33話
秘術【閂】により、【混沌なる妖】の脅威を退けられてから一週間。
地上界は暫し混乱の渦に取り込まれていたが、今では変わらぬ日常を取り戻し、現に遊真は自席にて頬杖を突きながら、朝のホームルーム前の一時をぼんやりと過ごしていた。
世間も天変地異直前にまで見舞われたにも関わらず、既に何事も無かったかのような沈静化の一途を辿っている。
少なからず関わりを持った一人としては、平和ボケした世の中に一言物申したくなるが、ふと担任に怒られて青ざめた召喚師・井中円香の顔が過ぎり、余計なことはすまいと自分に言い聞かせた。
そもそも現在における世間の危機感の欠落は、歳蔵達政府の素早い情報操作に基づいているものらしく、今回の事象についても日本政府経由で各国に「地球・太陽間に巨大隕石通過したものによる異変」と発表されるという、何ともまあエイプリルフール真っ青な嘘っぱちがワールドワイドに垂れ流されているのだ。
世界規模で大きく捻じ曲げられた真実など調べようもなく、また被害のなかった事件に関心を傾ける者が少ないのもあり、一週間前の地上界の存亡かけた出来事も自然と忘れ去られ、このまま平穏な毎日へと移行するのであろう。
秘術【閂】により【混沌なる妖】の脅威は遠ざかった今、変に騒ぎ立てする必要もない。守部としても社会の混乱は望むものではなく、静かに現状に受け入れるのみ。
(このクラスみたいにね)
と相変わらず余所余所しい教室内を眺め回したところで、視界の端に制服姿の自称天使がぽつりと座るその横顔を捉えた。
思えばこの数週間、彼女にいい様に操られていた気がしないでもない。
入学前の倉科涼子との出会いこそ偶然と信じたいが、黒髪の天使に屋上へと引っ張りだされたところを起点に、流星及び歳蔵と接触し、倉科涼子の運命を知らされ、校内での幻獣召喚事件に駆り出された後、倉科涼子宅に招かれる。そこまで関わり合いを持たされた挙句、秘術が失われる日に迎えに来られては、拒む選択肢は尽く潰され、必然、倉科涼子の下に向かわざるを得ない。
しかし、感謝こそあれ文句はない。地上界にとって、倉科涼子にとって、そして遊真にとって最もよい理想的な結果へと導いてくれたのだから。
ホームルームまで後一分。見上げた時計にそろそろ時間かと考えたところで、不意に尾てい骨が突き上げられる。
そこそこの衝撃だが、驚きこそあれ痛みはない。
恐らく椅子の座面を真下から蹴り上げられたのだろう。
そんな芸当が可能なのは真後ろの席以外は考えられず、そしてその席に座る人物が誰なのか思い出すまでもなく、忘れられようもない傍若無人な人物が頭に過ぎった。
暗澹たる思いで振り向き、足癖の悪過ぎる少女に目を向ける。
何故か不機嫌を前面に押し出す流星に、言い表せぬ不安を感じてしまう遊真だった。
「な、何さ」
「何、また天使の生態観察してんのよ」
「い、いや、別に観察なんてしてないけど」
「じゃあ何なのよ」
「うん、ちょっとね。今までずっと、天宮さんの掌の上だったのかなって思ってただけさ」
流星は寄せられた眉の内、片方を上げながら視線を横へとずらす。そして天使の姿を捉えたのであろう、再び機嫌を損ねるかのように唇を窄めて突き出した。
「っていうか、天使ってホント何でしょうね? どうも胡散臭いわ」
「まあ本人がそう言ってただけなんだけど……。一応天使の輪も見せてもらったし」
実際、彼女は倉科涼子という人物を知り過ぎている面があまりに多く、故に地上界の住人とは中々考え難い。ならば天宮が天使なのかと問われれば保証するものは何も無い。ここ数日、そうした問答が二人の間で繰り返されていたのだが、しかし全て終わった現状これ以上彼女の正体を詮索しても仕方がなく、結局、問い詰めてでも結論を出す気にならなかったのである。
流星はそのまま射殺すのでは思わせるほどの眼力で暫し天宮を睨みつけていたが、やがて、嘆息すると遊真へと目を向けた。
「アイツの正体なんてもういいわ。それに天宮に踊らされてたっていいじゃない。とにかくあの場で担任を助けられたのは葛城遊真ただ一人で、実際に遊真が担任を助けた。その事実だけは揺るがないのよ」
流星に改めて言われるのだが、未だ自分が担任倉科涼子を助けた実感は湧いていない。ただ、必死だっただけ。懸命だっただけ。終わってみたら助かっていただけなのだ。
苦笑する遊真に流星は更に続け、
「そして、その遊真をあの場に無事に送り届けたのはあたし。そう、あたふたと見っともなく逃げ回ってた遊真を【混沌なる妖】から助け出したのは、この、あ、た、し、なの。感謝なさいよね」
と小学生並みに貧相な胸を張る。
(流星だって、天宮さんに呼び出されたからあの場所にいたんじゃないか)
しかし、それは思うだけに留める。それを口にすれば、小さな魔法少女の虫の居所が悪くなるのが目に見えていたから。
と、話が落ち着いたところで、ホームルームを告げるチャイムが校内に鳴り響く。
それとほぼ同時に教室と扉が開かれ、ライトグレーのスーツに身を包んだ一人の教師が現れる。
腰元まで伸ばした黒髪を一つに束ね、縁無し眼鏡越しに知性を感じされる細面美人。その眼差しはどこまでも真っ直ぐで、とことん自信に満ちていた。一見、冷ややかな印象を受けるが、その実どこまでも優しく、ささやかな望みに喜びを見出す心根の持ち主が悠然と扉を潜る。
教壇の中央まで歩み彼女がローヒールを捻ると、教室の生徒等に向き直り、その瞳に厳しさと慈愛を滲ませながら自分の受け持つ生徒等を見渡した。
「では、ホームルームを始める」
微笑を湛え、落ち着きのある声を響かせる、その頼り甲斐のある佇まいがよく似合う。
一年D組担任、倉科涼子。そして彼女の受け持つ遊真を始めとした四十七人の生徒達。
このクラスの学園生活は、まだまだ始まったばかりである。




