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べとべと さん

〈べとべとさん〉

 ぺとぺとさんとも呼ばれるこの怪異は、夜道に現れる。

 と言っても、姿形が見えるわけではなく、音。足音。として現れるそうだ。

 想像してみてほしい。

 夜道、一人。

 街灯、ぽつり。

 そんな中、ついてくるのが人、だとしても少々身構えるのに、それとなく確かめた先は無人。

 だれもいない。

 足音は。

 よく考えればアスファルトの歩道ではするはずのない、べたり、と。湿り。到底、靴を履いた足ではしないはずの音が、足音が、


 べたり、べたり、べたべたべたべたっ! と。


 いや、怖いって! 

 思わず走って逃げてもついてくるのだろう。

 どこまでも、どこまでも、いつまでも。


 それでもこの───絵巻物では卵型のボディに大きな口と両足で表現されている(足音、なのだから両足はわかるが、卵型ボディに大きな口はどこから? 見えないンだよね?)───妖怪は人畜無害とされている。


 なぜなら、対処法が確立されているからだ。

 べたべたと迫る足音が背後、すぐそこまできた瞬間、「先においき」と声をかけると、足音はそのまま追い越し先に行って聞こえなくなるそうな。


 そこまで引き付ける。すごい度胸である。

 そんなに勇気があるのならば、声をかけなかったらどうなるか試してほしいが、むりは言うまい。

 そうしたらどうなるかは。

 伝わってい(・・・・・)ないのだか ら(・・・・・・)。


 まあ、音だけと言えど、妖怪は、妖怪。怪異は怪異。よけいなことはしないが吉、である。

 

 εー εー εー

  εー εー εー


 俺はこの先一生、信号待ちの最前列に立たない。駅のホームの白線は踏まないし、壁で隔てられていない高い所にも行かない。


 なぜなら・・・。


 εー εー εー

  εー εー εー


 初めて “ソレ” を見たのは幼稚園児だった頃か。いや、俺の人としての記憶がそれぐらいから始まっているだけであって、実のところはもっと前から見えて、聞こえていたのかもしれない。

 一番目に覚えているのは、“雲” だ。

 昼間、空を見上げれば浮かんでいる白い固まりには、「何であんな大きいものが?」ぐらいの不思議しかないが。


 夜、室内で。

 天井からぶら下がっている蛍光灯(消灯中)の。

 まわりをグルグル、グルグル、グルグルと。

 三体の、形を変えつつも。

 ひとかたまりになって飛んでいる。

 “雲?” としか呼びようのない、正体不明不定形の物体? は、なんだったのだろう?


 となりで寝ていた母を起こしても、眠たげな声で「なにもないわよ」と言われ。(指差した先ではまだ回っているのに!) 

 父は起きず。

 翌朝には普通の蛍光灯。


 「夢でも見たんでしょ?」と言われたのが最初の記憶だ。


 新月───だったと思い至ったのは最近───の夜にだけ、寝室のカーテン越しに室内を照らす、二つの(・・・)まあるい光。


 母の鏡台の、観音開きの扉、いつも「いつの間にか開いてる。壊れた?」と言われていた扉を。

 ちょっとだけ押し開けて(・・・・・)は引っ込む細い指。

 開いた鏡との隙間は絶対に覗かない。

 もし、もしも。目があったりしたら・・・。


 だれも使わない幼稚園で一番高い鉄棒に、朝も昼も、お泊まり会の夜もぶら下がっている、ナニか。

 小学校の校門に登校と下校の時間だけ座っている犬でも猫でもアライグマでもハクビシンでもない動物。

 曲がった先に階段のある角からこっちをのぞく子の髪と額と両の目。そんな高さからは先生だって無理なのに。


 小学生低学年まではその都度口にしていたが、一人称が「ボク」から「オレ」に変わる頃、仲間外れにされそうになったせいもあり、口をつぐんだ。中学に入ってからは実際、目撃する回数も減り、高校に入ってからはもう見えなくなっていた。

 どうやら、こういう感覚(・・・・・・)は成長と共に消えていくものらしい。


 それが原因かもしれず。

 油断をまねいたのかも、しれず。


 εー εー εー

  εー εー εー


 その日。


 正直に言おう。むしゃくしゃしていた。

 行きはなんともなかった自転車は残業を終え さあっ! というタイミングでパンクしており、スマホで調べた修理店は営業時間内のはずなのにしまっていた。それならばと向かったホームセンターには個別の品はあったが、売り切れていたセットの値段を見ると買う気が失せた。


