52:もう一度、出会う時④
日が暮れる前に家に帰ってきたクリスティンは、パン屋の売り子姿に戻った。
(この格好が一番落ち着くわ)
鏡を見ながら、三角巾をつける。
男爵領の日常着に近いこの姿が一番馴染む気がした。働くことも性に合っている。
(男爵家の暮らしって、王都の平民レベルなのね。平民上がりの男爵家だもの、そんなものよね)
妙に納得してしまう。
男爵領ではスカートを日常着とし、弟妹の遊び相手や、家の手伝いをしていた。稽古をつけてもらったり馬に乗る時、瘴気を払う時はシャツとズボンを身につける。
日帰りで行ける地で瘴気を払うと、近場の農家からお礼として農作物や肉類をもらうこともあった。弟や妹たちもとても喜ぶし、子どものクリスティンも食べ物のほうが、お金より受け取りやすかった。お金自体は乏しい農家でも出荷できない作物はそれなりにあるので、農作物を譲る方が楽なのだ。
しかし、もらって帰る品もどんどん少なくなり、形もいびつになっていった。
寂れた男爵領の暮らしに比べ、王都の暮らしは華やいでいる。
パン屋の夫婦が歓迎会で作ってくれた料理の方が、男爵家の日常食より味わい深く種類も多かった。
男爵家の食事は、王都の平民より劣るかもしれない。
(古城は広いから、子ども部屋がそれぞれに割り振られ、家に広い浴場があるぐらいかな。男爵家の良いところって……)
オーランドの屋敷で食べさせてもらった食事にも物珍しい料理があり、これが平民の暮しかと内心驚くばかりだった。
比べても仕方がないとクリスティンは気持ちを切り替える。王都で色々なことを学んで、少しでも自領の役に立てる知識を得て帰ろうと決意した。
学院で思いがけず走り、オーランドの屋敷でも走り回ったクリスティンは汗をたくさんかいている。
明日は騎士団の稽古場に行く予定なので、共同浴場でしっかり汗を落してこようと、タオルと石鹸、下着類を手提げの布袋に入れて部屋を出た。
道に出ると、荷車が停まっていた。
帽子を被った男が大きな袋を抱えようとしている。
カランカランと店の扉が開き、おかみさんが出てきた。
「今日も配達ありがとうね」
「いいえ、奥に運べばいいですか」
「ああ、助かるよ。なんだかんだ言って、小麦は重いからね」
「お安い御用ですよ」
おかみさんの横をすり抜けて男は店内に入っていった。
その光景を眺めていたクリスティンにおかみさんが気づく。
「おや、帰っていたのかい」
「はい」
怪訝そうな顔をするクリスティンに、笑顔のおかみさんが手招きする。誘われるようにクリスティンは近寄った。
「丁度良いから紹介しておくよ。うちで働いていたら、時々顔を合わすだろうからね」
誰をと聞くまでもなかった。店から男が出てくると、おかみさんが彼の肩を叩いた。
ぎょっとする男をクリスティンが見上げる。男も、クリスティンに気づき、目を丸くした。
「紹介するよ。うちに小麦などを卸してくれている卸売業者の配達人、レオだ。
この子はティン。うちで新たに朝の店番として働くことになった女の子だよ」
間髪入れず、紹介され、二人は互いに見合ってしまう。
「ほらほら、挨拶して」
おかみさんに促され、流れで互いに頭を下げた。
「初めまして、ティンです」
「こちらこそ、レオです」
「顔を合わせた時に知らないと困るだろう。
朝だとミルクを運んでくれるから、受け取ってもらう機会もあるかもしれない。
朝は忙しいからね。紹介している暇なんてないからね」
おかみさんがからからと笑う。
「確かにそうですね。
レオさん、朝の店番をしてますので、どうぞよろしくお願いします」
「俺の方こそ、よろしく。ティンちゃん」
笑顔で握手を交わした。
仕事があるレオは二袋目の小麦を運び始め、遅くならないうちに帰りたいクリスティンは共同浴場へと向かった。
広いお風呂は、女性達の社交場でもあり、そこここから姦しい話し声と笑い声が響いてきた。
翌朝、温まって寝たクリスティンはとても気分よく目覚めた。
昨日のことが嘘のように、晴れ晴れとしている。なるようになるしかないわねと思えたのも、運動して、お風呂につかったおかげだろう。
学院でなにかあっても、ラッセルとロロ、それに大衆浴場があれば前向きになれそうだった。
パン屋の売り子姿も馴染んできた。
鏡の前で三角巾をつけ、階下へと向かう。
忙しいおかみさんと一緒に、店の準備を始める。
ベルを扉にかければ、開店の合図だ。
八時半をまわると店の喧騒は一段落する。
おかみさんは奥に捌け、クリスティンは一人で勘定場に立つ。
カランカランと店のベルが鳴った。
「いらっしゃいま……」
現れた人物にクリスティンは息を呑んだ。
(えっ、あっ、なんで、昨日の今日でまた来るのよ)
ピンと背筋が伸びた。
そこに現れたのは、昨日の朝、パンを買いにきて、昼前に花園のガゼボで会った青い髪の青年だ。
目が合うと青年は人懐っこく笑う。
昨日ガゼボで見せた厳しい表情が嘘のようで、同一人物ではなく、二人は双子の兄弟かとクリスティンは疑いそうになった。
青年が近づき、勘定場を挟んで、二人は向き合う。
「昨日はありがとう。とても助かったよ」
「あっ、いえ……、どういたしまして」
彼の胸元を彩る紫のネクタイ。
睨まれた時に見せた鋭い眼光。
強い口調。
クリスティンの身体に緊張が蘇る。
「すいません。驚かせてしまいましたか。まさか、昨日の今日で来るとは思っていませんよね」
「ええ、そう。そうね」
別人かと思うような丁寧な口調に、柔らかい表情を向けられ、クリスティンはドキドキしてしまう。
昨日と似た軽装ということは、彼も貴族であることをひた隠しにするつもりなのだろう。
(私だって、学院に通っている学院生であることを隠すために、変装しているもの。同じことよね。この場合、ここは知らないふりを通すしかないわ)
腹をくくったクリスティンは、朗らかに笑んだ。
「あなたの言う通り、昨日の今日でまた来てくれるとは思わなかったのよ」
「あなたにお返ししないといけないと思いまして……。あの時は、本当に助かりました」
「いいのよ、気にしないで、なんでも知っているなんて難しいことだわ」
王都に出て、知らないことばかりに囲まれるクリスティンは本心からそう告げた。
申し訳なさげな顔で青年は口元をほころばせる。
「そう言ってもらえるとありがたいです」
「本当に、いいの。こうやってちゃんと返しに来てくれた。とても嬉しいわ」
「ありがとうございます。では、まずは昨日お借りした小銭を返しますね。それからパンをいくつか見繕ってもらえますか」
青年はポケットから小銭入れを取り出し、小銅貨四枚を勘定場に置いた。二枚はクリスティンへの返金、もう二枚はパン代だ。
「かしこまりました。では、今日はおすすめのパンをご用意しますね」
笑顔で応じると、青年ははにかんだ。
精悍な顔立ちの青年が照れるような笑顔が醸す色気に、クリスティンは思わず目を逸らし、青年を見ないようにして、パンをいくつか選び、紙袋につめたのだった。