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第139話 イングリッドと虫


第1章 未来への地図


ポリーヌが帝都で職人や農家との信頼を勝ち得たころ、イングリッドの方でも時間は動き出す。

早朝にイングリッドが目覚めると、ベッドの脇にひさしぶりに姿を現したものが立っていた。

普段は姿を見せない“フェアギス”だった。


「あら、珍しいわね。どうしたの?」

そう首をひねるイングリッドであった。


「サモン様より、お届け物です」

そう言って長い筒状になった皮紙を差し出した。


丸められた皮紙を広げてみると既存のファイナ畑を中心とした広大な地図であり、先日見た帝都(畑周辺)の地図と同等の細かさであった。

見る者が見れば、高さや凹凸が一目でわかるようなものだ。

それを見たイングリッドは寝起きであったが、すぐに覚醒した。


「まあ、こんなに早く」


イングリッドのそんな驚きの声に特に反応もせず、“フェアギス”はうっすらとまた不可視化してゆく。


イングリッドは小さく“ありがとう”と礼を述べ、そそくさと侍女を呼び、支度を始めた。

着替えを済ますと今度はさっそく父親の元に。


食事が行われる広間に行けば、朝の時間には家族が集まっている。

広間に入れば、やはり父親がいた。

ほかにも母親も一緒だった。


いつも通り朝の挨拶を済ませ、早速さっきの皮紙を差し出す。

やはり父親も目が飛び出るんじゃないかと心配するほど凝視していた。


公爵は地図を広げたまま、何度も角度を変えては唸り声を漏らした。

その目は、まるで宝物を見つけた子どものように輝いている。


「ム~、これほどとは。……ラズーユ川やその支流。ほれ、クタンの村付近の窪地やら高地も手に取るようにわかるぞ」

「これなら拡張整備も進むのではないでしょうか?」

「ム~そうだな。これならば水路の整備も効率よくできることに違いないからな。ただわしも鉱山の方で手が一杯だ。ジュリアス(嫡男)と一緒に視察に行っておいで」


公爵の声には、地図の精度に対する驚きと、娘への信頼が入り混じっていた。


しかし、そのジュリアスはまだ来ていない。

お目付け役がいるのは、いやではない。

むしろ、事業が安定すれば将来この地を継ぐ兄の方が都合がよい。

父親もそのつもりなのだろう。


「わかりましたわ。数日兄さまを引っ張りまわす許可をいただきますわ」


「ああ、かまわないよ。ただしその地図を見せる者は最小限にな。あ、それとサモン殿に何か礼はいるのかな?」


そんなケチ臭いやり取りをしているうちに嫡男が部屋に入ってきて、父親からの指示を受けていた。

ジュリアンはぶつぶつ不満をたれてはいたが、計画を聞き、地図を見たとたんその精度を確かめたくてイングリッドをせかすように朝食を済ませ支度にかかっていった。



第2章 密かな野望


「ここね……」


イングリッドは、図面の一点を指差した。

ここは街にも近く、農地から少し離れた場所だった。

本来ならば戦時に軍用拠点として活用するつもりで、放置していたという。


測量図によれば、そこは地盤が強固でありながら、川から適度な距離を保ち、将来的な街道の拡張にも対応できる平地だ。


「ここなら丁度良い広さだわ。ねえ、兄上もそう思わない?」


イングリッドの目が、かつてサモンが語った「都市の心臓」としての機能を追っていた。


「サモン様に教わった通り、競技場の周囲には巨大な倉庫群と物流拠点を併設できるだけの余裕を持たせます。表では歓声が上がり、その裏では大陸中の物資が滞りなく流れるハブにするの」


