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第140話 紅のルーツ


第1章 報告書の違和感


鋼の大森林、その中心に位置する広大な執務室。

サモンは、ポリーヌからシスターズの連絡網を通じて届けられた定期報告書に目を通していた。


窓からは、整然と区画整理された大森林の街並みが見える。

アスファルトに似た特殊な舗装路を、住民たちが活気ある足取りで行き交っている。

かつては人跡未踏の魔境であったこの地も、今や大陸で最も高度な技術と秩序、そして「ご近所づきあい」という名の平和が同居する場所となっていた。


サモンの手元にある報告書には、帝都カイエンでの「布製品組合」の進捗が細かく記されている。

熟練職人たちとの対立と和解、オークションの成功、そして直近の課題である農業改革。


『――ニムの忌避成分による効果は劇的で、綿に群がっていた白く小さなエダマキの死骸が山を形成しています。これらを堆肥に混ぜることで、土壌への還元を試みる予定です』


「死骸が山を、か……」

サモンはその一文に指を置き、無機質な視線を虚空へ向けた。


帝都の農家にとっては不快な害虫でしかなく、イングリッドに至っては文字を見ただけで震え上がるような対象だ。だが、サモンの中にある「前世のデータベース」が、その光景から全く別の文脈を引き出していた。


「虫……死骸……鮮やかな赤……虫ねえ」

サモンは椅子に深くもたれかかった。


彼にとって、記憶の検索は日常的な行為だ。

断片的な知識を繋ぎ合わせ、この世界の物理法則と資源の分布に照らし合わせる。


「確か、昔の地学だか歴史の講義で聞いたことがあったよなあ。サボテン――に付着する特定の虫を乾燥させ、潰して色を取り出して、蜜蝋と……。それが、かつての最高級の着色料、コチニールだ。口紅や食品の着色に使われていたはずだ」


そこまで思考が進んだ時、サモンの中で「産業」としての回路がパチリと音を立てて繋がった。

鋼の大森林では、すでにガス、水道、石化素材の建築、そして織機といった「生活の基盤」に関わる技術が次々と花開いている。

だが、「美」や「贅沢」という分野は、依然として手付かずのままだった。

まあ、服という点では始まったばかりだし、これからだ。


「衣食住が満たされれば、次は装飾、そして美か。文化を定着させるには、欲望を加速させるガソリンが必要だからな」


サモンは立ち上がり、ゆっくりと窓際へ歩み寄った。

彼には、唇を鮮烈な赤で彩り、自信に満ちた表情で街を歩くこの世界の女性たちの姿が、予感として見えていた。



第2章 「美」の不在


翌日、サモンは思い立った。

まずは現状、この世界の住人たちが「化粧」というものをどう捉えているのか。

それを知るために、身近な者たちに声をかけることにした。


「ミリス、マルティナ。ちょっといいか」


サモンが声をかけると、ちょうど資料の整理をしていたミリスと、植物学の講義を終えたばかりのマルティナが足を止めた。


「あら、サモン。珍しいわね、私たちを二人まとめて呼ぶなんて」


ミリスが不思議そうに首をかしげる。

彼女の声はいつも通り、どこか穏やかで涼やかだ。


「単刀直入に聞くが、この世界の女性は、唇を赤く塗ったりはしないのか?」


サモンのあまりに突拍子もない質問に、二人は顔を見合わせた。


「赤く塗る……? ああ、王家の晩餐会や、教会の最高位の儀式で、位の高い女性がつけているのは見たことがありますけれど……」

マルティナが指を顎に当てて答える。


「でも、それは『紅』というよりは、特殊な『魔除けの塗料』に近い扱いよ。非常に高価な鉱物や、希少な花の蜜を煮詰めたもので、一生に一度つけるかどうかの代物だわ」


「一般的ではない、ということか」


「ええ。少なくとも、毎日の生活の中で唇を飾るような習慣は、この大陸にはないと思うわ。というか、そんなことをしていたら『不吉だ』と騒ぐ司祭だっていそうだし」


ミリスが少し苦笑いしながら付け加えた。


サモンは心の中でその答えを咀嚼する。

希少性ゆえに贅沢品となり、文化として閉ざされている。

そこに「大量生産」と「低コスト化」というサモンの得意分野をぶつければ、市場は爆発的に広がる。


「もし、その『紅』が、誰にでも手に入るような安価で、しかも目の覚めるような鮮やかさだったら、興味はあるか?」



サモンの問いに、ミリスは少しだけ困ったような、だが興味を隠せないような、複雑な表情を浮かべた。


「……安価で、鮮やか。それは、確かに魅力的かもしれませんね。でもそういった習慣はありませんからね。ですが、サモン。あなたはどこからその『赤』を持ってくるつもり?」


