抱く。だが、彼女の怒りで体を暖めることはできない。
この白い霧の中は寒く、さらに子猫の体温を奪っていった。
みるみると体は凍りついていく。
(さ、寒い……し、しにゅ……)
鼻水を啜りながら体を震わせる彼女は、盗人から少しでも離れ様と歩き続けていた。しかし、遂に空腹と寒さに限界を迎えていた彼女は、バッタリと地面に倒れてしまう。
(あぁ、何にも感じない……何か飲みたいなぁ)
薄れていく意識の中、誰かが近づいてくる音を耳にする。
(さっきの盗人たち、もう追いついて来たの? まぁ、どうせ死ぬし、どうでもいいのかな?)
何もかもを諦めていた子猫は目を瞑って苦しさを紛らわす。
「大変だ。猫が行き倒れている」
ハキハキとした少年の声が聞こえる。
真っ直ぐで生真面目な感じだ。
最後にチラリと重たい瞼を開けて見てみる。
彼女の目の前にはやはり、巨人が覗き込んでいた。だが、先程までの人たちよりも一回り小さい。
綺麗な服にはシワがなく、メリハリある線だけがあった。
顔を見ると黒茶色の髪に丸メガネをかけた少年がこちらを覗き込んでいたのだ。
子猫はこれ以上、開けていられないと目を閉じる。
「待ってて、今、暖かいところに連れていくから」
メガネの奥の瞳は黒く卑屈に見える。でも、同じ様に真っ直ぐとした意思を持っている様に見えた。
子猫は少年に抱きかかえられて、トン、トン、トン、と適度に揺れる中、しばしの眠りにつくのだった。
あやしいものじゃないよ、あやかしだよ。
どうも、あやかしの濫です。
前にも思いましたが、何かシリーズなどやっていると他の事もう始められないんじゃないかって思っていたのですが、案外、筆が走ってくれて一安心です。
寂しい程冷たいデストピアに生まれた子猫。彼女は一人の少年の追う勝負を目撃する。
ぜひ、最後まで読んでもらえると幸いです。
「キャット転生 『最強の魔術師』誕生の物語」
興味を持った方、面白いと思って頂けたらば、ぜひ、ブックマーク高評価よろしくお願いします。
他作品も書いていますのでよろしければ、そちらも読んでいただけると嬉しいです。
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