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32話

 ――ピシッ。 



 ひび割れた水晶球を目に、遊真はただ呆然とする。


 己の心に失望感ばかりが押し寄せる。


 運命は変えられなかった。結局、何も変わらなかった。


 無駄なことをしたに過ぎなかった。思いだけでは何も出来なかった。


 これから傍らに立ち竦む天使の予言通りの結末を迎えることになるだろう。


 これは全て予定通り。秘術が今日失われることも。すぐ様【混沌なる妖】が押し寄せることも。【ミズノアキラ】の転生体が秘術を使い、地上界を救うことも。


 そして、倉科涼子という名の一人の女性が、今日という日を境にいなくなることも。


 でも、抗いたかった。僅かでも運命を動かしてやりたかった。


 しかし、選ばれし英雄ではない遊真には、許されない事柄だったらしい。


 このまま膨大な魔力に圧し潰され、無残に身体を破壊される担任の姿など、とてもじゃないが見るに堪えられず、視線を即座下に落とす。


「ちくしょうっ!」


 苛立つ感情に任せ、震える手で水晶球を力の限り足元に叩き付ければ、むき出しの地面にぶつかり、今し方ひび割れた球体は乾いた音色と共にいとも簡単に砕け散る。


 遣る瀬無い思いを多分に含んだ欠片達は、上空で集う魔力の淡い光を反射し、星のように煌めいて、放物線を描いて方々に跳ねながらそのまま地面にばら撒かれ――。


「……なんだ、これ?」


 目を見開き、思わず溢す。


 瞬きをするも捉える景色は変わらない。


 遊真の瞳に映される光景は実に奇妙で、砕け散った水晶の欠片が四方八方に撒き散らされながらも、宙に描こうとした弧の頂点でふわりと止まり、地面に到達することなく浮いている。


 その様子は、まるで砕けた水晶の破片が重量を失い、重力から解放されているようだった。


 それだけではない。たった今、叩き付けた水晶の破片以外にも、先程から術の失敗の度に打ち捨てられ、ひび割れた球面を晒す水晶球までもが同様に、次々と浮力を得ていく様子が視界を掠める。


 更にその数は増加を辿る一方で、周囲に浮遊し始めた水晶球は何時しか遊真が所持していた物の数を明らかに凌いでいた。不可解に視線を彷徨わせれば、足元、いや、見渡す限り森を支える大地の彼処から染み出でるように生まれ、星を連想させる幾多の水晶が浮かび上がった。


「ねえ、これも……、遊真の術なの?」


 不安を隠せない流星の言葉に遊真も答えを持ち合わせていない。


 言葉を失い、だた眺めれば、遊真達の周囲を取り巻く仄かに煌めく大小の水晶達は、一つ一つ意思を持っているかのようにふわふわと舞い上がり、初夏の夜の蛍を髣髴させながら実に優雅に漂い、ゆっくりと高度を上げていく。


 そして、それは未だ上空にある倉科涼子の身体が目標であるかのように集い出していた。


 何が起こっているかわからない。そんな思いをしている最中ですら、足元から淡く光る水晶が地面をすり抜けて、倉科涼子目指して宙を舞う。


 ただ唖然として、その様子に目を奪われていた遊真の耳に、不意に優しい音色が滑り込む。


「この地は倉科涼子の前世、【ミズノアキラ】が秘術を使った縁の地」


 天宮鈴音だった。


 彼女は誰に伝えるでなく、見上げたままの姿勢で語り始める。


「今、舞い上がっているのは、前世の【ミズノアキラ】が秘術を使った後、本来は彼女に吸収されるはずだった魔力達。しかし、当時その反動により彼女の身を砕いてしまった魔力は留まる拠り所を失い、この地で永遠に等しい、永い永い眠りについた」


「えっ? じゃあ、この地の水晶って……」


「そう、貴方達が水晶と呼称しているこの地の水晶は、【水乃晶ミズノアキラ】に吸収されるはずだった魔力が取り残され、地上界で結晶化したもの。時代を越えて目覚めた魔力の結晶は【ミズノアキラ】たる倉科涼子の下に集い、しかし、物質化しているがため吸収されずに彼女を取り巻く」


 上空では膨大な魔力が渦巻く中、天使の言葉に従うように、淡く輝く結晶が倉科涼子の身体を守るようにして寄り添う。それは宛ら、彼女を中心に回る衛星にも見え、防波堤のように感じられた。


「倉科涼子が吸収すべく集められた魔力と、太古結晶化した魔力の量はほぼ同等。均衡した力同士により互いにせめぎ合い、程よく勢いを弱められた魔力はゆっくりと倉科涼子の身体に浸透する」


「じゃあ何よ。最初っからこうなる予定だったってことなの? 焦ってたあたし達が馬鹿みたいじゃない」


 流星が天宮の言葉を理解を示し、安堵と呆れを入り混じりに震える声を発すれば、


「いいえ、眠りについた結晶が自力で目覚めることは決してない。今回はすぐ傍に拠り代である倉科涼子の身体が存在したこと、そしてこの地で眠る結晶に呼びかける者があったから」


 と天宮が視線を向けた先は遊真だった。


「珠操師……、でござるか」


「そう、この地に根付きし珠を扱う一族。その者の力が必要だった。そして彼はこうなることを望んでいた」


 そんな歳蔵と天宮の交わす会話が耳するが、今はそんな理屈どうでもいい。遊真にとって今、この場に繰り広げられている光景の解説など必要ではなかった。


 とにかく知りたいのはただ一つ。それだけを求め、天使へと目を向ける。


 そんな遊真の眼差しに込められた意を悟ったのか、天宮は感情を僅かにも揺らさず微笑む。


「これにより、倉科涼子の未来は引き伸ばされる」


 その言葉に遊真は安堵し大きく息を吐き出し、肺に溜まり込む淀んだ空気の総入れ替えを果たすが、途端、急激な疲労に見舞われ、脚の力が抜けて崩れるようにへたり込む。


 どうやら流星と歳蔵も座り込んでいるのを察するに、天宮を除いた三人は同じように脱力の局地に達してしまったようで。そんな中、相変わらず魔法少女スタイルを維持していた流星が、未だ立ち竦む天宮を見上げて堪らず一言物申した。


「あんたさあ、なんでそんなに遠回しで面倒臭いことすんのよ。始めっから言いなさいよ、そういうの! 絶望損じゃないっ!」


 相変わらず笑みを貼り付けていた天宮は、


「私達は地上界に直接介入することを禁じられている」


 言いながら、微笑をやや深めた。


「しかし、人を導くことは許されている」


 この時、天宮鈴音の笑みが、遊真にとって初めて天使の微笑みに見えた瞬間だった。



 未だ淡く輝く魔力の渦が上空を取り巻く。しかし、大空にたゆたう倉科涼子の周囲に集う幾多の煌めく水晶に勢いを殺がれ、その流れを穏やかにしていた。


 時折、上空から「キン」とガラスを打ち鳴らすような澄んだ音色を奏で、砕けた水晶が仄かな光の粒となり舞い散る。それは深々と降る雪のようだが、地面に到達しても積もることはなく吸い込まれるように消えていく。 


 そんな神秘的な情景を見守るように眺めながら、担任の帰還を遊真達は様々な思いで待ちわびた。

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