競技場という強力な集客装置を隠れ蓑に、ナベンザを物流の要衝へと作り変える。

それは、父アルフォンソ公爵の政治劇を越えた、イングリッド自身の「理想の領地」の第一歩でもあった。


イングリッドは図面を指し示しながら、未来の光景を思い描くように語った。

その横顔は、兄のジュリアスでさえ見たことのないほど生き生きとしている。


「ファイナの生産量を倍に。そして、ここを世界で一番『布』と『人』が動く場所にしてみせるわ」

「ああ、そうだな。……しかし、本当にそのような巨大な建物が建つのか? 話には聞くが少し盛ってないか」


ジュリアスは半信半疑ながらも、妹の熱量に押されて図面を覗き込む。


「あら、いやだ。兄さまも案外外の世界をご存じないのね。一度は大森林にお行きになったほうがいいわ」

「父でさえ、感嘆していたからな。まあ、いずれとは思っているが、お前や父上が外に出過ぎなのだ」

「まあ、それはごめんあそばせ。ではいつかお連れしますわ、大森林に」


軽口を交わしながらも、二人の視線は同じ一点――ナベンザの未来へと向いていた。



第3章 予想外の戦慄と信頼


執務の合間、イングリッドのもとに帝都のポリーヌから連絡が入った。

もちろんシスターズの連絡網経由だ。


ナベンザと帝都。

離れていても、二人の視線は常に連動していた。


「ポリーヌ、そっちはどうかしらこっちもやっとサモン様から地図が届いたのだけれど……」



『はい、商人、職人さん方や農家の方ともやっとつながったばかりで――現在、試験的に導入したニムの忌避成分により、綿に群がっていた白く小さなエダマキの死骸が山を形成しています。これらを堆肥に混ぜることで……』


イングリッドは穏やかな表情でポリーヌの声を聴いていたが、ある言葉に差し掛かった瞬間、その表情に感情がなくなった。


「……っ!!」

イングリッドの顔から、一瞬にして血の気が引いた。


脳裏をよぎるのは、かつて見た、無数にうごめく小さな足と、あの生理的な不快感。

イングリッドは重度の「虫嫌い」である。


「山を、形成……? それを、触っているの……ポリーヌは……?」


希望にあふれる日々が続き、忘れてた。

彼女にとって、それはどんな魔物との戦いよりも恐ろしい「最前線」があったことを。


「ポリーヌ……あなたはなんて勇敢なの。私には到底真似できないわ……」


小刻みに震えながらも、イングリッドは返した。


「あなたの戦い(主に虫関連の)には心からの敬意を表します。こちらは測量が終わり、土台が整いました。最高のファイナを、虫一匹つかせずに送り届けてみせるわ。ただ、どうしましょう。最大の強敵がいましたわ」


そしてポリーヌを褒め称えつつも最も出会いたくない相手(虫)のことを考えると気持ちが沈んでいった。


ポリーヌの声は、疲れを滲ませながらもどこか誇らしげだった。

イングリッドはその声に励まされるように、椅子の背にもたれた。


『イングリッド様、すみません、ご不快にさせてしまって。でもそのおかげでニムという薬味にも出会えたんです。実はこれもサモン様のご提案ですけど』

「そういえば、おしゃってたわね、ニムって。薬味? それはどういうものなの?」


『はい、その葉っぱが薬になって、根の部分が薬味、つまり調味料になるそうです。すりおろして使うと辛みの効いた味になります。お肉などに合いますよ』

「お肉に? それに虫よけにもなる……私のためにあるようなものかしら」


ポリーヌの笑い声が、通信越しでも柔らかく響いた。


『そうですね。だからその栽培も始めることになりました。まだ栽培法は研究中ですが、畑にも大量に必要なの成功させて見せます』


イングリッドは胸の奥にあった不快感が、少しずつ溶けていくのを感じた。


「ええ、ぜひ成功させてくださいな。そしてこちらにも広めましょう」

『そうですね。栽培する場所はできるだけ水のきれいな場所が近くにあるところ。なるべく湿地がいいですよ。そちらでそこに生えているかは知りませんが、冒険者ギルドなら知っていると思います』


「分かったわ、ありがとう。明日も視察だから場所を検討してみるわ」


そうして二人は久しぶりに夜の時間を共にした。



第4章 虫と商売


翌朝、ジュリアスは急かすイングリッドに背中を押されて馬車に乗り込む。

そして馬車の中で昨夜ポリーヌとの会話で情報を得た話題について問いただされた。


馬車の揺れに合わせて、イングリッドのスカートの裾がふわりと揺れた。

ジュリアスは腕を組み、昨夜の話題を思い返すように口を開いた。


「つまり、ファイナ(綿)につく虫が寄らない薬の根が肉をうまくすると?」

「簡単に言えばそうですけど、根の辛みがお肉を“おいしくさせる”ですわ」


「で、それも栽培出来て、商売になるかもと?」

「そうですわ。“虫も寄らず”に商品にもなりますのよ」


ジュリアスは窓の外を眺め、地形を思い浮かべるように眉を寄せた。


「だが肝心の条件に当てはあるんだろうな」

「ハージャル村の先に丁度支流と空いている土地がありますわ」


「まあ、確かに川はあるが、あそこは少し傾斜しているんじゃないのか?」

「その傾斜が、水が流れるには好都合ではないかしら?」


「ふむ、そうだなあ。まあ、いずれハージャル村の手前まで視察予定だから一度見てみよう」


馬車は軽快に進み、二人の会話は未来の収穫と商機へと広がっていった。




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