12魂
人の声が幾重にも重なれば、それは物音と大差なく。衣擦れが重なれば馬車の帆にも等しく。音が細かに重なるか否かの違いでしかない。人も物も大差なく。
全ては皆等しく私の生に関与しない。
ただそこにあるだけ。ただそこで物音を立てるだけ。
生に意味などない。生まれたから生きているだけだ。そんなものに意味を見出すのは人間だけだ。生まれたから生き、生きているから死ぬ。
どうしてだか、ただそれだけのことに一喜一憂し、恐れ嘆き笑う。
分からないことを知るのは楽しかったけれど、知りたいと思うほど興味を抱けなかったのでどうでもよかった。どうせ答えなんてないのだ。正解のない答えは、万人が己だけが納得する答えを持っていればそれでいい類いだ。明確な答えのない回答は自分で見つけなければ意味がないので、探す作業が無駄である。いつか拾ったなら考えればいいし、拾わなかったなら持たぬまま終わればいい。ただそれだけのことだ。
人の声が重なる。重なって、歪曲し、響きねじ曲がり霧散する。世界中を覆っているのではと思うほどの音が重なっているのに、時にその音は不自然に途切れた。
途切れる寸前には、必ず厚手の布が流れる音がする。音を追う。重なる音を箒で掃くように、布が音を浚い、絡め、切り取った。
無為に音を聞いていた意識が徐々に繋がり、思考を始める。
研究室で机に突っ伏していつの間にか眠っていた時によくやる。私は今どこにいて、何をしているのか。何をしていて意識を途切れさせたのか。起きてまず、何をすべきか。眠る前に何かやりかけにしたことはないか。飛び起きなければならない事態であるか。
ぶつぶつと途切れそうになる思考を繋げ、一気に覚醒する。
「王子!」
「うわやめて!」
飛び起きた頭を何かが鷲掴みにした。上から力が篭められ、上げかけていた頭を大人しく下げる。状況を把握しようと回した視線を、一拍遅れて舞い戻った布が塞いだ。王子のマントだ。
「そこで飛び起きるな!」
顔を上げて、納得した。頭突きをしなくてよかった。
自分の位置確認は終わったので、次に必要なのは状況確認だ。地面に倒れている私の身体を跨ぐ王子は、上半身を捻って何かを弾いた。マントを捲り、周りの様子を確かめる。
成程。私の知識では何も分からない事態だと理解する。異常事態だとは分かった。
マントの向こうは、知らない世界だった。私の知識や経験が足りない可能性を最初から除外していい、無知の世界だ。
空に海がある。灰色の海だ。波は荒く、互いにぶつかって波飛沫を上げている。地面には空があった。灰色の、雨雲か雪雲か判断がつけづらい、どす黒い雲が渦巻いている。
無意識に感触を確かめていた。自分が倒れ込んでいる場所には確かに感触がある。けれどそこに土はない。床もなければ地面もない。遙か深く、遠く、空は続いているのに私達の身体は落ちていかない。
私達の周囲は黒い靄が囲んでいる。ただの靄にも見えるが、よく見れば人型にも思える。楕円形の靄は、動きながら端を割れさせた。それが手足に見える。天辺の部分が細い線で繋がり、新たな楕円となる。それが、頭に見えた。頭の部分にはへこませたのか抉ったのか分からない窪みがある。音はそこから出ているようだ。何かを言っている。
囲みの中から数体の靄がよろめくように飛び出て、その両手を伸ばす。
「――も」
「おま え も」
「おまえが」
王子に当たらないよう杖を起動する。大きさを変えた杖に魔力が通っていく。起動に問題なし。この空間でも、魔術を扱える証左だ。
「しね」
へこみを大きく歪ませ、裏返った口で己の頭を飲みこまんばかりの叫び声を上げた人型の首と想定される箇所を、王子の剣が切り裂いた。靄はぱっと霧散する。返す刃が残りの首を跳ね飛ばす。霧散した靄は、他の人型が揺れている中に戻り、また形を形成しているようであった。
それでもあっという間に六体を散らした王子は、ふーと静かな息を吐いた。もしかして、こうやってずっと、目覚めぬ役立たずを守ってくれていたのか。
「王子、好きです」
「くそ、こいつこの状況下でも何も変わらないのか!」
「王子にお手数をおかけしてしまい、大変申し訳ないとは思っています」
「こういう現象で魔術師の受ける損傷の方が大きいのは当たり前だろ」
「王子、好きです」
「ああ、もう! 馬鹿なこと言ってないで起きたのなら手伝え!」
再度飛びかかってきた人型を切り散らす王子が、私の上から退去した。しかし、そのついでに私の腕を掴んで引っ張り上げてくれるのだから、本当に面倒見のいい人である。
