54:騎士団の稽古場②
クリスティンが門番に咎められる少し前。
パン屋を後にしたライアンは、一人では食べきれないパンを抱えて、どうしようかと考えながら、メイン通りを上っていた。
(ネイサンに差し入れに行ってから、デヴィッドのところに行くか)
思い立ったライアンは、寄り道をすることにした。
歩きながら、パン屋の売り子と出会ったあの朝を、甘酸っぱく思い出す。
※
あの朝、横道に入ったライアンとデヴィッドは、パン屋近くの路上で立ち止まった。
周囲にいる騎士の立ち位置を確認したライアンは、デヴィッドに待つように告げ、一人で店に入った。
路上で待たされるデヴィッドは不満そうだったが、監視がいる以上、立場をわきまえてもらうしかなかったのだ。
しかし、ライアンもまた平民のパン屋に入るのは初めてであった。
ドキドキしながら、カランカランと扉のベルを鳴らし、入店する。
ふわっとパンの芳香に包まれた。
それだけで口内に甘みが広がった。
お腹は空いていなかったが、食欲が急に増し、ぐうと小さくお腹が鳴る。
どうやって店で品を買うか。ポケットに忍ばせた硬貨を握り、ライアンは困ってしまう。
お金を支払い、品を受け取ることは分かっていたものの、経験がなかった。
いつもは屋敷に商会を呼び寄せ、欲しい品を選ぶ。値段も見なければ、決済する場に立ち会うこともない。
すべては父と義母が計らってくれていた。
慣れない場にライアンは少々緊張しており、挙動不審になっていることを自覚していた。
棚に値札が刺さったパンの籠がいくつもある。
真っ直ぐに前を向くと、勘定場越しに三角巾をつけた女の子がいた。
目があった気がしてライアンはドキリとする。
「あっ……」
声をかけようとした時、奥から女性の声が飛び、女の子は身を翻した。
心臓がぎゅっとつかまれる。
心底から『行かないで』と言葉が浮かび上がった。
まるで母に見捨てられる三歳児のような痛みが走り、なぜそんな痛みを覚えるのかわけがわからなかった。
(初めての経験に怯えるにもほどがあるだろう)
あまりの情けなさに自己を叱咤しても、まだ心臓はドキドキしていた。
仕方なく、ライアンは棚に並べられたパンを見る。
(これをください、と言えばいいんだろうな)
心のうちでパンに問うても、意味はない。パンがしゃべるわけがないのだ。
奥から出てきた女の子はあたたかなパンを持ってきた。慣れないライアンを気遣い、お金まで貸してくれて、パンを売ってくれたのだ。
道で待たされた不機嫌なデヴィッドもお目当てのパン、それも焼きたてのパンを食べたら、それだけでご機嫌になった。
本当は、そのまま二人で学院に行くつもりだった。
入学式で、新入生代表としてデヴィッドが挨拶をし、在院生代表として生徒会長のライアンが祝辞をのべるため、原稿の最終的な確認をする予定だったからだ。
学院に向かう前に、硬貨を用立てる用事ができたライアンは、デヴィッドと待ち合わせの約束をして、公爵家の屋敷へと戻った。
親しい使用人に相談し、銀貨を銅貨に両替してもらった。それから急いで、学院に向かい、デヴィッドに指定された花園のガゼボで待っていた。
そこに息せき切って、眼鏡をかけた新入生が現れる。
走ってはいけないと注意すると思いのほか落ち込み、憐れに見えた。不慣れなことで失敗する経験をしてきたばかりだというのに、大人げなくしかりすぎたかと軽く反省した。
しかも、どうやら彼女は、デヴィッドと門前でぶつかったらしい。
地方から出てきたばかりの見慣れない新入生にデヴィッドも興味津々で、これは後々面倒になりそうな予感がした。
デヴィッドに名乗った苗字により、衛撃騎士団に忍びで参加させてもらい、戻る時に見かけた女の子であると記憶がつながった。
こんなに早く会うことになるとは思わなかった。
ともかく、花園で出くわした新入生を逃がし、打ち合わせを済ませてから、朝行ったパン屋に飛んでいったのだった。
なぜこんなにも早く店に行きたいと思うのか。
お金を返さなくてはいけないという理由だけではない。
どうしても、女の子に会いたかった。
ただ会いたかったのだ。
パン屋の内部を窓から覗くと、女の子はいなかった。
彼女がいなくて、がっかりした。
沈んだ気持ちになる。
彼女の顔が脳裏にちらついて離れなかった。
(また明日の朝だ)
がっかりとうなだれるライアンは、落ち込んだ気持ちを抱えて帰路に就いた。
暗くなってきた空を見上げ、(こんなに会いたくなるとはどういうことだろうか)と考える。
力なく歩けど、脳裏には女の子の声や姿、最後に見せた笑顔が絶え間なく繰り返され、口元がゆるむ。
屋敷に戻る頃には、その甘酸っぱい気持ちの正体が、一目ぼれだと気づいていた。
※
女の子に会い、硬貨を返せたライアンは華やぐ気持ちを抱き、騎士団の稽古場に顔を出した。
顔見知りの門番と軽い挨拶をしてから、近衛騎士団長の部屋へと向かう。
副騎士団長以上には執務室が用意されているのだ。
それ以下になると、更衣室に各人のロッカーが用意され、大部屋で寛ぐ仕様になっていた。
特別に出入りを許されているライアンは真っ直ぐネイサンの執務室へいった。
ノックしてから入室する。
叔父が長いソファに座り、剣をあらためている。ローテブルに数本の剣が並ぶ。
「ネイサン、今少し、時間ありますか」
「おお、ライアンじゃないか。どうした、こんな朝早く」
笑顔で迎え入れたネイサンは、手招きしてライアンをソファ席に座るように促した。
「パン屋に行ってきたんです」
「パン屋?」
「以前、オーランド殿下が買ってくれたパン屋のパンです」
「ああ、あそこか」
ネイサンは天井に視線を向け、少し渋い顔をしたように見えた。
「叔父上? どうされましたか」
「いや、なんでもない。ほら、そこに座れ」
「はい」
ライアンは促されるままに座る。紙袋を膝に乗せた。
ネイサンもライアンの前に座った。
「叔父上いかがですか。色々、つめてもらったんです。なにか好きなパンはありますか」
「俺があの店で好きなのは、ミルクパンだな」
「ありますよ。食べますか」
「いただこう」
紙袋の口をネイサンに向ける。
ネイサンは紙袋に手を入れて、ミルクパンを探し出した。
「あった、あった。このパンが柔らかくてバターとミルクの風味がきいて美味いんだよ」
ミルクパンは二つあり、ライアンも同じパンを手にした。
二人はしばし黙ってパンを頬張った。
「確かにとても美味しいですね」
「だろ。王太子殿下と買いに行ってはまったか」
「はい」
廊下からばたばたと足音が響いてきた。
ネイサンとライアンが同時に扉に目を向けると、ばたんと扉が荒々しく開き騎士が駆け込んできた。
「大変です。ネイサン団長。門前で喧嘩が始まり、門番が二人ともやられてしまったんです」
報告を聞いたネイサンはぎょっとする。
騎士がやられたという発言に、ライアンもなにがなんだか分からないという顔をした。
「すぐに来てください。子どもがネイサン近衛騎士団長に会いたいと来て、帯刀していたため咎めたら、大事になってしまったのです」
「なんだって!」
ネイサンががばっと立ち上がった。
ライアンも紙袋をローテブルに起き、立った。
迎えに来た騎士と共に、ネイサンとライアンは執務室を飛び出した。