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29話

 この場を支配する禍々しさとは異なる重々しい空気は、登校前を想像させるスーツ姿の倉科涼子が放っているのだろう。


 気後れしながらも彼女の下へと近づけば、倉科涼子は歩み寄る遊真と流星に気付く。


「なんじゃ、お主達も来てしまったのか」


 向けられた眼鏡越しの視線はどこか寂しげで、普段の自信に満ちた姿とは異にしていた。


 発した言葉にもバツの悪さが感じられ、担任はこの場に遊真達生徒が来るのを望んでなかったように窺える。


 その様子が、倉科涼子が人知れず、一人で全て終わらそうとしているような気がしてならなかった。


「先生……」


 遊真も思わず何か発しようと口を開くも続く言葉が生まれない。いや、問いたいことはあるのだが、あまりに核心を突き過ぎて何と声をかけて良いのかわからず、何度か開きかけた口を、結局、閉ざすに至る。


 未だ変身を続ける魔法少女もそんな空気に当てられたのか沈痛な面持ちで唇を一文字に引き結び、忍者は全てを悟ったかのように瞼を閉ざす。天使だけは相変わらず平常で、この場にありながらも笑みを絶やさなかった。


 暗雲立ち込める空の下。居た堪れない沈黙の中に、春にしては冷ややかな風が教師と生徒達との間に吹き荒ぶ。倉科涼子は前髪を乱されるが気にも留めず、適当に撫で付けた後、再び天空を見遣った。


「別れの時がきたようじゃ」


 諦めとも、覚悟を決めたとも似つかない、淡々とした呟き。


 そのあまりに早過ぎる決断は、己の置かれた現状を客観的に捉えた他人事の様であり、まるで感情が篭められておらず、もしかしたら彼女自身、まだ現実として受け入れられないのかとも思えてしまう。


「待ってくださいよ!」


 遊真は堪らず声を上げた。


「秘術を使う気ですか?」


 分厚い黒雲を見上げていた倉科涼子は、問われた中の「秘術」という単語にぴくりと眉を動かす。


「お主、知っておったのか……」


 反応から察するに、図星といったところだろう。


「全部知ってますよ。涼子先生が【ミズノアキラ】の転生者だってのも、秘術を使えば命が危ないこともっ! なんでもう諦めるんですかっ!」


 尻上がりに語気が強まり、感情が溢れ出る。


 遊真にはわからなかった。彼女が己の命をそんな簡単に手放そうとするその意味が。


 遊真は知っている。彼女は【混沌なる妖】と戦う術を誰よりも持っているのだ。


 それにも関わらず、倉科涼子は己の命を自ら切捨て、早々に決着をつけようとしている。


「今は守部が世界中にいるんですよ? 僕だって頑張りますよ。みんなだっている。何より涼子先生が一番その力を持ってるじゃないですかっ! 一緒に戦いましょうよっ! 約束したじゃないですか。卒業したら、一緒にビールを飲みましょうってっ!」


 遊真の必死の叫びが薄暗い森に木霊する。


 そんな生徒の想いを受け取り、倉科涼子は静かに目を閉ざした。


 彼女は微笑を浮かべながら暫し物思いに耽っていたが、ややもして両の拳を握り締めると目を見開く。


 その毅然とした眼差しは遊真の双眸を射抜いていた。


「無理じゃ」


 明確なる拒絶。


 遊真は倉科涼子の気迫に押されながらも、その理由を問わずにはいられなかった。そして一歩踏み出し、「何故?」と問い掛けを浴びせようとした刹那。


 突如、足元からの激震と共に頭上から更なる忌まわしき重圧に襲われた。


「なっ!」


 大地が揺れ、身体を下から突き上げられながら、空からも重苦しい空気に押し潰され、背骨が悲鳴を上げかねない錯覚に囚われる。何が何やらと理解不能に陥る中、遊真は錯乱する頭を宥めた。


 落ち着きを取り戻すために視野を広げ、毀れている情報を拾い集めるが、この場にいる遊真以外の者は皆、縦揺れに踏ん張りながら天に視線を向けていた。


 恐らく何かを見つけたのであろう。遊真もそれを望むべく震える両脚の筋肉を叱咤しながら、顎を持ち上げ、そして絶句した。


 天空に浮かぶ分厚い黒雲を、押し退けるようにしてそれは現れた。


 烏の翼。一言で言い表すならばそれが適切。


 しかし、その歪な菱形を模ったような一枚の翼はあまりに黒く、大きく、天空に浮かび上がった不浄の大陸とでも言い表すのが相応しい。日本上空全てを覆い包まんとしている禍々しい姿は、視界に収めているだけで背筋が凍り、得も知れぬ吐き気を催す。


「あんなの……、無理よ。敵いっこないわ……」


 流星が思わず後ずさる。常に不敵を前面にして、先程も【混沌なる妖】を容易く屠った魔法少女がそれを瞳に捉えた途端、表情を不安一色に染め上げていたのだ。


 その溢した本音は地上界のありとあらゆる生命の代弁をしており、今まで目にしてきた【混沌なる妖】がどれ程可愛げがあったか。遊真は歯向かう気力を根こそぎ奪われていた。


「彼の者は【傾翼】。【混沌なる妖】第六位に位置し、主には及ばないものの、天上界の住まう方々に匹敵する力を持っている」


 淡々と語る天宮の言葉に、遊真は先に大口を叩いた自分を恥じた。


 そして、倉科涼子が遊真の意思を拒絶した理由にも納得した。彼女は今訪れる災厄が人如きの力で抗える存在ではないと理解していたのだ。


 自然、遊真の瞳は担任の姿を捉えたがる。それは耐え難い本能からの欲求だった。しかし、今、目を向けるのは彼女に頼ると同義で、即ち倉科涼子の人生の幕引きを願うも同然。


 遊真は懸命に堪えた。それだけはしてはならないと、瞼を固く閉じ、下を向く。


「すまぬな。約束は守れそうになさそうじゃ」


 ぽつり、呟く声を耳にした。


「お主らの気持ちを嬉しく思う。じゃが、安心せい。せめてお主ら生徒の未来は儂が作り出して見せよう。それが儂の役目であり、教師の務めというものじゃろうて」


 静かに囁くような声。それは自分に言い聞かせているようで次第に熱を帯び、力が篭る。


「誰にも悟られぬようにと思っておったが、最後にお主らの顔を見れたのは寧ろ良かったのかも知れぬ。お陰で憂いなく、決心がついたというものじゃ」


 何時しか彼女の声は、社台学園の教壇で語る自信に満ち溢れた教師のモノになっていた。

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