上がった視線で見渡すと、靄の塊は思っていたより数が多いようだ。見える限り遠くまで続く様は個々の人型には見えず、巨大な靄の塊があるようだった。
左方向には何か人工物がある。巨大な建物だ。よく見ると王城や見慣れた町並みに思えた。だが現実の物とは違い、城の中に町並みが溶け合った、奇妙な状態だ。それに、どれも赤錆塗れの廃墟に見える。あちこちで黒い靄が蠢く。天の海と地の空も、夕焼けより赤く染まっていた。
右方向には光があった。青空と青い海が広がり、靄は一欠片も見つけられない。
起き上がった私の背に、王子の背がつく。
「どうにか出来るか?」
「やってみます」
杖を構え、術式を組み立てる。構成するのは風魔術だ。望む形を解へと据え、式を導き出す。まさしく数学だ。杖を足元に打ち付ける。かんっと澄んだ音が高らかに響く。確かな質感を感じる音を発したそこには、何もなくても。
私を中心として、風が膨れ上がる。質量はどんどん増し、膨らんだ風船に押しやられるように靄が遠ざかっていく。先頭の靄は風の勢いに揉まれどんどん散っていくが、粉微塵になった靄ごと浚い、弾き飛ばしていくので問題ない。押し戻されていく靄の最後尾が、右にある青い世界に到達する。その瞬間、砕け散った。私の風で飛び散った様など比べものにならないほど細かく、徹底的に。砂の一粒よりも細かく解けた靄は、再生していないように見えた。
もう一度杖を足元へ叩きつけ、風の向きを変える。
「王子、私に掴まってください。全部右へ吹き飛ばします」
「わ、分かった」
剣をしまった王子は、私の両肩を掴んだ。
「かろうじて立っていられる範囲は、私の立ち位置だけになりますが大丈夫でしょうか」
「あーもー! 分かったよ!」
悲鳴に似た声を上げ、後ろから私のお腹へ手を回して抱き込んだ王子の足を挟むように、私も足の位置を変える。少しでも位置を重ねておかないと、王子に風の影響が出すぎてしまう。
腹に回った王子の腕に力が籠もるのを確認し、風の向きと在り方を変える。
それまでは私達を中心として膨れ上がらせていた風を、横殴りの突風へと変化させた。髪が激しく乱れ、目も開けていられない風が爆発的に流れていく。
私を中心として溢れ出させた風ならともかく、大群の左端に発生させた風を右端まで届かせるには、膨らませるのとは違った力が必要だ。そして発生させる魔力の量も桁違いとなる。節約する余地なく、ありったけの力で魔術を発動させた。
髪が視界の邪魔をする。髪留めが切れたらしい。いつの間にか私の腹から位置を変えた王子の手が、胸元から肩にかけてしっかり押さえてくれている。剣を扱うからか、私より余程しっかり立っているので助かった。私一人だったら立っていられなかった可能性が高い。
左から右へ吹き飛ばした靄は、青い領域に辿り着いた途端霧散し、どこかへ消える。消滅したのか移動したのかは分からないが、青の空間には塵一つ残ることはなかった。
やがて靄は尽き、私の魔力も尽きた。
一つまみも残らなかった靄にひとまずほっとし、がくんと抜けた力のまま膝を打ち付けようとしたが、王子に抱えられていて叶わなかった。
「大丈夫か!?」
「は、い。補充、します、から」
「うわ、全く大丈夫そうじゃない」
そっと下ろされたおかげでどこも打ち付けずに済んだ。腰を屈め私を下ろした後も、中腰の体勢で私の顔を覗き込んでくる。私はあまりいい顔色をしていないのだろう。王子の瞳が傷ましげに揺れていた。だからあなたは優しいというのだ。
ローブの下から取り出した小瓶の蓋を開け、一気に飲み干す。
「それは?」
「魔力です。私は液体へ魔力または魔術を溶かす手法を得意とする魔術師ですから。ちなみにそれに関する方法が特許です。雷雨の弾を私しか作成できないのは、あれは異なる魔術を幾重にも重ねているからです。ですからどんな防御も意味を成さぬまま、敵の上で弾けるのです」
魔力や魔術を溶かした液体に対象物を浸けることでそれらに魔力や魔術を付与することも出来るし、幾度も重ねがけて強化することも出来る。使い方によっては何だって可能だ。しかし、近年になってもこの手法で特許が取得されていなかったのは、この手法が純粋に難しいからである。今でも私にだけしか扱えない分野もあった。雷雨の弾などその最たるものだ。
魔石により魔術の保全が効くようになっても、魔力の補充は不可能だった。それを可能にしたのがこの魔術だ。
「現実とも夢とも思えない空間に我々がいるということは、現実では昏睡状態に陥っているものと推測します」