 なんの言い訳にもならないが、言おう。むしゃくしゃしていた。


 べと。べと。 べとべとべとっ。


 もう、子供の頃から何度も聞いた音だ。


 べと。べと。 べとべとべとっ。


 何度も何度も、何度も何度も何度も。


 もう、後ろを確認する気にもならない。


 いつの間にか俺一人しかいなくなっている暗い夜道。

 そもそも粘着質? な足音? は、奴ら以外立てるのを聞いたことがない。


 べと。べと。 べとべとべとっ。


「・・・お先にどうぞ」

 正しくは「お先にお越し」らしいが、そこはニュアンスだ。道を譲る意志が伝わればいいのであって、文言が違っていてもヤツらは気にしない。


 無神経に後ろからついてきては。

 ひとに道を譲らせ。

 満足気に去っていく。


 ただそれだけの存在。


 なぜそんなことをしたのかわからない。


 ウソだ。


 いらっと、きた。


 むこうの歩道、開いてンだろ? と思った。


 足が出ていた。


 ちょうど、通り過ぎようとしていた真横に。


 ここで思い出してほしい。

 誰が見たかもしれないこの妖怪の姿を。


 がしゃっ、と。


 袋の中のガラスが、陶器が、タマゴ(・・・)が。堅いものにぶつかったような。

 見ずともわかる、取り返しのつかない音がした。

 それはそうだ。つく手などないのだから。

 足を引っかけられれば・・・。


「~?~~?~~~??」

 声にならない悲鳴、困惑まじりのソレが聞こえた、気がした。

 ガラス瓶が転がるような、固いものがアスファルトをなぞる音がした、ような。


 か゛し゛ゃ゛、と。

 何かに包まれた割れたガラスがさらに何かにあたったみたいな音がして、車道より一段高い歩道から転がり落ちたソレは、その“音” は。


 整備不良のような爆音を立てる車が。

 なぜか急に耳障りな(ブレーキ)音を立てて止まった頃には消えた。


 ざわざわざわ、と。人通りは戻った。

 車から降りた男はしきりに首をかしげている。


 俺は自転車を押した。


 車は爆音を立て走り去った。


 εー εー εー

   εー εー εー


 翌日、やっぱり自転車のタイヤはしぼんだままで、俺は駅へ向かった。

 まだ余裕のある時間帯、人はまばらで、いまだに転落防止のドアのついてないホームの乗車口のしるしを確認し、スマホを取り出す。


「今日こそは修理キットを・・・」

 急に音が遠ざかった、気がした。


 気のせいだった。


 まわりの音は変わらず、そう感じたのは耳が捉えていたからだった。


 その音を。


 べっ・・・。べっ・・・。 べべべべ。


 異様な音だった。

 おおよそ、靴を履いた人が、いや裸足でだって、立てることのない音。


 ベタついた歩行器官で極力音を立てないようにつま先立ちで。抜き足差し足。

 そんな・・・


 べべべべ、べべべっ!


 何か言う暇も、振り向く隙さえも与えず背後に迫る音、足音。


「うおっ!」

 いきなり奇声を上げて半回転しつつ横移動した俺が注目を集めたのは一瞬だった。


 だん! と。少し離れたところから音が聞こえた。


 俺は見た。

 なんなら目も合ったかも知れない。

 数秒後に死にゆく男の「なんで?」と問いかけるような瞳を。


 俺は聞いた。


 ・・・・・!

 なんとも表現のしようがない音と電車の急ブレーキの音を。


 あれは・・・。

 自分で飛び込んだ人の目じゃなかった。

 覚悟の自殺の姿勢じゃなかった。

 昨日の車から男の人だった、気がした。


 あの日、あの時。

 前で後ろで、右で左で

 車道のグレーチングから、街灯の上からブロック塀の隙間から、吹き上がった怒気は気のせいじゃなかった。


 εー εー εー

  εー εー εー


 俺はこの先一生、信号待ちの最前列に立たない。駅のホームの白線は踏まないし、壁で隔てられていない高い所にも行かない。


 あれから何ヵ月、何年か。


 感覚の衰えのせいか、別の要因か。


 もう、あの音は聞こえない。


 気配は・・・。

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