サモンは淡々と、しかし確信を持って答えた。

「虫だ」


「「…………え?」」

ミリスとマルティナの動きが、同時に止まった。


「特定の樹木に寄生する虫を潰して色を抜く。それが一番、効率がいい」

「む……虫、ですか……?」


マルティナが、引きつった笑いを浮かべる。

彼女は大森林の植物については愛着があるが、それを害する虫を「美」に転用するという発想には、本能的な拒絶反応が先行したようだった。


「サモン……それは、あまり女性には言わないほうがよろしいかもしれません。せっかくの『紅?』も、正体が虫だと聞けば、誰もが近寄りませんよ」


ミリスの控えめだが的を射た指摘に、サモンは(なるほど、プロモーションには一工夫必要だな)と内心で頷いた。


イングリッドの虫嫌いを思い出し、その表情を想像して、サモンは微かに――自分でも気づかないほどわずかに――口角を上げた。



第3章 南部の記憶


「虫から色を抜く」というアイデアへの、身近な女性たちの反応はいまいちだった。

だが、サモンにとってそれは瑣末な問題だった。

確かな素材があり、確かな成果物があれば、人はやがてその出自さえ忘れて美しさを享受する。

それが文明の常だ。


問題は、その「コチニール」に相当するカイガラムシの類が、この大陸の、しかも大森林の近辺にいるかどうかだった。

大陸中央部に位置するこの大森林周辺では、それらしい報告はない。

ポリーヌが報告してきた「エダマキ」はアブラムシの類であり、忌避剤の対象だ。

着色料としての適性はない。


サモンは、大森林の重鎮であり、かつては大陸の至る所を旅したドワーフの老工匠、マリオを訪ねた。

マリオは、新設された大森林の鉄鋼工房にて、炉の火を眺めながらパイプをくゆらせていた。



「虫だと? サモン、あんた、今度は虫を仲間にでもするつもりか?」

サモンの話を聞き、マリオは白眉をひそめて豪快に笑った。


「いや、色を採る。潰すと血のように真っ赤な体液が出る、白い粉を吹いたような虫を知らないか?」


マリオはパイプの手を止め、煙をゆっくりと吐き出した。

その濁った、しかし鋭い瞳に、数十年前の記憶が甦る。


「……赤い色、か。そういえば、昔、わしが若い頃に鉄の鉱脈を探して南へ向かった時のことだ。大陸の南端、海岸沿いの温暖な地域に、少し変わった果樹園が並んでおった場所があってな」


マリオの話に、サモンは耳を傾ける。

「そこらのカカ(桃)の木の枝に、びっしりと白い綿のようなものが付いておった。地元のもんは『雪の呪い』だのなんだのと呼んで、実がならなくなると嫌っておったな。わしも野営の最中、焚火にくべた枝にそれが付いておって、熱で弾けた時に、地面が驚くほど鮮やかな赤に染まったのを覚えている」


「南部の海岸沿い……それだ」

サモンは確信した。温暖な気候、特定の果樹への寄生。その「白い綿」の正体こそが、分泌物で身を固めたカイガラムシの一種であることに違いない。


「気味の悪い汚れだと思っていたが、あんたにかかれば、それも宝の山に見えるってわけか」

「ああ。邪魔者が宝に変わる。これがモノづくりの面白さだろ」


マリオは、サモンの無機質な金属の身体を見つめ、少し呆れたように鼻を鳴らした。


「だが、あそこまで取りに行くのは骨だぞ。南部の連中は排他的でな。特にあの『雪虫』については、作物への害ばかりが語られておる」

「問題ない。こちらにはポリーヌがいるし、ナベンザも物流の中核拠点を担いつつある。素材の回収と安定供給のノウハウは、すでに土台ができている」


サモンはマリオに礼を言い、工房を後にした。

彼の頭の中には、すでに南部の果樹園から大森林の工房、そして帝都の洗練された女性たちの唇へと至る、壮大な「紅の交易路」が描かれていた。



第4章 「紅」という名の企み


夜、大森林の深い静寂の中で、サモンはニケに声を掛けた。


「ニケ、悪いがシスターズの誰かに南へお使いをお願いしたいんだが」

「承知です。潰すと赤い虫ですね」

「ああ、そうだ。よろしく頼むよ」



彼の思考は、すでに口紅の先の「その先」を見据えていた。

赤という色は、権威の象徴であり、熱情の象徴だ。


紅を誰もが手に取れる形で提供することは、単なるファッションの流行ではない。

それは、この世界の硬直した階級社会と、限定された贅沢品という概念を、内側から溶かしていく強力な溶剤になる。


「ポリーヌには、南部の果樹園との交渉ルートを調べさせよう。ニムの件で農家との信頼を得た今の彼女なら、南部の農民たちに『虫が金になる』と説得するのはそう難しくない」

サモンは独り言のように呟く。


「そして、イングリッドには――」

サモンは少しだけ逡巡し、それから指を動かした。


「ナベンザには、南部の特産品を一時保管し、加工するための『乾燥工房』を競技場の影に設置してしまおう」

椅子に深く座りながら、その表情は悪い顔へと変化していく。


大森林の主は、窓から見える満天の星空を見上げた。


「さて、まずは南部の、あの『雪虫』のサンプルをうまく確保できるか、だな」


サモンの指が、机の上をトントンと規則正しく叩く。

それは、密かな個人的な企みが刻まれるリズムでもあった。


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