「だろうな。けどまあ、俺がぶっ倒れたらイェラに連絡が行くようになってるし、大丈夫だろ。あの魔道具便利だよなぁ………………お前、作った?」
「はい。病気で倒れるとも限りませんし、どんな不測の事態であっても発見が早くて困ることはないかと思いましたので」
「………………あの、現在所在地が分かる奴も?」
「はい。いまそれらの機能が一つになった物を作成中ですので、二つ持つ必要がなくなります」
「あ、はい」
「王子がこの影を日常的に使用してくださるのなら、この影にもそれらの機能を搭載しておりますので、何も持つ必要がなくなります」
「はい」
小瓶を空にすると同時に、失われた魔力が戻ってくる。元々自分の魔力だから拒絶反応もない。私が開発した魔術で同じように魔力の補充が可能になったが、篭められる魔力の濃度が違うらしく、いま私が飲んだ量を溜めたければ小瓶八つは必要になる。だがこの魔術が扱えるような魔術師は高位の魔術師だから、この程度の魔術で魔力が枯渇することはないだろう。
「お待たせしました。残ったのは、いませんね」
口元を拭いながら周囲を改めて確認する。相変わらず頭上で灰色に荒れ狂う海と、足元でどす黒い雲が渦巻く空は変わらないが、この場に存在するのは私達だけだった。
「あれが生還者が見たという黒い影か?」
「恐らくは。あっちにもいますが……どちらに進みます?」
黒い靄が多量に蠢いている赤錆色の建物がある左側か、靄が消え去った青の右側か。王子は難しい顔をして左右を見ている。
私も見ながら、滑り落ちてきた髪が邪魔で耳にかけた。荒れぬよう手入れを欠かさないから、髪は流れるように滑り落ちて鬱陶しい。荒れてボサボサであれば、互いが引っかかって簡単に耳にかけられるのに。いっそ切ってしまおうかとも思う。
ここでの負傷が現実へ帰還した際にどれだけ影響を受けるのかは分からないが、その確認にもいいかもしれない。意識を失う前に、魔法に跳ね上げられた左腕を痛めた。しかし今は何も痛みを感じない。あの勢いと痛みでは肩が外れたか折れた可能性もあるが、痺れも痛みもないとなると、あくまで影響を受けるのは精神的な物で肉体など物質間の連動はない可能性がある。魔道具を埋めた際に剥がれた爪も指に存在しているので、その可能性が高い。
「よし、左に行こう」
「王子、その剣で私の髪を切って頂けませんか?」
「何の話!?」
丁度王子が話し始めた段階で私も話しかけてしまった。重なった言葉を綺麗に聞き取った王子は、何故か悲痛な声を上げた。両手を腰につけている剣に当て、守るように腰を屈めて後退りする。
「ま、魔術的な何かで必要とか、そういう、感じ?」
「いえ、髪留めが壊れたので前髪も後ろ髪も邪魔だなと」
「そんな理由で女の髪を切る重圧を俺の剣に課すな!」
「重圧なんて必要ありません。帰還した際肉体に影響が出ないと推測されるので、適当に引き千切って頂けると」
「お前、あんまりじゃない……? 髪はお前が珍しくこだわってる場所だろ……?」
「王子に見て頂いたのでもういいかなと」
「雑すぎる……」
溜息を吐いた王子は、ぱたぱたと自身の身体を両手で叩き、ぴたっと動きを止める。
「探さなくても普通に持ってたわ。ほら、これ使え」
王子は自分の髪を一つに纏めていた紐を解き、私に渡した。
「俺こそ切りたいぞ。どうせ貴族の髪なんて見栄えと形見用だからな。俺の髪を形見にするような奴もいないし、切っていいと思わないか」
王子の紐をもらうのは悪いと思ったが、無言で目の前に突き出してくるので礼を言って仕方なく受け取る。適当に編んで纏めている間、王子は解いた髪を掻き上げて、鬱陶しげに払った。
「そうですね」
「……お前、仮にも俺が好きとか言うなら、自分が受け取るくらい言えんものか」
「王子が死亡している場合、私は先に死亡していると思いますので」
「……そういうことを言うな」
「王子が先に言ったんです。髪飾り、ありがとうございました」
言い返せなかったらしい王子は、目線を逸らした。
「まあいいさ。話を戻すぞ。駄目そうだったら右に行けばいいが、とりあえず左に行ってみたいんだが、どう思う?」
「分かりました」
「……相談しがいがない。せめて理由くらい聞いてくれ」
「分かりました」
がっくり項垂れた王子には申し訳ないが、私も左のほうがいいと思うので特に言うべき言葉が無いだけである。それを言えばいいのかなと思ったので、一応言ってみた。そうしたら、それを言えと怒られた。言ったのに。




